月が雲に隠れたかと思えばまた顔を出す。窓から見下ろす湖面は穏やかに凪いでいるが、上空では徐々に風が荒れ始めているのを感じる。
 明日は大きな戦がある、あまり騒ぎ立てないでおくれよと夜空を渡る風に念じ、ルックは枕元の燭台の火を吹き消した。蝋燭の先から細く上がった煙は天井へ向かわず、不自然に真横に流れた。
 ルックはかすかに眉をひそめる。石板を訪れた者があると、煙を惑わせた風が告げていた。
 夜半、皆それぞれの寝床へ引き上げていて、見回りの兵と若干名の怪しい住人以外に城内を動き回る者はないはずだ。こそ泥が悪事を働こうとエルフが逃げ足を鍛えていようと地図職人が未発見の隠し部屋や抜け道を探していようと石板さえ無事なら実にどうでもいいのだが、風の教える気配はそのどれにも当てはまらない。ルックはわずかに迷ったのち短くため息し、寝台を下りて部屋を出た。
 石板の間にいたのは、とうにわかりきってはいたが、やはりマクドールだった。窓のない室内は容易に闇の支配を許し、廊下から照らす燭台の炎とわずかな月明かりが、石板の前に佇む城の主の姿をかろうじて暗闇からすくい上げている。その右手がぼうと光っているのをルックは見た。ああ面倒だ、と思う。
「何してるの」
 部屋には入らず入り口の外から声をかけると、マクドールは驚いた様子もなく振り向いた。足音も気配も消してはいなかったから存在を感づかれているのは承知だが、ルックが現れると信じて疑っていなかったようなその笑顔が気に障る。
「ここにいればおまえに会えると思って。さすがだなあ、石板守り」
「真夜中におかしな呼び出し方しないでくれる? 迷惑だし気持ち悪い」
「だって部屋いったって入れてくんないじゃん」
 拗ねるように唇をとがらせるのを、うざいとひとこと簡潔に切り捨ててやれば、ひっで、と愉快げに笑う。本当に面倒な男だ。
「こわいならそう言えば」
「こわくないよ」
 ルックから目を逸らさず、笑ったあとの穏やかな表情のままマクドールは即答した。ちぎれた翼を引きずる鳥のような、折れた足で座り込むけもののような目をして、よく言う。明日の運命に怯えてやまない瞳で、よくも。
 戦で人が死ぬこと、我が手が容赦なく最も殺すこと、疼く死神のこと、そのすべてに怯えて自分が戦いをやめるかもしれないことに、マクドールは怯えている。数えきれず殺した昨日より、間違いなく殺す今日より、殺さなくなるかもしれない明日が、おそろしい。あんたは馬鹿だ。
「こわいなら言えばいい、僕が聞いてやるって言ってるんだ」
 こわくないって、とマクドールはくり返した。ほんのすこし傷ついたような気分になった自分も十分馬鹿で面倒だとルックは思った。闇に紛れたままマクドールが笑っている。
「こわくないけど、明日一緒にいてくんない?」
「明日はクロウリーのじいさんと別行動で一部隊任されてる上にロッテの面倒も見なきゃならないって知ってるよね。きみのお守りまでできると思う?」
「ですよねー」
「代わりに今晩一緒にいてあげてもいいけど」
 マジでえ!? と叫ぶとマクドールはやっと埋もれかけていた闇から抜け出し、ルックへと駆け寄ってきた。月のひかりに宥められたかのように、右手の暗い輝きも失せた。
 そうだ、そうやって闇も恐怖も振り払い、鬱陶しいほどにいつだって笑っていろ。
「きみにはそれが似合ってるよ、マクドール」

 

 2008.4.10
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