『会いたくないのでこのまま行きます』

 衝撃、というほどのこともなかった。動揺もしなかった。とうに感じていた暗い予感と諦めに澄み切った目で、皆守は携帯のディスプレイを見つめる。消灯した深夜の室内で四角く輝く画面に目を細めれば、無意識に鈍く笑んだ唇の端でアロマパイプが不安定に揺れた。いつも通り、眠い。
 会いたくないと味気ないデジタルの文字で便利な通信手段でシンプルに過ぎる感情を真っ向から告げて寄越した男は、実際、あの日から皆守の前に姿を見せていなかった。
 あの日の翌日は互いに終業式を欠席し(葉佩が出てこなかったことはあとで八千穂から一方的に聞かされた、おまけに申し合わせてさぼったのだと断定形の疑いまでかけられた)、冬休みに入ってしまえば必然、教室で自動的に顔を合わせることもない。
 墓の下に連綿と息づいていた底知れぬ闇が崩壊したあの日、その暗黒に飲まれることを選んだ皆守を、葉佩は生涯許しはしないだろう。
 すでに態度で示していたことをわざわざ言葉に変換してみせるなんて律儀なことだ。三割は素直な驚きと感心、残り七割は卑屈な自嘲に囚われながら、皆守はのろのろと携帯のボタンを押す。許せないと思うなら、記憶ごと捨てて、遠く追いやって、なかったことにだってできるだろうに。この胡乱極まる学園での非常識な日々でさえ簡単に忘れてしまえるほど、苛酷で特異で多忙な日常をこれからも送っていくはずなのだから、あの男は。
『元気でな』
 我ながら虫酸が走るような愚劣な返信だと思ったが、改めたところで所詮瓦石を積むばかり。ベッドの中で身体を丸めたきり寝返りすら打てないほど全身が重たいのは、そうか胃の腑に小石が詰まっているからか、言葉を吐こうとすればそれが食道を迫り上がり喉を抜け出てコロコロと口からこぼれ落ちるシュールな妄想を皆守はする。気持ちが悪い。しかし泣き言や嘘や、その正しさゆえに刃物に等しく尖る真実を告げずに済むなら、いっそ幸福であるような気分にもなった。ああ気持ちが悪い。さっさと眠ってしまいたい。
 布団から出した冷えた手の中で、携帯が震える。

『べつに怒ってないけど最後だから言っていい?怒ってないけど。言い訳もしないって何様。すぐにあやまるのが日本人の国民性は?寝てるの?それいつまでなの?目閉じて見ないですむならそうしたいですか。おれだって正直そのほうが楽。でもおれはそんなに長く目つぶっていられない。甲に会いたくない理由わかりますか。死なないでってあのときおれ言ったけどいま会ったらおれが甲をころしてしまいそうだから。ええと おこってはいません』

 普段は片言かというほど断片的にしかしゃべらない葉佩にしては饒舌なメールだった。怒りが過ぎて嘘がつけなくなっていることより、殺意を覚えていると明かされたことより、 最後 の文字だけが皆守の網膜を焦がし脳裏に焼きつく。
 最後
 当人同士そう望んだのだから当たり前であるのに、実際黒々とディスプレイに並ぶ文字として突きつけられれば受け入れがたく、メールを打ち返す指が震えた。
 違う俺は会いたくないわけじゃない、と皆守はいまさら届かぬ言い訳をする。皆守は葉佩を避けたつもりはなかった、終業式をフケるなんて呼吸をするように自然なことだ。葉佩が俺を避けさえしなければ言い訳だってできたし業火のごとき怒りを受け止める覚悟だってあった。葉佩のせいだ、と臆面もなく思う自分に吐き気がする。あいつのせいだ。
『俺を責めたいなら直接言えばいい』
 送信し、おのれの心根の醜さに皆守は項垂れる。
 このまま行く、と日付も変わったこんな時刻にメールを寄越したということは、葉佩は明日、正確にはもう今日、学園を発つつもりなのだろう。だとすればまだ寮の自室にいる可能性が高い。蛍光灯の照らす潜まった白い廊下を、葉佩の寮室へ向かって音もなく歩む自分を想像し、幽霊のようだ、と皆守はなんの感慨もなく思う。眠気が頭痛のように思考を締めつけ、身体は鉛のように重い。

『会いたくない』

 葉佩からの返信は簡潔で早い。絶望のような、安堵のような、薄暗く生あたたかい目眩がした。携帯のボタンの上で指が動かない。文字なんてろくでもない、なまじ形に残るから隠し事に向かず、その癖なかったことにするのも容易だ。紙なら燃せば、デジタルならボタンひとつで、簡単に塵芥、消去。
 そんな脆弱な手段で幕引きなど認めない、その殺意を引っ提げて手を汚す手間と不名誉を厭うなら、せめて声で告げてくれと、皆守は祈るように欲する。いますぐ声が聞きたいと、女々しく願った。
 しかし皆守は葉佩の携帯番号を知らない。墓暴きへの呼び出しはいつもメールか、寮のドアを叩かれるか、日中の校内で早々に言い渡されるかだったし、そもそも葉佩はH.A.N.Tとかいう優秀(らしい)な小型情報端末でメールを操っていて、まさか持っていないなんてことはないのだろうが、携帯を使っているところを見たことがない。
 つまり電話で話したことはないのだといまさら気づく、この現代においてそれはひどく特異であり、けれどいつだって直接肉声の届くほど自分たちは近しくいたのだという証明であることもまた特異であると感じた。
『お前は卑怯だ
 俺に償いを諦めさせたくせに』
 凍えたように震える指で必死にメールを打つ自分が、滑稽でならない。お前の身勝手な罪滅ぼしを台無しにしたのはおれじゃなくて双子だと、葉佩は怒りのあまり冷たく凝固した声と瞳で、冷静に訂正するだろうか。けれど葉佩に拾われた命だと皆守は思っている。
 最後になんてしたくない。認められない。
 次第に冷静さを欠く危うい頭と心で駆け引きめいたメールを続ける理由なんて、最初からひとつだけだった。皆守を好きだと言った葉佩、あの日、愛を撒き散らすように死ぬなと泣き喚いた葉佩を失いたくない。手放したくない。俺のものだ。
『お前は俺を諦めるのか』
 送信して一分と待たず、電話が着信した。非通知だったが葉佩だとわかった。「最後」を壊すため、葉佩の「自由」を殺すために謀った渾身の文字が、見事に彼の決意を砕き去った。
 とらえた、と、皆守は弱々しく笑い、震え続ける無機物を壁に投げつける。
 卑怯なのはどっちだ。

 

 

抱きしめられたい針鼠

 

 

 2009.2.11
 
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