なんの予告もなしに突然日本に、東京に、新宿に戻ってきた葉佩九龍は、薄く水気を帯びた瞳で皆守甲太郎を見て、
「 」
と、言った。
その深夜、寮の暗い室内にふいに湧いた不審な気配を夢現ながらも的確に察した皆守は、音もなくベッドを抜け出ると必然の対処としてまず侵入者を蹴り飛ばし、ドアまで吹っ飛んだそいつが大きく呻いて床に崩れ落ちるのを欠伸をしながら眺め下ろして、それから部屋の明かりをつけた。
侵入者は九龍だった。
およそ三月半ぶりの再会だったが、九龍は国内外地上地下問わずどこで何をしていようとお前ほんとはヒマなんじゃねえのかと疑いたくなるマメさでメールを寄越してきていたので特に懐かしいというほどのこともなく、しかしやはり当たり前に驚いた。一体どういうつもりだと盛大に眉をひそめる一方で、ドアには鍵が、とハンターランク常時ひと桁の若き有能トレハン相手に果てしなく無意味な愚問がつい浮かび、皆守はうんざりとそれを脳裏から追い払う。脳細胞がまだまともに働いていない。仕方がない、つい十秒ほど前まで夢の中だったのだ。
両腕で鳩尾を抱えて身体を折り曲げていた九龍は、衝撃で中身が逆流しかけたのだろう、片手で素早く口を塞ぐと大きく喉を上下させ嚥下音を立ててから、皆守を見て、だって今日は甲ちゃんの、と言った。続きもあったようだが言葉にする前にまた口を押さえて喉を鳴らし、額に薄く汗を滲ませる。
今日は俺の、なんだ。その答えに思い当たるまでに皆守は五秒以上要した。仕方ない、寝起きだから。寝起きに真っ当な働きを為すのは闘争本能による条件反射だけ。
そんなことのためにわざわざ帰ってきたのかと皆守が呆れると、九龍はまだ片手で口元を覆ったままうっすらと涙の浮いた目で皆守を見上げ、てのひらの下から低くくぐもった声で言った。
「俺は甲ちゃんの愛人になりたい」
四月十二日、午前零時のことだった。
愛 人
It loves
most.
皆守は一瞬目の前が暗くなるような逃避感に襲われた。馬鹿につける薬を処方してやってくれと保健医兼臨床心理士にマッハかつ真顔で丸投げしたくなったが、保健室はおろか校舎もとうに閉まっている真夜中だ、皆守の切実で無責任な願いは通らない。愛人、と皆守はおそるおそる頭の中で反芻し、とりあえず、聞かなかったことにした。
吐くか? と訊いて皆守がトイレのドアを指差すと、九龍は恨めしげな目をして吐かないと答え、ふらりと立ち上がった。寮内に九龍がいる光景を久々に見たが、それが当たり前だった頃の記憶はまだ微々とも褪せていないのでやはり取り立ててなんの感慨もない。まったくの非武装(であるように見える)ため、真っ当な一般人と映ることに若干の違和感を覚える程度だ。
そんなことを思いながら皆守が腕組みをしてすこし目を眇めると、九龍も何か含むところがあるような視線を向けてくる。無事卒業を果たした皆守がいまだ寮で暮らしていることに絶大な疑問と違和感があるとでも思われているのなら返す言葉もないが、特に言い訳をする必要も皆守は感じない。
望むのであれば卒業後も寮室を使っていいと阿門が許可をくれたとき、皆守はふたつ返事でその好意を受けた。学園に残るのなら客人として阿門邸に招くとも言われたのだが、さすがにそれは固辞した。お前とひとつ屋根の下なんて冗談にしても寒いぜと皆守がアロマをふかすと、阿門はぴくりとも表情を動かさず、それでいてひどく得心がいった様子で、それもそうだなと言った。皆守は思わず笑ってしまった。阿門は変わらず無表情だった。
留年したのだという実しやかな噂に付き纏われながら(響は人に訊かれるたびに否定してくれているようだが夷澤にはまるでその気配がない)、昼はマミーズの、夜はバー・九龍の手伝いを始めた。そのことを九龍にメールしたときの返信ときたらそれこそ光の速さだった。『奈々子と一緒に働いてんの!?ヒナ先生とルイ先生酔わしてどーする気なのきゃーエッチ!甲ちゃんずるい!』
遺跡で落とし穴にでも落ちやがれと皆守は思った。カレーと睡眠と仕事で一日を使い切ってしまいたいところを、毎日暇を見てはボクシング部や柔道部に潜り込んで身体を鍛えているのはなんのためだと思ってるんだ。ついでにGUN部やデジタル部にまで出入りしているのは一体なんのためだと。
縛られてではなく自らの意志で学園に留まっていること、それが許されるこの境遇に感謝すら覚えているいまを、皆守はまだ時折夢のように思う。
九龍は片手で腹を押さえたまま皆守を素通りしてよろよろとベッドに歩み寄り、勝手知ったるとばかりに勢いよく倒れ込んだ。仰向けになって片足ずつブーツを脱いでは床に放り出す九龍に、おい、と皆守は低く声をかける。
「ここで寝かして。一緒に寝て」
張りのない声で言うと九龍は布団に潜り込み、皆守が何を答える隙もなくあっという間に寝息を立て始めた。いきなり不法侵入してきて世にもレアな迷言をほざいたかと思えばなんのフォローもなくマジ寝。なんなんだ一体、と皆守は呆気に取られ、次いでにわかに困惑し、すこしばかり腹立たしくなって、けれど最終的には諦観の境地でただ溜め息をつくしかなかった。
九龍が脱ぎ捨てたのは見覚えのありすぎる黒のコンバットブーツだったが、皆守の目に馴染んだ土汚れや擦り傷はほとんど見当たらない。履き込んだ様子もないので同型の新品なのだろうと埒もなく考えながらブーツを玄関に置き、部屋の電気を消して、そしてすこしだけ迷ったあと、皆守は仕方なく九龍に半分占領されているベッドに入った。
壁に背をへばりつけ心臓を下にして疲れ切った様子で眠る九龍を見、すこし痩せただろうか、と思う。九龍とひとつベッドに入る窮屈さと熱が、ほんのわずか、以前よりも薄らいでいる気がした。
安堵するような鬱陶しいような圧迫感に皆守が目を覚ましたとき、室内も窓の外もまだ暗かった。息苦しさの原因は夢現に予想していた通り、眠ったままいつの間にかしがみついてきている九龍だった。縋るように皆守の首を抱き締める様はまるで甘え盛りの子供だが、その腕力の強さには微塵の幼さもかわいらしさもなく、強引に引き剥がそうにもどうやら無理だ。
仕方なく力尽くを諦めて抱き締め返してやると、安心したのかすこし九龍の腕が緩んだ。おかしいような、それでいて不安にも似た気分になって、皆守は九龍の首筋をぎゅうと唇で噛む。九龍はぴくりとも反応せず眠り続けている。例え歯を立てても起きなかったに違いない。眠るときにも常に意識の表層に警戒を敷く九龍が、いまはただ無防備に寝入っている。くだらない優越感が皆守の不安を浸食し、やがて闇の彼方へ押し流す。
午前八時、携帯電話のアラーム音で皆守は二度目の目覚めを迎えた。九龍は相変わらず皆守に抱きついたままで、絶えず右の肩にかかる寝息が小さな熱の吹き溜まりをつくっている。何度か声をかけたが返事はなく、皆守の肩口に埋められた顔も微塵も上がる気配がない。寝息がなければ死んだかと疑いたくなるほどだ。
皆守は枕元の携帯を取り上げると、マミーズの店長に直接電話を入れた。嘘とも本当とも言えない「急用」を理由に、今日は休ませてもらえないかと頼んでみる。明日の賄いに特製カレーよろしくね、と安いのか高いのかよくわからない交換条件を出されたが、無事に欠勤の許可を得た。
携帯を閉じながら、これは九龍に対する甘やかしだろうかと皆守はぼんやり考える。離れないものは暴力に訴えてでも引き剥がし、起きないものは置き去りにして仕事に行くのが正しい在り方なのだろう。わかっていながら正しく行えない後ろめたさを腹の底に溜めたまま、皆守もまた九龍の背に腕を回し、眠りに落ちる。
次に目覚めたときには、日はすでに傾いていた。窓からの濃い斜光が依然皆守を離さずにいる九龍の髪を燃やすように照らし、砂漠ででも焼けたのだろうか、荒れた毛先は夕日と同じ色に輝いている。
寝すぎた、と学生時代であれば正気を疑われかねない真っ当な感想を抱きつつ、皆守はわずかに顔をしかめる。九龍のせいで寝返りの一度すら打てず延々と同じ体勢で横たわっていたため、さすがに身体が軋む。枕に押しつけた右耳が痺れるように痛んで、顔だけでも天井を向こうと首と左肩を動かすと、薄紙一枚ほどの隙間すらおそれるように九龍の腕が力を増した。
どこかの遺跡で悪い呪いでももらってきたのだろうかと、皆守はにわかに心配になる。九龍の様子がおかしいのはもはや限りなく普通のことだが、人としての頭の悪さ、トレハンの常識イコール一般社会においての非常識、あるいは闘争本能剥き出しの物騒さからくるおかしさと、今日のこれはどこか違う気がする。過去に例を見ないイカレた発言もしていたし。意識的に思考の裏側に追いやっていた問題の単語を、皆守は渋々表に引き戻す。
「何をどう間違ったら、愛人なんてことになるんだ」
皆守が低く呟いた途端、なんの前触れもなく九龍が起きた。皆守の肩に伏せられていた顔は唐突に真正面から皆守を見据え、爛々とひらいた瞳にはつい一秒前まで確かに死んだように眠っていたという痕跡など欠片もない。
「甲ちゃん」
「な、」
「俺こないだインドの山ん中で夜明けの連中に追い回されてるときに急に思ったの。愛とか恋とかって不変じゃないし唯一無二でもないんじゃないかって。同時にいくつも存在するし順番だって結構簡単につけられる。いちばん好きな人が愛してくれて一緒にいてくれるのにほかにも欲しくなるから愛人つくるんだとしたら愛人のほうが本物だと思わない? 二番目が本物じゃないなんてルールないよね? だったら俺は甲ちゃんの愛人になりたい」
「待て、お前言ってることがおかしいぞ」
無意識に顔と声を強張らせながら皆守が口を挟むと、そうだね、と九龍はまばたきをひとつしてあっさりと肯定した。
「バディとはぐれてほかの班とも分断されてね、弾は切れるし装備は負けてるし追っ手多くて撒き切れないし、これもしかして最悪死ぬか殺すかなんじゃないのって、人、殺さなきゃなんねえんじゃねえのって思ったら、めちゃくちゃ、テンパって、」
九龍の口端が一瞬引き攣れて震え、皆守は緊張とともに彼の顔を凝視する。笑みを浮かべる気がして背筋が冷えた。
「そしたら、甲ちゃんの愛人にしてもらわなきゃって考えてた」
九龍は真顔を崩さなかった。冷えた皆守の背筋は急激に熱を取り戻し、けれどひどく寒気がした。
「自分でも呆れたっつーかほんとよく生きて帰れたっつーか。でもすごい収穫だよね、マジでやばいかもって思ったとき俺は甲ちゃんのこと考えるってわかったから」
「……もっと実のある収穫をしろ」
本当に言いたかったのはそんなことではなかったが、皆守はそう口にするだけで精一杯だった。ついていけない。寝起きに滔々と生死の話をしてのける九龍の歩んできた世界にも、その環境ゆえに構築されたのかもしれない彼のおかしな思考回路にも、おそろしいほどの愛の言葉にも。まだとてもついていけないと思い知る。
九龍はそこでようやく普段のふやけた笑顔を見せて、命綱を握るかのように頑なだった腕の力を愛しさとやわらかさで溶かし、皆守の頬にかぶりついた。キスの一環だと嘯いては動物然と食いついてくる九龍を、いままで幾度もしてきたように容赦なくグーで殴り、今度こそその腕を引っぺがしてベッドから抜け出ると皆守は大きく伸びをする。ボキボキと鳴る背骨の音が聞こえたらしく、だめじゃん甲ちゃん身体なまらしちゃと九龍が何も知らない呑気な顔で言ったので、ついでに踵落としも一発見舞っておいた。
その後皆守は千貫に連絡をしてバーの仕事も休みをもらい、慣れないシェーカーを振る代わりに、九龍のリクエストで夕飯のカレーの鍋を掻き回すことにした。鍋に気を配りながらふと見ると、目覚めたあともベッドから出ようとしなかった九龍はふたたび熟睡していて、本当に一体何をしにきたのだか。
「だって四日寝てなかったんだもん」
安らかな寝息を立てているのを今度は遠慮なく叩き起し、遅い夕食を取りながらどれだけ寝る気だと皆守が呆れると、九龍はカレーを平らげる勢いとは真逆にもそもそと言い訳するみたいに答えた。
「労働基準てもんがないのかお前のとこには。それじゃ使える人材も使えなくなるだろうが」
「だってそれぐらいがんばらないと調査終わらなくて今日帰ってこられなかったんだもん」
「あのな、さっきも言ったが」
「誕生日おめでとう、甲太郎」
今日に重要性なんてないと言おうとした皆守を遮って、九龍は満面の笑みを見せた。おかわり、と犬が舐めたようにピカピカの皿を差し出してくるのを受け取りながら、恥ずかしいやつだなお前は、と皆守は不覚にも火照りかけた顔を背ける。何か欲しいものある? と嬉しそうに尋ねてくるのに答えずミニキッチンに立つと、返事を待たずに九龍の声が追いかけてきた。
「俺の誕生日がきたら、プレゼントに愛人にしてね」
その話はまだ続いていたのかと皆守は大きく溜め息をつき、カレー鍋を火に掛け直す。しばらくためらい、それから、九龍を見ないままゆっくり口をひらいた。
「俺は」
「うん?」
「お前以外を欲しいと思うことはたぶんないから、愛人は無理だな」
言った直後にもう後悔した。ガラガッチャン、いってえ! と派手な音と悲鳴が上がって嫌すぎる予感に皆守が部屋の奥に目を戻すと、九龍がスプーンを握り締めて立ち上がっていた。その足元で折り畳み式のローテーブルが引っくり返っている。テーブルにのっていた水の入ったグラスの行方は考えたくない。
九龍は勢い余ってテーブルを蹴り上げたらしい膝をさすりながら、見ている皆守のほうが恥ずかしくなるような喜びに満ちた目を向けてくる。皆守や宝物壷やオブジェクトや新しい得物を見るときの九龍の目の輝きはいっそ純真とさえ言える、遺跡絡みの諸々とひと括りにされているなど認めたくはないが。
「ありがとう甲ちゃん!」
「ああ、こっちこなくていいぞ」
「俺も甲ちゃんしかいらない!」
「こなくていい!」
飛びついてくる九龍を鍋の蓋で防ごうとしたが当たり前に無理で、結局抱きつかれて諸共こけて強か腰を打った。痛みの余り声もないところへ九龍が唇を重ねてくるので、声どころか呼吸すらなくしそうだと眉をしかめつつ、皆守はとりあえず本能で、火に掛けたままのカレーの心配をした。
2009.4.25
/ 皆守誕生日おめでとう! 遅れたけどおめでとう!
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