畢生の、

 

 

 

「恨んでいるのかい」
 訊かれて、否定も肯定もないうちからただ当たり前に安い笑みを浮かべる自分はもはや悪魔か畜生か。
 革手袋をはずした右手の甲を隠さないかわりに、モモアルマは強く拳を握る。紋章の巣くったのがてのひらであればよかった。握り潰したと儚い錯覚に溺れられたかもしれない一瞬でも、せめて。
 モモアルマと並んで夜の窓辺に佇むローレライの黒髪は、闇に溶けるように静謐だ。同じ色の冷えた、しかし人の温度を失わない瞳はあまりまばたきをしない。沈黙が答えを急かしていると卑屈に錯覚し、モモアルマは胸中で舌を打った。
 なぜこんな話になってしまったのだったか。夜半にひとり、城の回廊の窓から湖を眺めていたところへローレライが通り掛かった。常であれば目礼のひとつもしてやり過ごせばいいだけのことだ、しかしこの正体の知れない(自分で勧誘しておいてなんだが)(そもそもこの城には素姓の怪しい者などまったく珍しくもないが)旅の女の勘は鋭く、そして存外冷淡な質でもないらしかった。解放軍の指導者にして英雄たる少年が、年相応に脆い顔をしてひとりきりで夜の湖など見つめていれば、考えていることはひとつと容易に踏んだと見える。
「重いかい、その紋章は」
 ひとこと目にそう切り出した彼女をすくなからず驚愕の表情で見返してしまったことをモモアルマは早々に悔いたがあとの祭り、反応を示してしまえば話の転がる先は決まったも同然だ。なぜなら城の誰もが知っている、『モモアルマ・マクドールの死の紋章は彼の親友より託された』。
 それでも、恨んでいるのかとストレートに問われたのははじめてのように思った。仲間ではあるが根元の部分では部外者だからこそ濁しもせずに口にできるのだろう、そのくせ決して軽々しくも興味本位でもない飄々とした気遣いらしきものが忌ま忌ましい。
 モモアルマは石の窓枠に両腕をのせて猫背になったまま、自分より長身のローレライを斜めに見上げる。窓に背を向けて腕組みをしているローレライは、顔だけを静かにモモアルマに向けている。表情に乏しく冷静だが冷淡とはほど遠いこの手の女は苦手だ、と思った。きっといつまででもモモアルマが口をひらくのを待つだろう。右手の甲がじっとりと熱い。
 あなた馬鹿かローレライ。馬鹿だろう、よく見て抜かせこの仕打ちおかげでいまこのありさま恨まずにいられるやつがいるなら聖人か神様だな生憎俺はそんなおめでたい存在じゃないんですよええ恨んでます恨んでますとも魂かけて許さないこの右手が生あるものに牙を剥くおぞましさ熱めまい痛み欲望飢え渇き飢え飢え飢えおまえは知っていて俺に押しつけた何が守れだ死にやがってこんなものだけ置いて消えやがって守れなんておまえの命さえ守れなかった俺 に
 テ ッ ド
 案じてくれる人々にそう吐き出せればまだ正気だった、しかしモモアルマの唇を飾るのは冬の日差しのようにかわいた笑み、口からこぼれるのはあまりにもありふれてうつくしい言葉。
「恨んではいません」
 嘘をついて痛む良心などとうに擦り切れて失せた。
「悲しいだけです、自分の運命も、あいつを救えなかったことも」
 一秒後に同じ口で本心を語る無節操さはもとから持ち合わせていた。
 ローレライが薄く笑ったので、嘘を見透かされたかとモモアルマはすこし構えたが、そうではないようだった。まっすぐに向けられる瞳が思いのほかに優しくて、本音を読まれるよりよほどドキリとした。
「運命を悲しいとは言ってやるな。その運命のもと、おまえに出会えたことを喜んでいる者も大勢いる」
 モモアルマは黙った。考えたこともなかった。解放軍に身を投じ命さえ賭して働いてくれる者たちは、確かに皆モモアルマを慕って集まったのだろう。その多くとの出会いや絆がこの呪われた紋章の継承なくしてはありえなかったなんて、なんて皮肉。
 しかしモモアルマの天秤は実に明解だ。宿星、得がたい絆、目前に迫った真の平和、そのどれを片皿にのせても、もう片皿の上のテッドの存在の重さには及ばない。たとえすべてを同時にのせたとしても、天秤は迷いなくテッドというただひとりに傾く。
 月光を浴びる両手を、モモアルマは強く握りしめた。青白いひかりの中、大鎌を振りかざして暗く輝く紋章が殊更色濃く禍々しい。この冥府の王を宿し三百年間苦しみ続けたテッド、その苦痛を長引かせてでも生きてほしかった、表面上だったとしてもいい楽しげに毎日マクドール邸の扉を叩くそんな彼でいてほしかった、自分は何も知らず安穏と親友面をしていたかった。
 あの日常が壊れさえしなければおまえの真実なんてどうでもよかったと本心から思っている親友などとよくも名乗れたものだ、だけどお互いさまだよなあ親友?
(おまえは俺を呪ったんだから)
 高い足音が響いて、モモアルマは我に返ると同時に、指先が血の気を失うほど強く握りしめていた両の拳をゆるめた。モモアルマに一歩近づいたローレライが、すぐ隣で死の紋章を見下ろしていた。多くの者がしたように、おそれるのでも、宿主であるモモアルマを憐れむのでもなく、ただ『ソウルイーター』というものを見ていた。
「すべてのために必要なものだったんだろうよ、重くとも」
 話の上でしかモモアルマとテッドを知らない他人事の、おそらくこの上なく正当なのだろうその言葉に腹は立たなかった。すこし気が楽になった。いずれ必要なくなるときがくる、ソウルイーター。
 はずしていた手袋をはめ直す。ローレライはそれを見届けると、おやすみのひとこともなく立ち去ろうとした。ローレライさんとその背に呼ぶと、無表情に振り返る。月のひかりを受ける漆黒の髪、白い肌は無機質に見えるのに不思議と冷たくはなく、ただ凛と映った。
「あなたには生涯の友がいますか」
「生涯の」
 ローレライは単調にくり返し、すこしだけ考えるように眉を寄せた。
「敵ならいるが」
 モモアルマは笑った。
 テッド、俺たちもそうであればよかったな。おまえを思うたびに悲しむことも苦しむことも、愛しさなのか憎悪なのかもう区別もつかずに泣くこともなく、ただ呼吸をするように純粋に、おまえの思い出を抱きしめていられた。

 

 

 2008.3.14
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