ある弱音
Please don't fear it.

 

 

 

 我らが解放軍のリーダー殿、日の出とともに血みどろのご帰還!
 という酸鼻極まる出来事を知るのは当の血みどろ様ご本人と彼に同行していた数名、そして同行もしていなければリーダー殿の血が減ろうが増えようが赤かろうが青かろうが取り立てて興味もない石板守りのみ。
「ひとつ訊いていいかいマクドール」
 眠気とうんざり感と軽い殺意とその他諸々で重たい身体を寝台の上に起こし、ルックは半眼でお伺いを立てた。窓の外は白み始めているが室内はまだ仄暗く、壁に備えられた燭台の炎が床に天井に濃い陰影を揺らめかせている。
「どう、ぞー」
 疲れ果てた様子で語尾を掠れさせたマクドールは、寝台の足元の床に正座し、上半身だけ台上に俯せるという妙な格好をしている。万歳するみたいにだらしなく投げ出された両腕の指先が、白い敷布に赤い(いまはもう乾いて褐色だ)線を引く。マクドールが寝台に突っ伏す寸前に辛うじて布団だけは抱え込んで守ったルックだったが、さすがに敷布までは無理だった。布団を避難させるのではなくマクドールを吹っ飛ばすべきだったと、ルックは真顔で選択の誤りを悔いた。
 マクドールは寝台に左頬を押しつけてルックに顔を向け、黒い前髪のあいだから覗く目を心なし輝かせて問いの本題を待っている。いったい何を期待しているんだか。
「なんできみここにいるの」
 睨むというほど明確に意思表示をするのも億劫でただ冷たいだけの視線を送ると、マクドールはぬるく唇の端を引き上げた。なんて不細工で不吉なツラだ、とルックは眉をひそめる。まったき死神の微笑のようだ。
 普段はその内面とは似ても似つかず繊細にそよぐ黒髪も、いまは血で濡れた額にべたりと息絶えたように張りついている。城に住まう一般の民にはとても見せられない姿だが、人並みにリーダーを自覚してそう配慮したのだとしてもここに転がり込んでくる理由にはならない。
「早く薬屋のところにでもいけば」
「薬屋って呼ぶとジイさん怒るぞ。商売屋のように言うでないわ、わしの薬はもう商い物にはせんと決めたんじゃあ!」
「似てないよ」
 国随一の老薬師の物真似らしいマクドールのおかしな声色を、ルックは切って捨てる。早くいきなってばとくり返すと、マクドールは怠そうに首をもたげて力なく笑った。
「おまえに治してもらいたかったんだよう」
「何それ」
「ジイさんの薬なんて色気がなくていやだ。癒やしの風ーってやってよ」
 なんの動作のつもりなのか(ルックは詠唱時も発動時もそんな動きは断じてしない)マクドールは左腕を宙にひよひよと泳がせている。湿って重たい夜明けの空気が乱れ、血のにおいがいっそう濃く混じる。
 真向かって露わになったマクドールの白面は、鼻梁を境に左半分が真っ赤に染まり不出来で悪趣味な仮面のようだ。右側しか見えていなかったさっきまでよりよほど凄惨な有様だが、単に滑稽なだけで先ほど垣間見た死神の面影はもはや失せ、視線も笑みも透けるように無防備だ。疲れているのは本当なのだろう。
 が、
「……癒やしの風ー」
 ルックが無造作に頭上にかざした右手が強く光を帯びたのを見るや、案の定マクドールは、どのへんが怪我人ですかという敏捷極まる動きでその場から跳びのいた。わずかに遅れてルックは投げやりに右手を振り下ろし、その軌跡から迸った緑の風が直前までマクドールの正座していた床を削り壁まで走って燭台の炎を蝋燭ごと粉砕した。
「それは切り裂きだろうが! 致命的なまちがいはよせ!」
「まちがってませんが何か」
「鬼か! どうすんだこの床、大師匠と愉快な仲間たちに怒られるぞ!」
 寝台の足側の壁際まで一気に跳びすさったマクドールが、壁に背を張りつけて極力ルックと距離を取りながら吠え立てる。大工仕事全般の指揮も兼ねている鍛冶屋集団のことを言っているようだが、そもそもこの城の主は括弧いちおう括弧閉じマクドールなのだから、損壊の罪を責める権利ならまず彼自身にあるはずだ。しかし城内で暴れるな戦うな備品調度品を壊すなと常日頃たしなめられる側の筆頭にいるのがその城主様、本当にこの城は平和ですねとルックは薄ら笑いをした。
 燭が用を為さなくなっても室内はもう十二分に明るく、削れた床の表面とともにマクドールのつけた赤黒い足跡も粗方消えているのが見て取れた。一方簡単には消せない敷布の血痕が嫌でも目につき、ルックは胸中で舌打ちをする。血の染みとにおいから視線と意識を逸らしたら不覚にもマクドールと目が合ってしまって、仕方なく事実を確かめる羽目になった。
「それ全部返り血だろう、マクドール」
 マクドールは腹の前で両手の指を絡ませてなんだかもじもじしながら、えへーと否定する気配なくゆるく笑った。ルックはあごを上げ尊大に目を眇めたが一秒ともたず、すぐに頭を垂れて盛大に溜め息した。怒るどころか疎む気すら失せる、感情を発露させるのがもったいない。
「なんのつもりなの」
「おまえに労られたかったの」
 バランス悪く笑みながら、マクドールが他人の血を吸った革手袋の右手を、左手でぎゅうと握るのが目の端に入った。行動して見せないとわからないほど鈍いわけ? と急激な吐き気のように舌先に滲み出した苦い言葉を、ルックはどうにか飲み込んだ。マクドールが聡いことは知っている。見えなくてもわかるものを見せてと血迷い望んでいるのなら、彼はいま本当に弱っているのだ。
 ルックは寝台を下り、マクドールの正面に立った。ひどいにおいが鼻を突く。命の死んでいくにおい。
 マクドールがルックの頬に触れようとし、けれど怯んだように指を縮める。手袋をはずして胴衣の腹でてのひらを擦ると、乾いた血が粉微塵になった枯れ葉のようにわずかばかり散った。マクドールは困ったように眉を下げ、結局汚れたままの手でルックに触れた。左手。
 知っているか、マクドール。きみの右手は汚れてなどいないし、普段のきみからは陽のにおいがすること。
「そのひどい格好とあれをいますぐどうにかするなら、労ってあげる」
 寝台を指差してルックが言うと、マクドールはマリーもびっくりの手早さで敷布を剥ぎ取って丸めて抱え、すぐ戻る! と言い残して部屋を飛び出していった。
 ルックはふたたび溜め息し、ちいさく伸びをして、それから窓に目を向ける。太陽は稜線から離れて輝き、薄氷の張ったように冷えていた空気も空も、徐々に爽やかなぬくみを帯び始めている。いい朝だ、まさに早起き日和。
 けれど本日の予定はといえば昼過ぎからの軍議だけ、言葉に偽りなくマッハで戻ってくるだろうマクドールとふたり、存分に寝坊をするのも悪くはない。

 

 

 2008.5.16
 ×