ギュグ、と内臓に響く不快な音を聞いてすぐ、身体が奇妙にすこし軽くなった。
見ると、左腕の肘から先がない。散りしぶく鮮血の赤、空気のごとくこれまでの生を彩ってきた飽くほどに馴染んだその色もおのれの身から溢れ出るとなれば勝手が違うのかひかりのように強く目を射るが、痛みもない。
元マチルダ騎士団筆頭の青騎士、赤騎士による渾身の同時攻撃をよける間もなく浴びておきながら、腕一本ですむとはどういうことだ。さしもの狂皇といえど普通なら胴が飛ぶ。
理由はすぐにわかった。ルカの片脚に背を預けるようにして、まだ少年とも呼べる若い兵士がひとり、血でぬかるんだ地べたに座り込んでいた。腹に救いようのない太刀傷が口をあけ、身体がふたつにちぎれかけていた。本当なら、ルカがそうなるはずだった。
(ル、カ、さま)
少年が呼んだ。ルカは当たり前に彼を知らなかった。使い捨ての一般兵の名、顔、声、どれも一国の王には毛ほども価値がない。
ルカは一瞬わずかに眉を寄せ、同時に頭上から飛来した矢を五本まとめて右手の剣で叩き落とした。次いで流水のように淀みなく目の前の赤騎士の喉笛めがけて一撃をくり出す。赤騎士はよけずに剣で受け、同時に青騎士がふたたび仕掛けようと地を蹴ったが、ルカの剣が炎を噴き上げたのを見ると、両騎士とも実に無駄のない動きで跳びすさり一定の距離を取って構え直した。
ルカは大仰に舌を打ち、目を眇める。もはや反射のように口の両端が吊り上がる。
「虫ケラぁ……」
肩に背に刺さった十に近い矢も失った左腕もまるで意に介さず一歩踏み出そうとしたとき、ふと片脚にかかる重みともいえないほどの違和感に気を取られた。
(皇子、さま、)
少年はまだ息があった。口端の血泡がごぼりと鳴り、見る見る滑らかな赤い流れになって顎を伝い地に滴る。血と汗でべったりと額に張りついた前髪の下の大きな瞳がルカを見上げているが、もうまともに見えてはいまい。
死に値するな、と簡潔にルカは思った。ルカ・ブライトはいまや皇子ではなく皇王だ、以前のつまらないくだらない位で呼ぶなどなんて不敬。
(こんなところで、お倒れになっては、いけません)
少年の声は、もはや子犬の寝息よりも細かった。周囲には王国軍と同盟軍の兵たちの斬り結ぶ音、怒号、魔法の飛び火による樹木の燃え爆ぜる音などが無秩序に渦巻いている。この混沌の中、死にゆく人間の呟きなどそもそも聞こえるはずがない。
(死んでは、)
しかしルカは少年の声を確かに聞いていた。
(だめ、です)
空気の動く気配があった。ハッと意識を向けると、左右に展開しようとしている青と赤の騎士、そしてその後方に、いままさに魔法の詠唱を終えようとしている少女の姿が見えた。
あの女が元凶だ。時間にして一分も前ではない、ふたりの騎士の波状攻撃をさして苦もなく凌ぎつつ、しかしそう長く持つものではない早急に退路を、いや目の前のこの虫ケラどもを叩き潰せばすむことかと考えていた矢先に木の上に潜んでいたらしい忍びの女の急襲を受け、それを両腕捩り上げて投げ飛ばした直後にふたたび騎士たち、の、背後に、空気中にビリビリと放電するような馬鹿げた魔力を溜め始めている少女の姿を認めて一瞬気が逸れた。その結果ルカは左腕を失い、ルカを庇った少年兵の命はいまにも失われようとしている。
考えるというほどのこともなく、本能に従い雷撃のごとくルカは動いた。剣を地面に突き立てて肩に刺さった矢を引き抜き、引き絞った弓から放たれたに等しいスピードと正確さで魔術師の少女に投げつける。矢は見る見る標的に迫り、気づいた少女が目を見張る、みなぎっていた魔力が霧散する、しかしおそるべき集中の速さで土の紋章を発動させかけたが遅い、頭蓋を貫かれて地に転がれとルカは笑った。が、間一髪で赤騎士が少女の前に立ちはだかり、右上腕に矢を受けてそのまますぐうしろにいた少女を巻き込んで倒れた。
それを横目に青騎士は顔色を変えたが動きは止めず、腕のない左下方から容赦なく襲いくる切っ先、しかしルカは地面から剣を抜きざまの右手のひと振りでそれを弾いた。ルカの剣にまとわっていた炎が刀身を伝って全身を包み、竜の形に膨れ上がる。青騎士の剣には大きな刃こぼれが生じ、さしもの騎士も怯んだように一歩下がって体勢を立て直した。
赤騎士が深々と矢に貫かれた右腕を押さえ、端正な顔を戦場に相応しく歪めて立ち上がる。魔術師の少女はあれだけの魔力をみなぎらせていたとは微塵も信じられないこどものように怯えた様子で、血に濡れた赤騎士の袖を握りしめている。地に膝をついていた忍びの女が、はずれた肩を歯を食いしばって自らはめ直し、よろけながらも毅然と立った。
そして、彼らのもっとも後方、いちばん最初に渾身の一撃を叩き込んで吹っ飛ばした相手、殺す気だったし殺したと思った、骨の砕ける音も内臓の潰れる手応えもあったのに軍主と呼ばれるこどもが口の端から滴る血を拭って立ち上がる、狂気と等しく爛々と折れない目をして。
(ル、)
足下のこの脆弱なこどもと、忌ま忌ましい軍主たるこどもの何が違うのか。ルカにとって足下のこどもは自分のために死んで当然の存在、軍主のこどもは踏みにじって殺すべき存在。
(カ、さ、)
貴様の名は知らない、あのガキの名も聞いたがとうに忘れた。
少年兵の軽すぎる体重を感じるこの脚を動かしたくない気が、ふとした。白い具足が鮮血で濡れ光っているさまを見たくないような気がした。真白いものが穢れてゆくさまをもう二度と見たくないとおれはあのとき(母上、)思ったのではなかったか。
(ははうえ)
炎を身にまとい、ルカは笑った。死人すらも怯えると言われた、世に並ぶもののない邪悪な笑みであった。
少年兵の瞳から涙がこぼれた。濡れたまつげが微かに震え、まばたいた。おそれでも痛みでもない顔をして何を泣くのかルカにはわからなかった。
おのれの死を嘆いているのか? 虫ケラが?
ルカの笑みから、一瞬、邪悪さが引いた。曇りなく、愉快げだった。
「名を置いていけ、虫ケラ」
聞くつもりで言ったが、いらえを待たずにルカは歩き出していた。悠々と剣を払い、夜の闇に炎を散らし、もはや目に入るのは殺すべきこどものみ。
少年兵の身体が血だまりの中に倒れた。真っ赤に汚れた白い鎧姿が遠ざかっていくのを瞳に映した。まぶたも唇ももう動かず、ほろほろと涙だけが流れ落ちた。
名を告げる前に、少年は死んだ。
2008.3.14
×
|