殺したくて殺すのなら鬼畜、望まないが殺せるのならそれは狂人。どちらがマシかなど言うまでもない、双方まともであるはずがない。自分が、そしてあの男がどちらの枠に括られるのかと考えれば反吐が出る。
気づけばいつの間にか自分は紛うことなき前者、あの男は自らの意志など微塵もないままに逃れようもなく後者。戦場の直中においてさえ敵の命までは取らない、慈悲深く思い切りの悪い優しい男であったのに。
一度死ぬ前までは、確かに。
戦 鬼
東の森の一画が破裂した。竜のごとくうねり哮る凶暴な風が次々に木々を薙ぎ倒しては吹き飛ばし、風圧は小川ごと地を削り、森付近に布陣する帝国兵たちに多大な被害と混乱をもたらす。乗じて、森の西の平野で帝国軍と衝突していた解放軍がじりじりと押し進む。
グレッグミンスターはもう目と鼻の先だ。しかしじきに手が届くからこそ、そしてこれが真実終の戦であると誰もが悟っているからこそ、帝国側の抵抗は激しく、最後の一歩が儘ならないのも事実だった。
目を剥くような途方もない数で組織されていた帝国のモンスター軍はレックナートとヨシュアによって戦わずして滅され、帝国側には一時動揺が走ったようだったが、そのまま総崩れに追い込めるほど甘くはなかった。十万に迫るモンスターよりも兵たちを震え上がらせ戦いに駆り立てる将、そして命を賭して従うに値する将が、帝国にもまだいると見える。
「東が崩れました! 中央も乱れています、カシム・ハジル殿がお出になられます!」
帝都を望む丘の上に敷いた本営の天幕に、伝令が駆け込んできた。簡易寝台に横たわっていたマッシュが身を起こそうとするのを片手で制し、アスラハル・マクドールは速やかに口をひらく。
「アレン、グレンシールと連携して中央正面に当たれと伝えよ。ハンフリー隊はフリックの援護へ」
「マクシミリアンのじいさんも出るってさ。ていうかもう出ちゃったよ」
続いて、緊迫感のない声とともにスタリオンが顔を覗かせた。天幕内に足を踏み入れざま、入り口際に跪いていた伝令兵につまずきそうになったが、おっと、と大して危なげもなく脇によける。畏まったままアスラハルだけにまっすぐ顔を向けていた若い伝令兵が、一瞬だけスタリオンを横目にし、息ひとつ乱していないその様子に感嘆の表情を浮かべた。
「マクシミリアンは左翼のビクトールと合流させろ。決して先んじるなと釘をさしておけ」
アスラハルがスタリオンに指示を出すと、天幕の奥でマッシュに付き添っていたリュウカンが、まったくあのジジイめはと大仰に溜め息をついた。しかしおそらくむしろ確実にリュウカンのほうが老齢だし、今回はマッシュの容態を案じておとなしく後方に下がっているが普段であれば一刻も早く負傷者を診るのだと当たり前に前線に出ていってしまうジジイなので(おまけにたとえ敵兵と対峙する事態に陥っても一般の歩兵程度であれば杖でぶち殴って勝利するようなジジイなので)、その溜め息には重みも説得力もない。
「伝令が済んだらお前は東のキルキスの隊に加われ。エルフ弓隊は森から右翼の援護、ほかの弓兵はそのまま中央と左翼の後方に」
「はいよ」
西への伝令をこなした足で東へ行ってそのまま戦闘に参加せよなど無茶苦茶だが、スタリオンはなんの疑問も不平もない様子で軽く了解し、一目散に飛び出していった。もっともアスラハルも、相手が彼でなければそんな極悪な指令は下さない。
神業駿足エルフと入れ違いに、さらに数人の伝令兵が雪崩れるように駆け込んできた。皆、帝国軍が徐々に後退しているとの報告だ。アスラハルは矢継ぎ早に指示を飛ばしてゆく。
「東の魔法隊は一度森の外へ下がらせろ。ほかはそのまま後方支援、火魔法は極力使うな。逃げる者、投降する者への手出しは無用だ、クン・トーとテスラを投降兵の対処に当たらせろ。負傷者の回収も忘れるな」
伝令兵たちは跪いたままひとこともなく、代わりに目だけで確と頷く。
「命を惜しめ、憎しみは捨てろ、赤月を討ち滅ぼすのではなく目を覚まさせるのだと全軍に! 行け!」
アスラハルの左腕のひと振りを合図に、伝令兵たちは一斉に飛び出していった。
軍主の座に就いてもう随分になるが、戦場で指揮を取るのにはいつまで経っても慣れない。いや、慣れはしたが、落ち着かない。自身の判断で指示を出すのでも、マッシュの策を兵たちの鼓舞のためアスラハルの口から発するのでも、付き纏う違和感は同じだ。普段であれば息継ぎもろくに必要とせず一瀉千里に回る口が、強靱な肺が、戦の指示を下したあとに限り、奇妙にひりつく。
他人に察せるはずもないその密かな痛みを、それでも殊更に押し隠し、アスラハルは表情なくマッシュを振り返る。先ほど止めたのに、マッシュは簡易寝台の上で上半身を起こしていた。重傷を如実に語る土色の面はしかしわずかも軍師の責と覇気を失わず、それでいて何も口を挟まなかったということは、いまのアスラハルの指示は合格だったようだ。
元来使えるはずの頭を使おうとせず余計な憂いや痛みを背負うことをおそれるばかりのアスラハルには、軍師の才はきっとない。だから戦に関する細かな筋書きなどは考えられないし、下準備や根回しなどもってのほかだ。
アスラハルにできるのは、戦場の直中で野獣のごとく本能を閃かせることだけ。いまこのときを最も有利に戦う術、勝ち抜く術、生き残る術を短絡的に考えることだけだ。
それはおよそ作戦ではなくただの勘、しかしその的確さは軍師の策など足下にも及ばぬほどの天賦の戦人の才能だ。おそろしいことですね、と以前マッシュは噛み締めるように言い、寂しげに薄く笑った。
「では、私も行きます」
棍を手に穏やかに、けれど有無を言わせぬ鉄の意志を込めてアスラハルは告げた。今日のこの戦いこそ真っ先に前線に出たかったのをここまで我慢して引っ込んでいてやったんだ、文句は言わせない。
アスラハルがお飾りの軍主ではなく、紋章の力を差し引いてもいまや軍内で五本の指に入る手練れであることは周知の事実だ。それでも軍が大きくなり将も充実するにつれ、アスラハルが先頭切って戦場に出ることを反対する声は徐々に大きくなっていった。
アスラハルひとり欠けてもいまや戦力はそうは落ちない、しかしいかに有能な将と多大な兵力を有していようと、精神的支柱を失ったらおしまいだ。アスラハルの死とともに、解放軍も死ぬ。わかっている、慕われ案じられることがどれほど幸福かなど、わかりすぎるほどわかっている。
「大丈夫。すべて終わらせて、五体満足で戻ります」
アスラハルが笑うと、ご無事で、とマッシュが、そしてリュウカンが無言のまま頭を垂れた。あなたこそ、とアスラハルはさらに笑って返す。
「生きて待っていてください、必ず」
眼光の静まった瞳を細め、色の失せた乾いた唇の端で、マッシュは穏やかに微笑して見せた。肯定の返事はなかった。マッシュは守れない約束はしない。
アスラハルはある予感を覚える。この戦に身を投じて以来、どうしようもなく人の死の気配に敏くなってしまった。くそ、予感がする。
天幕を出ようと二人に向けたアスラハルの背に、どうぞご無事で、ともう一度マッシュの声がした。
大丈夫だマッシュ。誰も私を案じなくていい。死なない人間の心配ほど無駄なことはないぞ。
実際口に出してそう言ったことは、誰にもなかった。傷つけるだけだとわかっている。わからないのは、真の紋章持ちである死なない軍主の死を、なぜ誰もが憂えるのかだ。正確には真の紋章持ちは不老ではあっても不死ではなかったが、真の紋章に詳しくない一般の兵や民たちのその誤った認識は、アスラハルに限って当て嵌めるなら、ある意味とても正しかった。
何者にも、何事にも命を脅かされることのないだけの強さを身に付けたアスラハルが、不老をも手にして生き続ける。それはつまり、決して死なないということだった。不死と、同等であった。
そして死なないこの身と心は最も死に近しい場所に自らを置くことに義務を、使命を、安息を感じて止まない。戦場の空気が己が血のごとく体内に馴染む気のふれるような戦慄、しかし隠しようのない充実。死なないこの命で、容易く死ぬ命を相手に、生のやり取りを。
鬼畜の所業、とアスラハルは口の端を吊り上げる。間を置かず、天幕の外の守りについていたフウマに、マッシュを頼むと軍主の顔で声をかける。その無節操さに大きく口元を歪めつつ野営地の馬繋ぎに走り出そうとしたとき、チリ、と首筋の皮膚を焼くような不穏な風が吹き渡った。
帝都前に広がる平野に目を凝らす。展開する各部隊が一望できる。帝国軍の布陣は東の森の周辺がほぼ総崩れ、中央もだいぶ押し込まれている。こちらが有利だ、形勢は変わっていない。しかし。
「伝令!」
走りながらアスラハルは叫んだ。戦場から吹きつけるどす黒い気配が全身を緊張させる。すぐに隣に影が並んだ。一般の伝令兵ではなく忍装束を纏った女だ。ことの重大さを察したフウマが、本営の警護についていたひとりを寄越したのだろう。本営の防備を削りたくはないがこの際言っていられない。
「ユーバーが出る、城門正面を警戒、付近の部隊を下がらせてペシュメルガ隊を前に! ジーン、ヘリオン、ビッキーは全力で援護だ、西のクロウリーを呼び戻せ、急げ!」
忍びの女は目顔で頷くや瞬時にアスラハルを抜き去り、疾走するその背はいくらも見送らぬうちに掻き消えた。
東でルックに大きな魔法を使わせたのは失敗だったかもしれないと歯噛みしながら、アスラハルは馬に飛び乗って一気に丘を駆け下る。ユーバーの力の底はいまだ見えないし、またモンスターを率いている可能性もある。ペシュメルガの援護というより周囲の兵たちに害が及ばぬよう防御を固める必要がある、優秀な魔導師はひとりでも多いほうがいい。
が、いかに優秀と言えど魔力が尽きていたのでは意味がないとアスラハルは苦々しく頬を歪め、しかし舌打ちを飲み込んで思い直した。あの風使いに限り多少の酷使は許されるに違いない、彼の師の許可は得ている(と曖昧ながら記憶している)し、道端の石ころ並みに小さなアスラハルの良心も痛まない。
伝令兵か忍びの者をつかまえて東の森へ走らせなければと逸りながら、中央の後援部隊めがけて駆ける中、雷に打たれたように、気づいた。
グレミオはどこだ。自分がいま単騎で戦場を駆けている不自然さを急激に自覚した。クレオやパーンはいまでは自らの部隊を率いて戦に出、アスラハルの護衛につくことはすくなくなったが、グレミオだけは別だ。戦場では片時もアスラハルの側を離れない。天幕の外か馬繋ぎでアスラハルの愛馬を引いて控えているのが常なのに、今日はそのどちらにもいなかった。
おかしい、と冷や汗の滲むような危機感とともに、アスラハルは手綱を握り締める。予感がした。戦いに明け暮れたゆえに磨き上げられたおのれの勘ではなく、右手の甲が、引き攣れるように疼いて告げる。死神の腹の音がする。
後援部隊の最後尾に追いつき、そのまま兵たちのあいだを駆け抜けながら一時待機と声を張ってくり返す。若干の動揺が漣のように兵士間に広がったが、各部隊長にはすでに伝令からの指令が行き届いていたようで、中央だけでなく両翼の後援部隊も動きを止めたのが見て取れた。帝都の城門に迫る勢いだった最前線の各個部隊も、陣形を乱さぬまま速やかに後退を始めたようだ。
それらの確認ももどかしく、ペシュメルガはどこだとアスラハルは叫ぶ。余裕は失われつつあった。しかしそれでも、焦りに駆られたアスラハルの叫びは周囲にはそうとは聞こえず、威厳ある冷徹な大将の声として朗々と響き渡るのだろう。なんと便利な、そしてなんと気味の悪い技を身に付けてしまったのだろう自分は。もはや自らの真の姿すら濃霧に迷うように見失いかけている。
坊ちゃんのなさりたいようになさってください、と、かつて自分を支えた声があったことを急に思い出した。坊ちゃんの望みは私が叶えます。坊ちゃんの無茶は私がお止めします。何もかも、このグレミオが、
「ペシュメルガ殿、すでに城門に向かわれたご様子です!」
誰かもわからぬ声で返された答えに頷き、アスラハルは馬の腹を蹴る。一気に速度を上げた馬上で内臓に響く振動と瞳を刺す強い風を受けるうち、グレミオの声も言葉もまたすぐに記憶の彼方にちぎれて消えた。
後方に展開する部隊のあいだを抜けたと同時に、帝都の城門の方角でひと際大きな怒号が上がった。人声でありながら獣の咆哮に近かった。咄嗟に目を凝らしたがすでに平地に下りてしまっているため、前線の様子は土煙に遮られてとても見通せない。
解放軍の猛攻が効を奏して帝国軍の後退は著しく、思った以上に前線が遠い。逸りすぎたかもしれないと胸中で舌を鳴らし、アスラハルは馬首を東の森へと向けた。一刻も早く最前線に至るには、馬より速い足が必要だ。
思惑通り、前線まで駆けるより遥かに短時間で、ルックを含む魔法兵の一団が東の森から出てきたところをつかまえることができた。
「風使い!!」
怒鳴ると同時に馬を捨てる。突如現れた軍主に魔法兵たちは皆一様に驚いて足を止め、うち早々に我に返った何人かが、駆け去ろうとする軍主の馬を慌てて追いかけてゆく。軍主の賢い愛馬は、主を降ろし役目が済んだと悟れば自ら本営に戻るので、乗り手なく走らせておいても何も問題はないのだが、そうと教えてやれるほど気の回るはずもない。
馬から飛び降りるなり猛然と突進してくるアスラハルを、ルックはただひとり驚くことなく騎乗したまま冷静に見下ろしていた。が、そのまま馬上に留まればすぐに無様に引きずり降ろされるだろうことを察してか、若干渋い顔をして自ら馬を降りると、横柄に腕組みをしてアスラハルを迎えた。
「総大将が戦場で血相変えるものじゃないよ」
極めて表に出にくくなったアスラハルの感情も、ルックのような古参の宿星には容易に伝わると見える。普段であればその好ましさに微苦笑のひとつも浮かべるところだが、そんな余裕があるわけもなく、アスラハルは渾身の力でルックの細い両肩をつかんだ。
「いますぐ前線まで私を飛ばせ。前線が目標にできなければ城門でいい、飛ばせ」
「正気?」
骨まで食い込むような思慮のない強さでつかまれた肩の痛みにではなく、アスラハルの要求にルックは激しく眉をひそめた。アスラハルが正気であろうとなかろうとそんな命令は聞けないと、うっすらと嫌悪すら浮かべている表情とは裏腹に、深く落ち着き払った瞳が告げている。普段誰よりも軍主を軽んじているルックでさえ、その身を危険にさらすような選択は決してしようとしない。自らの意思なのか師の命を受けているゆえなのかは判然としないが、解放軍の誇る風と魔術の申し子の頑迷さ、賢明さは、いまこの瞬間において限りなく厄介だとアスラハルは思った。
真に私を思うのなら私の身など放っておけ、私の、心にこそ、全霊で応えてみせろ!
「戦場での正気など狂気と変わらない。飛ばせ」
「僕に死ねって言ってるのかい? いまさんざんこき使われたばかりなんだよ、そんな大きな魔法できるわけないだろう」
「黙れ紋章持ち。お前が死ぬのなら私だって死ねる、飛ばせ!!」
猛獣が牙を剥くごとくアスラハルが怒鳴るのと、ルックの端正な面が殺意のように歪んだのとが同時だった。次の瞬間、強烈な耳鳴りと目眩、胃の腑をつかみ上げられるような不快感にアスラハルは目を眇める。狭まった視界が一瞬真っ白になり、すぐに戦場の色を取り戻したときには、足の下に大地の感触はなかった。
空中に投げ出されたと理解する間もなく頭から落下したが、アスラハルは即座に身体を反転させてどうにか足から着地する。衝撃を支え切れずに地に叩きつけた片膝と両のてのひらが、じんと痛んだ。
顔を上げるとルックの姿はなく、眼前に広がる光景も変わっていた。土煙の向こうに霞んでいた帝都の城壁が、馬でなく人の足でももう簡単に辿り着ける位置にはっきりと見える。左右に長く延びる城壁の正面、いままさに轟音を立てて閉じられた巨大な城門の鉄扉の前に、まるで闇の塊のような漆黒の騎馬団が出現していた。率いているのは、長い金髪を揺らし端正な白面に冷笑を浮かべた、見目麗しくも禍々しい気配を放つ黒騎士。
頭上から馬の嘶きが降ってきて降り仰ぐと、アスラハルのすぐ背後にも、長い黒髪の黒騎士を中心に解放軍の騎馬隊が陣形を敷いていた。突如空中に降って湧いた軍主にざわつく騎馬兵たちの中、黒騎士ペシュメルガは、ひと際巨大な馬の上から無表情にアスラハルを一瞥しただけで、すぐに視線を正面に戻した。
アスラハルもふたたび前を向く。城壁の付近にはすでに争いの跡があったが、いまは動きは絶え、吹き渡る風が戦塵と血臭だけを運んでいる。人形を散らかしたようにあちこちに帝国兵の死屍が転がり、大地はただ平たく静まり返っている。右手の死神の腹の音が、湿って獣じみた唸りに変わった。自分の取り分がないと不満げに訴えている。
黙れ、と心中で命じてアスラハルが立ち上がったのを合図のように、哄笑が響き渡った。よく知った誰かの変わり果てた笑い声のように錯覚して心臓が竦んだが、城門の前の騎馬団の頭、黒騎士ユーバーが笑っているのだった。
「貴様も大した化け物を飼っていたものだなあ、小僧!!」
心底愉快げな笑い声が鋼の針となって鼓膜から脳までをも貫き通す。アスラハルはまばたきも忘れて正面を見据え、無意識にきつく右拳を握る。化け物などこの紋章だけで、自分だけで、十分だったのに。
アスラハルとユーバーの一団のちょうど中間に、ひとりぽつりと佇む影があった。
日暮れの迫る赤く焼けた空の下、何ひとつ動くもののない、命あるものはすべて逃げ去ったあるいは倒された、血と悲鳴と怒りで塗り固められた嘆きの大地に、金の髪をたてがみのようになびかせて立つ男。携えた大斧はつい昨晩鍛え直したばかりで新品と見紛う輝きを放っていたのに、いまはもう刃どころか柄の部分までもが錆びついたかのようにべったりと褐色だ。大量の血を吸って本来の色を失ったマントも軽やかに風に踊ることはもはやなく、重々しく男の背に張りつくばかり。
アスラハルは震える息を大きく吐き、男に向かってゆっくりと足を踏み出す。近づく足音に気づいたのか、男は肩越しに振り返ると、アスラハルを認めて優しく目を細めた。
「グ 」
男の頬に残る古い大きな傷跡が、それが刻まれた遠いあの日のように、泣き出しそうな脆い笑みとともに微かに歪んだのを見た瞬間、アスラハルの声は喉に詰まった。いま呼んだら、こらえ切れなくなる気がした。今日よりずっと子どもだったあの日でさえ我慢できた幼い感情が、いまここで決壊してしまう気がした。
そう、あの日泣いたのはアスラハルではなかった、グレミオだった、血濡れた顔を安堵と自責に歪め、情けないほどに声を震わせて、こわくてたまらなかったとアスラハルを抱き締めて泣いたのは。
(私を救うのはいつもお前だ、だから今度は、今度こそは、)
男はアスラハルが追いつくのを待つことなく、ふたたび城門へ向き、漆黒の騎馬団へと歩み始める。
「私が、救おうと、」
優しき戦鬼の、かつて幼き主を案じて涙した心は、日がな一日シチューをつくっていたあたたかな手は、いまや限りなく、ただ殺す。
2009.5.8
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