NOT A TRAP !!

  

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 うふふふふふふ、とものすごく低音の不吉極まりない笑い声が背後でする。発生したのはすこし前、崩れかけた長い階段をのぼった先の石壁が素敵に全壊して通路を塞いでいてまたかよこれで何度目だと悪態をつきながらもとの階に引き返したあたりからだ。最初はすぐおさまったので放っておいたのだが、わずかもたたぬうちに再度うふふふふ、断続的に開始されただけのことだと押し寄せる疲労感とともに知った。しかもついてくる。行動をともにしているのだから当然なのだがつかず離れずついてくる、うふふふふ。
 うざい! と怒鳴って振り返りざま背後の人物の頭めがけ、繊細なしかしそこらの鈍ら刀よりよほど頑丈なロッドをフルスイングしてやりたい衝動を、ルックはどうにかこらえる。師とこの手の紋章と何より自分のプライドが、そんなどこかの血統書つきチンピラお坊ちゃまみたいな真似は許さない。
 そうこいつと同列になるなど堪え難いと思えば瞬時に冷静さは取り戻せる、ルックは冷えた溜め息を短く落とすと、年齢に似つかわしくない、しかし容姿にはあまりに似合いの凍てついた目で振り返った。
 完全に俯いて歩いていたマクドール家子息は、気配を察したのか単に床に落ちたルックの影の動きを見ただけか、ぴたと立ち止まって顔を上げた。片手に持った松明の火がその顔を照らす。口元は締まりなく薄笑っているがおそろしいほど目が笑っていない。むしろ目だけ臨戦態勢。
 思えば初対面のときもそうだった、ルックの仕掛けたクレイドールを倒したあともマクドールは同じ笑い方をしていた。あのときは脳みそがちょっと振動中なのだと思っていたが(何しろあまりにも正面きって突っ込んでいくものだからクレイドールの巨大な右ストレートをもろに顔面に食らっていた、鼻血を噴いた上に確かぎゃふんと叫んだ)、マクドールが笑みを浮かべた途端のお付き連中の苦笑い、特に彼の隣から脱兎の勢いで跳びのいたテッドとかいう少年の行動の意味がいまならわかる気がする。マクドールの不気味な笑いはキレる兆候なのだ、たぶん。
「いい加減それやめてくれない? 耳障りなんだけど」
「おかしいと思わないか石板守り」
 ルックの要求に、マクドールはまったく噛み合わない問いで返した。人の話なんて聞いちゃいない。ここは自分が大人になるべきだとルックは冷静に思ったが、絶対にマクドールのほうが年上なのにと内心不満を覚えずにはいられないあたり、大人に徹するにはまだ未熟だ。
「何が」
 会話を成立させるべく訊いてやったら、
「おーかーしーいーでーすーよーねえー!?」
 マクドールはキレた。馬鹿みたいに明るい大音声が、狭く薄暗い石の廊下にわんわんと反響する。フルスイング未遂でどうにかこらえていたロッドを、砕けたプライドとともにルックは躊躇なく振るった。うるさくて馬鹿なんて死に値する。マクドールは華麗によけたそして口も止まらない。
「ここはどこなの!? トラン湖の城ですよええわかってますよ、で、その城のどこなんだよここはよおかしいだろあんだけ行き止まりだらけで通れないとこばっかだったのにいつの間にか帰り道わかんないって、ねえ風使いさん! ここほんとにまだ城? ほんっとに城ん中? なんか別んとこ出てんじゃねーの湖底遺跡とかいやマジでマジでマジで!」
 マクドールの振り回す松明から散る火の粉を避けて一歩下がり、帰りたい、とルックは心底思った。遣わされてまだ一日とたっていないがもう本気で帰りたい魔術師の塔へ。勘弁してもらえませんかレックナート様、僕とこの連中は合いません性格的に常識的に、絶望的に。
 トランの霧の城に巣くっていた魔物を叩き出した晩、まだやっと出発点に立ったに過ぎないのにすでに終結を迎えたかのように緩みきった宴会の席で、いっちょ探険でもすっかあと言い出したのだ、べろべろになった熊が。熊の戯言に同じく酩酊した漁師のヒゲのほうがすかさず同意し、一滴も飲んでいないのに酔っ払いどもと同じテンションのマクドールが俺も俺もと無駄に全力で挙手をして、じゃあ私も行くよとおそろしいペースで飲んでおきながら顔色の変わらないマクドールのお付き二号の女、酔狂なことだと横目に見ながら退席の機会を窺っていたルックは、もちろん同行する気などさらさらなかった。のに、「親睦を深めよう風使いの石板守り! えーと名前なんだっけ!」とマクドールが伸し掛かってきて、おまけに熊の馬鹿力で首根っこつかまれて問答無用でレッツ探険。あそこで切り裂きをためらった優しさが敗因だったと、いまとなっては海より深く後悔している。
 坊ちゃんのためなら火の中水の中、というか危ない真似は断じてさせませんのお付き一号は珍しくついてきていなかった、なぜなら熊がアホを言い出したとき席をはずしていたからだ。熊はマクドールを速やかに連れ出すためにお付き一号がいない隙を狙った節がある、酔っ払いのくせに変なところにだけ気が回る。
 しかしもう危険はないと踏んだから熊も無防備に探険なんて言い出したのだろうし、実際最初のうちはモンスターの残っている気配どころか到るところ壁が崩れていて新たな通路もろくに発見できず、城に侵入したルートをただ逆行しているだけに過ぎなかった。つまらんとか眠くなったとか言って早々に引き返したヒゲ漁師とお付き二号は大正解だ。
 ルックだって引き返したかったしそもそも行くと言った覚えがなかったが、マクドールと熊に両脇を固められていて逃げられない。眠らせたり切り裂いたりに訴えれば逃れるのは容易だったが我慢して付き合ってやっていたのは、どうせじきに船着き場に出てこのくだらない探険も終わると確信していたからだ。それが最大の不正解だった。
 マクドールと熊と三人になって間もなく、どこをどう間違ったんだか変に入り組んだ場所に出て、ここは通った覚えがないと俄然浮かれ出す馬鹿二人、進むにつれて着々と迷子の予感、マクドールはうふふふふ、いまや立派に遭難中。入り組んだ見知らぬ場所とはいえ、通行不能箇所も多く実質一本道みたいなものだったのに、なぜこうまで見事に迷ったのかルックにもわからない。完全に城の深部に入り込んでしまったようでどこにも窓は見当たらず、空気がろくに動かないので風も読めない。
 霧はおさまっているしモンスターの気配もないが、幻術の類いの罠をルックは疑ってみる。しかしこの自分をして微塵も魔力を感知させずに呪を放つ魔物(もしくは人? であるならば紛う方なき敵襲だ)がこんな辺鄙な地の打ち捨てられた古城にいるほうが、現状のアホ迷子より余程ありえない気もする。
 ルックの隣で、ここがもはや城じゃないとすれば! とかまだわめいているマクドールが丸腰であることからも、敵の不在は確かだと言っていい。と思う。ルックのように気配や魔力の流れを探るのではなく、信じがたいことに単なる直感のようだけれど、マクドールの敵を察知する能力は並外れて高い。魔術師の島でルックが一行を出迎えたとき、唯一マクドールだけがルックを見ず、クレイドールの出現を予期しているかのように中空を見据えて棍を握っていた。
 先程宴の席を立った際、熊は帯剣していたが、マクドールは棍を携えようとしなかった。いいのかいとルックが尋ねると、どうせもうなんも出ないしと答え、手燭があるのになぜわざわざ松明など持ち出してきたのかと訊くと、なんか出たときこっちのほうがぶん殴りやすいしと晴れやかな笑顔を見せた。彼の辞書に矛盾という言葉はないのだろうか。
 そこでルックはふと、薄情にもやっと、元凶の熊の姿がないことに気づいた。この状況においてただひとり、酔っ払い特有の上機嫌で酒瓶片手にふらふらとマクドールの後ろを歩いていたはずだが、いつの間にか影も形もない。
「マクドール、熊は?」
「熊より猪が好きです」
「誰が肉の話をしてるんだよ。ビクトールはどうしたの」
 え、とマクドールは背後を振り返った。すぐにルックに向き直る。
「いない」
「……そうだね」
 ルックは錯覚でなく頭痛を覚えた。なんだこの理解不能というか限りなく無益な会話は、望む答えがまず返ってこない。自制心を保つため、ルックはマクドールから視線を逸らして静かに深呼吸をした。自分が非力な魔術師でなく剛腕の戦士であれば、間違いなく目の前の少年(本日付けで上司)をぶち殴っていた。理性やプライドの問題でなく、とにかく痛い目見やがれこんにゃろうという飾らない心持ち。ああだけどそんなアホにはなりたくない。
 松明の炎をゆらゆらと映す薄暗い石壁に向かってどうにか気持ちを落ち着け、ルックはマクドールに目を戻す。熊がいなくて問題あるのかとその顔に書いてあるので、まあいらないけどねと口に出して答えてみると、だよな、ともっともらしく頷かれた。いやだ、こんな会話の通じ方は。
 ルックがふたたび歩き出すと、マクドールもまた後ろから足音薄くついてきた。うふふふふの発作はとりあえずおさまったようだ。熊はおそらく酒が回って途中で眠り込んだか床の穴に落ちたか壁の割れ目に嵌まってでもいるのだろう。大事ない、たぶん。探しに行くのも億劫だ、というか根本的に心配する気が起きない。
「石板守り」
 ふいに呼ばれ、ルックはマクドールを振り返る。と同時に、一方向になびく松明の炎を見るまでもなくルックも気づいた。風だ。
「こっち?」
 左方向に緩く流されている炎を顔の高さにかざしつつ、マクドールが右手の壁を指差す。朽ちかけた壁面に目を凝らすと、深い亀裂と見えていた部分が、どうやら脇へと入る細い通路であるようだった。人ひとり通るのが精一杯のその隙間へ、ルックは迷わず足を進める。せまい、と微塵の工夫もない感想を漏らしながらマクドールもついてくる。なんのつもりなのかローブの背をつかもうとするので邪険に振り払うと、せっかく親睦を、とかぶつぶつ言っていた。どこまでもうざい。
 いくらも行かないうちに、前方に見えていた闇が色を変えた。べたりと重苦しい黒から、小さなまたたきを無数に浮かべた濃い紺へ。星空だ。
 ようやく出口かと思えば安堵とともに全身が鉛のごとく重くなる、二度と熊とマクドールに流されたりすまいと心に決めて通路から外へ出、ようとして、ルックは正直その場にしゃがみ込みたくなった。
 確かに外には出た。が、果たして念願の脱出と言えるのかどうか。
 頭上に星空はあるが足元に地面がない。つま先の遥か下に黒い湖面が見える。つまり、散々迷った末に出た場所は、絶壁に穿たれた穴だった。しかもどうやら城の最上部に近く、出入り口とするには限りなく無理がある。道が通っていた以上、昔はおそらく見張り台にでも使われていたのだろうが、現状そんなものなんの役にも立たない。普段なら無条件で心地好いはずの風がやたら冷たい。
 なんで僕がこんな目にとかやっぱり速やかに切り裂いておくべきだったとか、後悔こそ人生最大の無駄とわかっているので極力考えまいと努めたら、代わりに殺意がこんにちはした。熊は殺す、マクドールも半殺すとなかば本気で誓いながら、ルックは苛立ちに任せて勢いよく踵を返した。
 ら、歩みを止めていなかったマクドールがすぐ目の前で道を塞いでいて、お互いよける間もなくぶつかった。一見マクドールと大差ない体格のルックだが、実際比べれば断然肉は薄いし体重も軽い。必然的に衝撃で後ろに弾かれ、よろけた足は床ではなく空
(くう)を踏み、足場を失った身体は簡単に湖へと真っ逆さま。
「ひえっ!? ちょっ、嘘お!?」
 マクドールが悲鳴じみてわめいたが、ルック自身は反射的に声を上げこそすれまるで動じなかった。風の助けを借りれば落下速度を緩めて安全に着地することも、落下自体を止めることすら造作もない。
 が、ルックが呪を唱えるより一瞬早く、マクドールの片手がルックの左手首をつかんだ。がくんと空中で身体が吊られ、振り子の原理で容赦なく城の外壁に叩きつけられそうになるのを風を緩衝材にして危うく防ぐ。顔の真横を松明が熱と火の粉の尾を引いて炎の矢のように落ちてゆき、髪の先をわずかに焦がしていった。
「大丈夫か、石板守り!?」
 助けたいのか怪我をさせたいのかと怒鳴りたい衝動は、珍しく緊迫したマクドールの声に掻き消された。見上げると、腹這いになって通路から上半身を大きく乗り出し、左腕を目一杯伸ばしてルックをつかまえている彼の姿が目に入った。あんな危なっかしい体勢でよくも支えがきくなと、空中にぶら下がったままルックはすこし感心した。
「平気だよ。上げられるかい?」
「まっ、かし、とけええェ!!」
 雄叫びとともに身体がすこし浮き、そのままじりじりと持ち上げられていく。おそらく右手一本で床の亀裂にでもしがみつき、左腕だけでルックを引き上げているのだろう、おそるべき馬鹿力。正直つかまれている手首が痛いので落としてもらって自分で着地したほうが楽なのだが、そして頭上でおうりゃああああと気合いを入れまくるマクドールが若干鬱陶しいのだが、その努力に免じて一応おとなしく吊られていてやることにする。
「くっそ、ビクトール捨ててきたのは失敗だっ、た」
 マクドールが歯を食いしばりながら何やらぼやいている。ルックは宙ぶらりんの足の下に視線を落とした。湿った風が水の音と匂いを運んでくる。黒い湖面が月光を反射して、ところどころてらてらと輝いている。
 城内に捕らわれていたときはうまくつかめなかった風の巡る道筋も、外気に触れたいまなら易々と感じ取れる。大半の部分が現在は行き来不能だが、おそらくこの城は相当広い。そして執拗なほどに古い、風の生きている場所と死に絶えている場所の差がありすぎる、話にならない。器がこれでは中身もろくなことには、
「石板守り! なに楽してんだ、ちゃんとつかまってろ!」
 ルックの不吉な物思いをマクドールの大声が遮った。落ちた際の無事に確信があるからのん気なものだ、ルックは上の空のまま、力を抜いていた手でマクドールの手首を適当につかみ直す。こんな器にまともな連中が集うと思うのか、そもそも頭からしてすでにろくでもな
「ルック、無理かも。重い」
 そういうことを抜かすときだけまともに名前呼んでんじゃねえ。ついマクドールばりの罵声を炸裂させそうになり、ルックはかろうじてこらえた。落としても許してやる、だから頼む僕を解雇してくれマクドール。
 眼下の湖面にも勝って暗澹たる自分の明日を思い、ルックはたぶん人生最大の溜め息を吐いた。暴言とは裏腹にマクドールが決して手を離さないだろうことが心底残念だ。

 

 

 2008.7.2
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