錆びた冠

 

 

 

 鈍色の雲の垂れ籠める天に青白い光はまるで刃。近づく雷帝の蹄、間もなく雨がくる。
「きみたちに、話しておきたいことがある」
 青く厚く葉をつけた幾本ものわたしの腕の下で、年若き王が呟いた。急ぎ望んで大人になったかのような美しい顔と、首の後ろで束ねた長く冷たい髪をしている。純白に銀糸の織り込まれた凛とした衣装が、年と不釣り合いな冷ややかさを一層引き立てる。
 王の双眸はひどく厳しいが、元来淡く優しい眼差しに生まれついた子であるから、いまのそれはきっと紛い物なのであろう。人というものは不可思議だ、虚が実であれと望むばかりか押し通し、ときに血を流し大地を焼き世を歪めても罷り通す。
 紛いの目をした若き王は、ジョウイ・アトレイドといった。いまは違う。
 王はアトレイドでいたいと望んでいた、正当で単純な希望はしかし容易に冷たく打ち砕かれ、捨てるに惜しい名ではなくなった。それをいま、真実捨てるに至ったいまこそ最も愛おしく感じるなど、なんたる皮肉。
「きみたちに話したいことが、たくさんある」
 王はまた呟いたが、辺りには王のほかに人影はない。にわかに雲が厚さを増した低い空と、荒々しく騒ぎ始めた風に枝葉を震わせるわたしだけが、いま王に拝謁している。
 わたしが根を張り育ったこのちっぽけな高台に、王はひとりきりでいる。
 高台の下には、いまはもう住む者のない古びた道場が建っている。寂れてなお温もりと優しさを内包するその建物を、王は懐かしげに眺めては、また高台をぐるりと見渡した。
 ここは王の幼い頃の、いちばんの遊び場であった。仲の良い少年と少女と三人、いつも元気にじゃれ合い駆け回っていた。
 しかしいま、王はひとりきり。
「聞いてくれるかい? 僕は名前が変わったんだよ。新しい名前を教えたら、きみたちはとても驚くだろうね」
 王の声は澄み切って明るい。瞳だけが尖ったまたたきを重ね、いまの空模様に勝る速さ、明確さで、危うい闇を積もらせてゆく。
「どうして僕はいま、きみたちに会いたいだなんて思ってしまうのかな」
 薄れようもなく記憶に刻まれた彼らの姿を、声を、腕を温もりを愛を求め、王の心が引き攣れた軋りを上げている。枯れゆく花が水を乞うようなその悲鳴がわたしには痛いほど響く、このままでは王は死ぬ。心が死ぬ。
「馬鹿な話だね」
 ゆるりと笑うと、王は突然、地に爪を立てた。手や衣装が汚れるのを厭いもせず、憑かれたようにわたしの足元を掘り起こし始める。
「きみたちの手を離したのは僕なのに」
 土中にまぎれていた石塊の角で爪が削られ、白い指先が真っ赤な血を噴いた。驚き逃げ惑う小さな虫たちの柔らかい殻が王のてのひらの下で、拳の中で、次々に潰れてゆく。
「すべて、僕が自分で望んだことだ!」
 血と土に塗れた王の指が何かに触れた。わたしの根の隙間に密やかに隠され長く眠っていたその優しい正体を、わたしは知っている。いま暴くべきでないことも知っている。その幼く他愛無い秘密が埋められて以来、久方振りに外気に晒された根が寒い。
 王は目を瞠り、息を詰めた。ほんの刹那、安堵のような、泣き出しそうな、すべてを終えてもう何もないような笑みが、王の面を掠めた。
 しかしその脆い表情は、すぐにはらはらと剥がれ落ちて失せた。王は、目を合わせた者の心臓を余さず貫き殺すであろう氷柱の視線で、土の奥に埋まっていたものを冷たく見据える。否、その間があったかどうかも定かではないほどまた唐突に、掘ったばかりの穴を埋め戻し始めた。
 両腕で土をかき集めては乱暴に穴の中に放り込み、幾度も拳で打って固め、最後にその上に叩きつけた右手に額を押しつけて、王は身体を丸めて地に伏した。
 最もしてはならぬことを、しないと固く誓ったことを、いま王はした。歩みを止めた。過去を振り返った。思い出に逃げ込みたいと欲してしまった。
 王はかつて、誰よりも何よりも大切な者たちを傷つける道を自ら選んだ。決しておのれを折らず、戦い抜き、大切な者たちを守るためだった。
 故に、王に後悔は許されぬ。弱音を吐いたが最後、王の命は、彼らを守れぬままに潰えるだろう。裏切って、泣かせて、犬死にか。
(ころすぞ)
 悲しみにまばたくごとく静かな稲妻が空を走り、ひと粒、滴が落ちた。
(殺すぞ、ジョウイ・ブライト!!)
 咆哮じみた王の魂の声を、わたしだけが聞いた。心底呪わしくおのれの名を呼び、震える腕で懸命に身体を支え、王はゆっくりと顔を上げる。土で汚れた頬にひとすじ細く伝うのは、たったいまぶつかって流れた雨の滴、涙ではない。決して、涙ではない。
「 ナ、  」
 乾いた唇をかすかに動かし、しかし王の掠れた声は、誰の名も呼ばぬまま湿気た空気に溶けた。
 濃鼠の空の下、王はまっすぐに立ち上がる。見る見る大粒の雨に変わった滴の群れが、まるで王を高台から追い立てるかのように、毅然たる痩身に激しく注ぐ。
 わたしに背を向け、王は歩き出す。振り返ることなく地を蹴るように進むその様は、冷たく、気高く、かつての優しさも弱さも何もかもを足跡にして泥濘んだ大地に捨ててゆく。
 王はもう戻らぬだろう。大切な少年も少女も、もうここにはいないのだから。
 否、彼らがいたとしても、王は二度と帰ってはこない。
 王はいま、真実、おひとりで歩き出された。

 

 

 2004.11
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