It foxes.
 コココ、と人工的に窓ガラスが鳴った。約束もしないのに毎夜毎夜律儀なことだ。いつも通り皆守は苛立つ。
 カーテンの隙間、ガラスの向こう側に人の顔が覗く。ゴーグルに押し上げられて乱れた前髪、一重の細い瞳。室内の明かりを映して一瞬漣のように金色が走ったと思った。キツネのようだ、と脳の片隅に埒もない偶感が浮かぶ。本物のキツネなんて見たことはない。
 窓の外の葉佩は勝手に窓をあけ、サッシにつかまった片手で身体を支えながらひょいと片足を室内に突っ込む。施錠されていないと知りながら毎度ノックをし、そのくせ迎えはおろか返事も待たずに入ってくるので結局不法侵入と大差ない。無駄の好きなやつだなと以前言ったら、コミュニケーションが不得手なので、と一端の、しかしどこか的外れな答えを返してきた。
 純粋の日本人に見えるが長い海外生活の弊害か、読み書きは完璧なのに会話となると覚束無いことが間々ある。不自由なのではなく、言葉を省略しすぎの節が多々。口で無駄を嫌う分が動作に出るのだろうか。
 化人相手にもいたずらに手数が多く負けはしないものの危なっかしいので、もっと有効な戦法を取らないと冗談抜きでそのうち死ぬぞと忠告したら、以来ぷっつりと夜間の不法外出にお呼びがかからなくなった。
 こんなことで機嫌を損ねるとは存外ガキだなとつい意地悪く笑ってやりたくもなったがどうやら見当違いで、日中は何変わることなく話をするし屋上で昼寝のときもマミーズでカレーのときも帰宅部ゆえの早々の下校のときも常につるみっ放しのだらついた不変の日々。唯一変わったのは墓荒らしの共犯として薄暗い地底遺跡で右往左往の憂き目を見ずに済むようになったことと、相も変わらずいそいそと荒らし続行中の葉佩が、毎夜こうして探索への出発前にわざわざ訪ねてくることだ。しかも大概、正規の出入り口を無視して。その無駄な労力とアクティブさの標的にされている理由が皆守にはわからない。
「そこは本来出入りする場所じゃない。それからここは三階だ」
 わからないから苛立つ、しかし葉佩の無駄極まりない行動の意味を問いただすのは苛立ちに勝って億劫で、皆守はただ忌ま忌ましさに任せて冷ややかに葉佩を見る。葉佩は残ったもう片足も室内に引き入れて軽やかに床に降り立つと、整然と並ぶ白い歯をニカと見せた。
「おれトレハンだもの」
 納得できるようでいて、これもまたずれた答えだ。胸を張ってそう名乗るならさっさと宝のところへ行け。
 葉佩は、縁日帰りのこどもが手に下げている金魚やミドリガメ入りのビニール袋みたいに、片手に絡めた靴紐の先に愛用のごついブーツをぶら下げている。あれはイギリス陸軍の標準支給品に似ているねえ、いや正にそのものだ、靴底に挟まった小石たちが声を揃えてそう言っているよところであの小石たちを再び広い世界に解き放ってあげるために九龍君のブーツの裏を見せてもらいたいんだけどいま足をつかんだら彼は転ぶと思うかい? と以前墓地に向かう途中で黒塚に耳打ちされたのを思い出す。
 なんでお前がイギリス陸軍の支給品なんて知ってるんだ石がそう言ってるなんて俺は信じないからなっていうかお前に石以外の無駄知識があったことがまず驚きだぜっていうかなんでいきなり足をつかもうとか思うんだひとこと言えばいいだろうがまああいつが転ぶならそれはそれでおもしろいがおい待て黒塚なんだその無駄に隙のない前傾姿勢はスクラムでも組むつもりかおい待てってタックルはまずいだろタックルは、と言いたいことが多すぎて何から口にしたものかと困惑している隙に黒塚は躊躇なく行動に出てしまい、それなりにおもしろい結果にはなったが問答無用で皆守も巻き込まれたので愉快な思い出とは言い難い。以来、黒塚を連れていくときは俺は呼ぶなと葉佩に切実に念を押したのに、バディ招集されて待ち合わせ場所に行ってみれば葉佩と黒塚が揃って無言で石を拾いながらうろうろしていたりすることがその後も一度や二度ではなくて、それも密かにわりと根に持っている。
「今日は誰を連れて行くんだ」
「咲重さんと充」
 葉佩はブーツをゆらゆらさせながら、窓際に立ったままそれ以上進もうとはしない。またすぐに出ていくのでそのほうが合理的。人として冷たいと映りかねないそういうところだけ無駄がない。舌打ちを殺してベッドの端に座ったまま、皆守も動かない。
 いま葉佩が名を挙げた二人や、ほかのバディ連中に自分が劣っているとは思わない。貴重な睡眠時間を削って遺跡探索に引っ張り回されたいわけでも、実力(実力? アロマ吸ってうとうとするだけですが何か)を認められたいわけでもないから、そんな物思いはそもそも皆守には不要だ。葉佩があからさまに遺跡探索から皆守を遠ざけている事実に、ただ際限なく苛立ちが積もるだけ。なんて無駄な苦痛。
 葉佩が皆守を探索に連れて行かなくなった理由なら本当はもう知っていた。葉佩の不可解な行動を面倒だと思いつつ気にかかって仕方がないのに原因を確かめるのもまた面倒で(違う、知るのがおそろしい?)パッシブに日々をやり過ごす自分がいちばん面倒だ。と、自我をコントロールできないこどものように常時イライライライラしていたら、昨日ついに、お節介な女がカレーにプリンをぶち込むごとく要らぬ答えを投下してくれた。
 最近皆守クンぜんぜんいっしょに遺跡行かないよねえ。まあ皆守クンが行きたがらないのは別に普通っていうかいいんだけど九チャンが皆守クン誘わないのは変だよ、あんなに仲良しなのにおかしいよ。だから気になって九チャンに訊いてみたんだ、ねえ皆守クンまじめに聞いてよ、九チャン言ったの、
『甲はおれを庇うかもしれないからいや』
 皆守クン、もっと上手に戦えって九チャンを心配してあげたでしょ? そう指摘できるってことは皆守クンにはもっと上手な戦い方っていうのがわかってて、いまみたいにサポートしてあげるだけじゃなくて、ほんとに危なくなったら九チャンを守ることだってできるってことでしょ? 九チャンはそれがいやなんだよ。自分のせいで皆守クンがケガするのがこわいんだよ、九チャンは!
 言い募るうちに八千穂はだんだん涙声になり、最後はこらえられなくなったように唇を噛んで俯いた。しわが寄るのも構わずスカートの裾を握った拳を小刻みに震わせる彼女に対し、教えてくれてありがとう八千穂“お節介”明日香さん、と冷笑ついでに吐き捨てそうになった自分の愚劣さに目眩がしたが、ああ本気で礼のひとつも言ってやりたくなる、そんな身の毛がよだつような理由一生知りたくはなかった。そしてついでに心からありがとう八千穂、これは決して歪んだ意味ではなく本心からの感謝と安堵、一般生徒である俺が戦術立てて化け物から葉佩を庇えるという不自然に気づかずにいてくれて。
「じゃあいってくる。おやすみね」
 真情を曖昧に薄めたような笑顔で葉佩がひらと手を振り、皆守に背を向けた。皆守は烈火のごとき視線をその背に走らせる。言うな、と脳から切羽詰まった指令が下される。
(誰がお前を庇うって?)
 理性は決定的に欠乏していた理性と酸素が同じものであるならそれこそ酸欠でもう先はないというほどに(言うな)生理的に命をつなごうと足らぬ酸素を求めてあまりにも簡単に口はひらき声は死人のように澱む(言うな!)
「俺はお前を庇ったりしない」
 葉佩が振り返ってすこし悲しそうに眉を下げた。反して口角はかすかに上がる。片足はすでに窓のサッシにのっている。
「でも甲はおれが大好きでしょう」
「気味の悪いことを抜かすな」
「だから庇う」
「アホを庇って自分の身を危険にさらす趣味はない」
「You're liar」
 葉佩は薄く笑った。その表情は、どこか異国の静かな悲しい映画に登場する美しい女が、二度と戻らぬと決めて故郷を出る朝に置いていく恋人に見せる微笑のようだ、とどうしようもないことを皆守は思う。壮絶な妄想だ、気味の悪いのは俺だ。
 夜風が葉佩の髪を揺らしている。頬には大きなガーゼが不格好に当てられ、テープで幾重にも留められている。この男は自分の怪我の世話さえろくにできない。生きているのではなく生き延びている身で人の心配なんて反吐が出る。
 口元に被さりそうなガーゼをくしゃりと歪めて葉佩がまた笑った。今度はこどものように。
「連れていってあげられなくてごめんね」
「っあー……」
 皆守は両手で顔を覆ってうなだれた。このままベッドから転がり落ちて床にうずくまってしまいたい。
「なに?」
「いま全力でお前を殺したくなった」
「Wonderful!」
 おどけた笑い声に皆守が顔を上げたときには、葉佩の姿はもうなかった。しかしまだ声がする。
「甲」
 窓のサッシに絆創膏の目立つ指がつかまっていた。指先が力んだかと思うと、懸垂の要領なのだろう、にゅ、と両目と鼻先までが覗いた。もともと切れ長の目がさらに細まり、笑ったのだとわかる。人ではないもののようにひかる瞳。やはりキツネだ、と思う。
「そのうちね」
 短く言い残して葉佩の顔は窓の向こうに沈み、なんの未練もなく指も離れ、物音のしないまま気配は消えた。ぞっとした。皆守は自らの両腕を掻き抱き、身体を折って膝に額を押しつける。腹の底から何かが迫り上がって喉を塞ぎ、吐く、と浅い呼吸をくり返したが奇妙な寒さに身体が震えるだけだった。
 そのうち、って、なんだ。
 そのうち 俺が おまえを こ
 ぼろ、と涙がこぼれて皆守は心底驚いた。立ち上がって大股で窓へ寄り、力の限り乱暴に閉め、ビリビリとガラスの鳴くうちに鍵をかける。拭うのを忘れているので頬へ顎へと涙が伝いあちこちに散った。
 明かりも消さずベッドにもぐり込み、頭まで布団を引きかぶる。頼むから早く寝てくれと普段であれば三秒で落ちる脳に懇願した。窓の下に気配が戻ったのには気づかなかった。地面を擦る足音さえしたのに、耳に入らなかった。
 やがて、見た夢は、雪原を駆ける金目のキツネ。凍えきって動けずキツネを追えぬまま、空腹に死にゆく猟人。
 翌朝目覚めて、もう覚えていなかったがいい夢だった、気がして、腫れた目で皆守は笑った。

It foxed...

 2008.7.16
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