夜に眠ることをすこしおそれるようになった。すこし、であるので実際は夜でも別段支障なく眠れる、夢の一片も見ないほどそれはもうぐっすりと。ウェイの神経は荒縄のごとく太い。
 しかし、夕暮れにうたた寝をするほうがよほど心安らかでいられるようになったのもまた事実だった。夕陽にくるまれていると安堵する。あのひかりはあたたかく、健やかで、そして

 

 

赤い

 

 

 寝る間も惜しんで人を殺した結果がそれですかと微笑をたたえた涼しい面で女性至上主義の赤騎士が哀れむふりをするので、僕のことじゃないですよーアハハとウェイは顔色ひとつ変えずに嘘っぱちを返した。
「アニタさんが酒場で意気投合したエミリアさんの推薦図書で現在図書館の貸し出し率トップ『銀と薔薇の舞』の主人公に似てるって噂のカレンにヘタなナンパをかけてオウランさんにぶっ飛ばされかけたシーナにアホねーと言い放ったニナの運命の人の昔の同僚のことだって聞きました」
「ええまったくアニタ殿もエミリア女史もオウラン殿も薔薇に等しくお美しいしカレンさんもニナさんも銀鈴のようにかわいらしい、ここは本当にすばらしい女性ばかりで私は日々幸せを噛みしめていますよ」
「シーナと青マントは清々しく無視か」
「それでどなたが不眠に悩んでおられるのです?」
 ハイランドが女将軍でも出してこようものならこの男は戦死確定だ、むしろ出してきてくれ死んでしまえと思いながら、ウェイは笑って冷ややかに提案する。
「ヒマならあなたもナンパにでもいってきたらどうですか」
「このような夕暮れどきに女性に声をかけるのは無粋というもの。先には夜の闇しかない、目的のほどが容易に知れるではないですか。私はそんな男ではありませんよ」
 遠くの稜線に粗方削り取られた太陽の最後の光を背に浴びて、艶めく優美な髪をやわらかな炎色に染めた赤騎士の白々しい言葉は、いつもウェイの首筋やら腕やらに目には映らない発疹を引き起こす。あー迷惑、と反射的に首を掻きながら侮蔑を込めて目を眇めると、赤騎士の肩越しにまたたいた残照がすとんと瞳に刺さって痛かった。レディ・日輪、あなたまでこの色男のお味方ですか? 趣味を疑いますよ。
「あなたがそういう台詞を吐くのは世の本当の紳士方に失礼じゃないのかな、色欲の権化のカミューさん」
「またずいぶんな言われようですね。あなたの姉上をお誘いしたことはありませんよ、まだ」
「ナナミに手を出したら僕はあなたをこますよ?」
 にっこりと威嚇してやると、赤騎士は滅多なことでは崩れない笑みを一瞬確かに引きつらせて、聞こえなかったふりをした。
「なんです?」
「いいえ、なんでも」
 なので、ウェイも言わなかったふりをした。なかったことにしてやるほど寛大ではもちろんないからニコニコと愛想よく笑ったままでいたら、赤騎士が先に目を逸らした。よし。
 薄々感づいてはいたが、この女たらしにはこの手の脅しが効果覿面であるようだ。潔いほどに女が好きで、男が嫌いと見える。遺伝子をつなげていく上で実に正しい生き方だな。常日頃から有言実行と、男ひとり殴り倒して組み敷くぐらい朝飯前の細腕に似合わぬ強力を知らしめておいて正解だったと、ウェイはゆるく口端を吊り上げた。
 城内でもっとも高い中央棟の屋根の上、ひそかに戦く赤騎士と薄暗く笑う軍主を、夕陽が等しく照らす。
 遠征その他で城をあけていない限り、空が橙に染まり始めてから完全に日が没するまでの短い時間ここで眠るのが、いつしかウェイの日課だった。フェザーが布団に枕になって付き合ってくれるので寝心地は上々だ。無口で優しいこのグリフォンは、もともとは彼の気に入りの場所であったここに断りなくウェイが転がり込んで以来、いつも黙って相手をしてくれる。
 はじめてここを訪れたのは、ルカ・ブライトを倒してすぐの頃だったろうか。夕暮れ、自室の窓辺で自分の手を眺めるうち、ふと気づいてしまった。武器を握ることに慣れすぎた固いてのひら。すべてを守るためにすべてをこの手でしようと決めた、守ることは奪うことにつながると知ったこの手、もはや微塵も震えぬかわりにもう本来の肌の色も思い出せないほどにこの手は、
 込み上げる吐き気に耐えながら、夕陽に染まるてのひらをもっと赤く見せてくれる場所を求め、いちばんひかりの強いここに辿り着いたのだった。夕陽の赤でごまかせる気がした、この手、全身に滴る本当のあの色を。
 日没のひかりとフェザーの羽に包まれておそろしいほど安らかに眠れたあの日以来、ウェイはここに通っている。いままでひとりと一頭しかいたことのないここに、今日きてみたらなぜよりによって赤騎士がいたのかは知らないし、特に知りたくもないので訊かない。
「じゃあ僕は寝ます」
 壁をつくるように宣言して、ウェイはフェザーの胴体と翼のあいだにもぐり込む。キュウと短く鳴いて伏せ、フェザーがいつも通り寝床を提供してくれる。
 じきに尽きる太陽のひかりを頬に受けながら、ウェイはきつく目を閉じた。まぶたの裏がうっすらと赤い。
 ピリカを置いてきてしまった、ハイランドにやってしまった、シュウの野郎あのクソ軍師め。そして今度はクソ吸血鬼のせいで明日にはティントに発たなければならない、おかげであいつのことを考える暇もない。それは一種僥倖であるのかもしれなかった、この上あいつのことにまで気を回していたら僕は死ぬ。過労死ばんざい。
 だけどジョウイ。ジョウイ・ブライト。何度裏切れば気が済むあの野郎!
「お疲れのようですね」
 頭上で赤騎士の声がして、同時にまぶた越しに感じていたひかりが陰り、ウェイは眉をひそめて薄く片目をあける。まだいたのか、そこに立つな。
 ウェイの顔の真横に立った赤騎士は、ウェイのほうは見ずにフェザーの首を撫でている。心地好いのか、フェザーはおとなしく目を閉じている。
「姉上殿を呼んできましょうか」
 赤騎士の提案には、ウェイが単に疲れているのではなく、心底弱りきっていることを見透かす響きが十分すぎるほど含まれていた。ウェイは仕方なく両目をあけた。だからいやなんだこの男は。
「ナナミには言わないでください」
「では頭を撫でて差し上げましょうか?」
「……なんのために」
 胡散臭いし鬱陶しいと思うのを隠さずウェイが問うと、赤騎士は視線を下げて、哀れむふりではなく今度こそ本当に哀れんでいるやわらかい困ったような笑みを見せた。
「よく眠れるように」
「いりません」
 間髪入れずにウェイは拒否した。山々の向こうに太陽は完全に沈み、山際の空と雲が暗い赤に焼けるだけになった。夜の訪れはもうすぐそこだ。眠れないままに貴重な夕暮れが過ぎてしまった、明日ティントに発ったら確実に数日間は城に戻れないというのに。赤騎士のせいだ。
「なんでいつまでもここにいるのカミューさん。ヒマ潰しならほかを当たってくださいよ」
 八つ当たりじみてウェイが言うと、それでは、と一礼して赤騎士は意外なほどあっさりと退散しようとした。
 目の前で優雅にひるがえった真紅のマントの端を、ウェイは無言でつかむ。あたたかいフェザーの翼の下から這い出すと、迫る夜気が身に染みた。そういえば赤騎士のこの赤マント、騎馬隊を率いての出陣時に羽織るのが形式のようだが、それ以外で身に着けているのをはじめて見た気がする。屋根の上は風が強いし日が落ちれば即座に冷える、防寒具代わりか? そんな備えまでしていったいここになんの用があったというのか。
 のそりと立ち上がったウェイを振り返った赤騎士は、まだ困ったような笑顔のままだった。不思議なほど無闇に腹立たしいなあと思いながら、ウェイもまた笑う。
「ティント行きに付き合ってくださいね。動く死人の巣窟へご案内」
「いえ私は城の防備を」
「こっちはマイクロトフさんに任せます」
 私怨混じりの軍主の権限で言い切ってやると、赤騎士は深々と溜め息をついた。よし。
 握っていたマントを離すと、まだわずかに残照の映える空にあざやかな赤が風で強くなびき、そしてこのてのひらは、世界の生んだ壮大なあたたかい赤とも、人の織ったうつくしい赤とも似つかず、なんと凶々しく他人の命に浸って、
「赤いね、カミューさん」
 守ることにも奪うことにも怯えなくなった、この心は、

 

 

 2008.3.14
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