貴方の御手は天に

 

 

 

 モモアルマ・マクドール。
 いまや軍神、その名を知らぬ者なし、暴虐なる赤き帝国を崩せよ若き運命の星。
(偶像)
 迷惑なことだとモモアルマは口の中で毒突いた。自室の窓の幅の広い張り出しに座り、右足をぶらりと外に垂らす。足の下を通る水気を含んだ風は、狩りをする獣のように冷徹で速い。遥か足下のトランの湖面は夜を映して不気味に黒光りし、断崖のごとき城壁は闇をまとって一層険しい。
 危機感なく爪先を宙に遊ばせながら、モモアルマは疲労とも安堵ともつかず深く息を吐いた。こうして窓辺に根を張っては呆けることを好むモモアルマを、馬鹿馬鹿しいまでに心配する男がかつていた。屋敷の飾り窓でも城の切り窓でも一階でも二階でも、危ないですから下りてくださいと血相変えてすっ飛んでくる素早さに変わりはなかった。飛びついてきて引きずり下ろそうとするおまえの勢いのほうがよほど危ないと、万が一落ちたとしたら誓って原因はおまえだしそのときは二人一緒だぞと、いったい何度悪態をついたことか。どんな文句も嫌味も通じない、本当にただうるさくて優しい男だった。
 目的なく力もなく、モモアルマは革手袋をした右手を夜空に差し伸ばす。高さだけは十分に頭上にかざした指先越しに、美しく果てのない星嵐がいやというほど目に染みる。
 運命の星は天より降って地に輝き始めたと、どこかの町はずれで老いた占い師が言った。安い予言はいつしか早馬のように各地を巡り、如何ようにも意味を変えうるその無形の言を、民衆はもっとも望む形として歴史浅い解放軍に当て嵌めた。
 世の流れは容易で、そして激しくとどめようがない。運命というものが真に存在するなら、モモアルマのそれは怒濤のごとく呪われた。ただ、そんな穢れた光でも人々の目に希望と映るのならば、絶やさぬように命を賭けるさ。
 伸ばした右手で拳を固めたところでふと気配を感じ、モモアルマは部屋の入り口へ目を向ける。強いとも弱いとも、冷たいとも優しいとも言いがたい一陣の風が入り口から侵入し、窓からの先住者とぶつかり合って束の間鳴いた。
「こんな時間にどうした、石板守り?」
 モモアルマの呼びかけに、まだ部屋には入らず廊下の石畳に立ってまっすぐに彼を見ていたルックは、しなやかな視線と端正な顔をわずかに歪めた。首筋にかかる色素に乏しい髪の先と、ゆったりと手の甲までを覆う法衣の袖口が、ごく微かながら重力に逆らって浮き上がるように揺らいでいる。ルックの足下から螺旋状に巻き上がる風がモモアルマの目にはもちろん見えないけれど、実際そこには起こっているのだろう。
「こんな時間で悪いけどちょっといいかい」
 一本調子に言うと、モモアルマの了承を待たずにルックは部屋に入ってきた。こんな時間、とモモアルマの言葉をくり返してみせたのはたぶん嫌味、悪いけど、というのも心にもないやっぱり嫌味だ。
 ろくに足音も立てずモモアルマに向かうルックはしかし窓には近寄らず、その手前のテーブルの脇で足を止めると、当たり前のように椅子に腰を落ち着けて足を組んだ。両手で頬杖をついて前を見つめ、長いまつげの影を繊細に映す白い右の頬しかモモアルマに対して見せようとしないのは、早く向かいに座れという催促なのだろう。
 常にこういった態度を貫く彼に「女王様気質ってやつだなあ、根性曲がりの美少年よ」と迂闊にも口走りその場は冷たい一瞥をもらうだけにとどまったビクトールが、本人はすっかり自分の失言を忘れ去った後日、階段の踊り場で突然巻き起こった突風によって窓から放り出されトラン湖の中央に豪快に着水したというのは有名な話だ。その事件を『女王様お仕置き伝説』とか名づけてナンパついで散歩ついで各地方の攻略ついでに誰彼構わず広めまくったシーナが、ある日脈絡なく東の塔内で局地的に発生した竜巻に以下略、というのも有名すぎる話だった。
 泳ぎはあまり得意じゃない、などと考えながら見下ろした湖面の黒、密やかな波が照り返す月光の銀や青は、確実に三割増しの不気味さで厳かにモモアルマを見返してくる。無意味な薄笑いをつい浮かべながら、モモアルマは慌てて張り出しから下りた。
「お茶でも飲む?」
 テーブルの傍らに立って訊くと、ルックは訝しげに上目使いの視線を寄越した。
「きみが淹れるわけ?」
「ほかに誰がいる」
「飲まない」
 ルックはにべもなく答え、ご丁寧に深々と溜め息をついた。そりゃあレックナート様直々のそれこそ魔法みたいにおいしいお茶に慣らされた舌には、茶葉の量も湯の温度もすべて目分量と料理オンチゆえに無敵の野性の勘に頼ったモモアルマのお茶など田んぼの泥水に等しいだろうさ。しかし仮にもこの城の主で解放軍の頭、つまりおまえの上司、すこしは顔を立てろ。
 不快感も露わに鼻を鳴らし、モモアルマはルックの向かい側に回るとひらりとテーブルに跳び乗った。その際に伝わったごく微かな振動すら嫌うようにルックは頬杖をはずし、椅子の背凭れに目いっぱい背中を押しつけてモモアルマを睨んだ。
「ずいぶん躾が悪いんだね、リーダー」
「うるさいのがどこかにいっちまったからね。いまや晴れて自由の身ですよ」
「そんな情けない顔で口にする台詞じゃないと思うけど」
「用事は何」
 失せろ、と喉元を過ぎて舌先にまで転がり出た言葉を無理に飲み込んで(それは灼熱の鉄塊と同じ味がした)モモアルマはにこやかに訊いた。笑いたくないのに笑うもんじゃないよとルックが小馬鹿にしたように口端を吊り上げたので、よほど不細工な面を披露してしまったのだろうが、いまの彼の底意地の悪い冷笑よりはいくらかでもマシだったと信じたい。
「軍内の雰囲気が悪い」
 行儀の悪さを改めずテーブルの上にしゃがんだままのモモアルマを見据え、ルックが口をひらいた。その手の話が次にどう展開するかの想像は容易で、よりにもよってルックがそんなことを言いに訪ねてきたことだけが意外だったので、モモアルマはすこし眉を吊り上げた。
「原因はきみだ。そんなことじゃリーダー失格じゃないのかい」
 無闇に歯切れのいいルックの進言に、モモアルマは呑気に答える。
「傷つくなあ」
「そんなヒマがあったら改めなよ。最近のきみは何に関しても強行的に過ぎる」
「悪いことか? リーダーは意思強固でときには厳しすぎるぐらいでオッケーなんだ。って、マッシュが言ってた」
「度が過ぎるって言ってるんだ」
 ルックはまた露骨に溜め息をつき、テーブルの下で足を組み替えた。偉そうだよなあこいつ、とモモアルマは身体をわずかに左側に傾けながら考える。年下だよなあ、たぶん。
 この手に紋章が刻まれて以来体重を左側に預けがちな癖がついたのは、身体の右側がじっとりと重たいような気がするからだろうか。死神を宿す重責を肉体のバランスごときで相殺しようとしているのなら、とても稚拙だ。
「きみのそれは演技だろ。だから加減を知らない、やり過ぎてる」
「でもレパントさんやフリックたちの意見だってちゃんと聞いてる。どれも軍議を重ねた上での作戦だ」
「下のほうの兵たちにはそうは映らない。その態度と右手の紋章、このままじゃきみ、恐怖の対象になるぞ」
「歓迎する。よりまとめやすくなるだろうさ」
 澱みなく言葉を吐いて、モモアルマは笑った。悪夢のように美しく完全で、圧倒的な支配力を放つ笑みだったろうと自分でもわかった。そうか、俺がいまみんなに向けている顔はこれか。
「きみの保護者が聞いたらなんと言っただろうね」
「いないやつの話に意味はないぞ」
「彼がいれば、きみもここまで馬鹿じゃなかったろうに」
「ルック」
 しゃがんだ両足のあいだに右手をつき、左膝を立てて一歩前に身を乗り出して、モモアルマは低く名を呼んだ。何度遠慮しても毎日部屋の掃除にやってきてくれるカスミがピカピカに磨き上げたテーブルの表面は、木であるはずなのに石に等しく冷たかった。自分のてのひらが、非人間的に熱いのかもしれなかった。
 殺すぞ、と迷いなく口に出そうとしたのをまさに後押しする好タイミング、あるいは間の悪さで、ルックは冷笑とともに残酷で悲しい問いを吐いた。
「僕と引き換えに彼が戻るとしたら僕を殺すかい?」
「殺す」
「きみの代わりに彼が戻るなら?」
「それはだめだ、意味がない。一緒じゃないなら意味はない」
 モモアルマの答えに、ルックは珍しく声を上げて笑った。この答えを受けて腹の底から愉快そうに笑えるなんて、彼の根性の曲がり具合は本当に尋常ではない。
 そう思ってモモアルマもいびつに口元をゆるめ、そして、ゆっくりと窓の外を見た。
 山塊の闇。森の闇。遥か下、鋼鉄のごとき湖面の
 闇。
 あいつと同じところへいく。
(簡単じゃないか)
 モモアルマは音もなくテーブルから跳び下りた。着地すらもどかしく床を蹴り、馬鹿げた雷光の速さで窓の張り出しに跳び上がり、ためらいなくその先へ。
 宙に躍ったモモアルマの身体は、瞬時に風の塊に包み込まれた。薄い刃に刻まれるような痛みとも痒みともつかない不快な感触が全身を這い、指一本分のわずかな落下すら叶わず、そのまま室内に引き戻される。見慣れた天井が目と鼻の先に見え、チッと舌を打ったのと同時に容赦なく背中から床に叩き落とされた。
「いてえ!」
「まったく、本当にクズみたいなリーダーだね」
 冷徹極まりない声で言い捨てたルックは、相変わらず椅子の上で偉そうにふんぞり返っている。床に大の字になったまま、モモアルマは口を尖らせた。
「そう思うならリーダーなんて呼ぶなよ」
「リーダーだと思ってるのは嘘じゃないからね。クズだけど」
 眉ひとつ動かさずに答え、ルックは立ち上がる。頭上に向けて首を反らせたモモアルマは、逆さまになった視界の中を彼の足が横切ってゆくのをぼんやりと見送った。そのまま出ていくかに見えたが、ルックは入り口の前でふと立ち止まり、振り返ってモモアルマを見下ろした。
「今日きみがリコンだかどこだかで拾ってきた無愛想な銃使いだけど」
「おまえに無愛想呼ばわりされたら結構終わりだよな」
「湖で泳ぐかい?」
 ひっくり返ったまま素直な感想を述べたモモアルマに、ルックは冷笑混じりの物騒な視線を落とした。モモアルマはごろりと寝返りを打って腹這いになると、両手を重ねて顎をのせ、卑屈に謝った。
「ごめんなさいすいませんもう言いません。で、あいつが何」
「彼が最後の星だ。石板が埋まったよ」
 あっそう、とモモアルマは気のない返事をした。すこし眠たくなってきた。
「きっとまた、あなたの運命が回り出すことでしょう」
 唐突に、ルックはそう告げた。普段の彼を知る者なら腰を抜かしかねないやわらかな声音で、瞳で、穏やかな微笑すら浮かべていた。両手の甲で支えていなかったら、例外でなくモモアルマの顎もはずれていただろう。
「気でも違いましたか、石板守りさん」
「って、レックナート様から伝言だよ」
 おそるおそる尋ねたモモアルマに、あっという間に柔和さを引っ込めたいつも通りの一見美しいダイヤの針山のような表情と声で、ルックは言った。そして、わずかに言い澱んだあと、無感情につけ足す。
「保護者によろしく」
「どういう意味だ」
 唸るように吐き出してモモアルマが身体を起こしたときには、出ていく瞬間を見た覚えは決してないのにルックの姿はすでに消えていた。モモアルマはその場に立ち尽くし、強く両手を握りしめる。窓から吹きつける冷たい風に背を押され、星のまたたく夜空を憎々しげに振り仰いだ。
 世界は暗く、時代はいまだ夜だ。夜に明るいものなんて赤く燃える争いの大地だけ。なのにその混沌の中、天ばかりが無数の星を抱えて闇を薄める。
 星がすべて揃った、帝国を揺るがす力がついにこの手に集った。それが真実の星見なのですかレックナート様?
(クソ食らえ)
 わからないのか、まだ足りない、ただひとつたったひとつだけがもう永遠にどこにもない。
 瞳の裏側からあふれくる熱を押しとどめるようにきつく眉根を寄せ、モモアルマはテーブルに右手を叩きつける。永遠に揃わぬものならいっそいますぐすべて散れと万物捨てることができればどんなにか。
 満天の星など望まない、輝くあのひとつだけをどうか返せ。

 

 

 2004.11
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