従者は死んだ

 

 

 

 争いの果てを目前に、深手を抱える軍師の目を盗み、城を離れた。
 露見する前に戻れば大事ないとおのれに言い訳をする、これで指導者だなどと笑わせる。しかしこうでもしなければ気が狂う、と思う。
 そうして夕闇の淵から眺め下ろした黒い谷底には見も知らぬ魅力と魔力が、右手の甲で疼く紋章にそれは勝るのかもしれないとおよそ無理のある錯覚に脳が麻痺するいまのうち、この足を踏み出してみても罰は当たらないと愚かしく思う、結局、狂っている。
 疾うに、くるっている。
「アスラ様」
 もう昔のようには二度と決してアスラハルを呼ばないグレミオの声が、城に置いてきたはずなのに案の定背後から、
「そちらへいかれては」
 熱に浮かされたような炎のごとき揺らぎをともなって追いついて、
「死」
 グレミオの手が肩に触れる寸前アスラハルは身を翻した。槍の穂先の鋭さで稜線から伸びる残照がグレミオの金の髪を焼いている。その輝きに目を細めながらひとさじの加減もなく拳を振るった。
 鈍い音でグレミオの頬は鳴り、金の髪が虚空に流れて黄昏は完全に失せ、地に倒れ込んだ従者は荒れた指先で憎むように土を抉る。二度咳き込んで、血の混じった唾液を鋭く吐き出すと、失礼を、と頭を垂れぬまま詫びた。
 一度死んで戻ったこの男は、以来、確かに狂っていた。主人に倣ったのじゃないかと笑った風使いを、いつか戦が終わったら勝利のその日のうちに殺そうと立てた誓いはいまも忘れていない。
 グレミオをグレミオたらしめていたもっとも重要な要素を、彼はどうやら死者の国に落としてきたようだった。あるいは、奪われた。喰われた。優しさや間抜けさや厳しさや涙、疾うにそんなものには縁のない死んだ魂どもにとって、それはさぞかし美味であったろう。
 グレミオ。死ぬことのないアスラハルの死を常に思い描いては怯え、眠ることを捨て、休むことを厭い、先の帝都進攻の前哨戦ではついに戦鬼ペシュメルガに勝る帝国兵の首を取ったと聞く、しかしその一方で変わらず厨房に立ち、あたたかくて美味い食い物を、血と肉と笑顔と命になるものを生む作業を忘れぬ節操のない彼を、アスラハルは幾度となく殴り、蹴り倒し、おまえが私の死を見る機会は永劫にない安心して死ねと笑った。
 グレミオから『グレミオ』を喰らい取ったのは死の国の王ではなく、アスラハルの右手の紋章なのだろう。紋章こそが王であるのかもしれず、だとすればその飼い主であるアスラハルもまた紛れもなく死そのものなのだろう。
 グレミオから奪ったものが自分の中で血肉になってゆくのかと思うと身が竦んだ。はじめてそう思い至った夜は胃の中身をすべて吐いたがそれでどうなるものでもなかった。腹が減っただけ。
 地に伏したグレミオの腹を執拗に蹴るうち、自分の足が震えているのに気づいて強く地面に叩きつけたが顫動はますますひどく、アスラハルはあとずさってしゃがみ込んだ、目眩がする。グレミオが閉じていた目をひらき、アスラ様と掠れた声ですぐ呼んで、ひどく顔を歪めそれでいて化け物かというほどダメージを感じさせない足取りでアスラハルに近づき、しかしやはりまた咳き込んで唾液で薄まった血と荒い呼吸を吐きながら膝を折った。
 アスラハルは顔を上げ、両手で腹を押さえてうずくまろうとしているグレミオを見る、腹が減ったのかおまえ。ならばもう動くな、口もきくな、呼吸してすら空腹は募る、生きようとすれば死に近づく。
「アスラ様、どこか、お具合が」
「自分の心配をしろ。骨の砕ける音がしたな」
「ご自分の仕打ちでしょうに、よくも」
 苦しげに薄く笑ったグレミオの唇の端の瑞々しい血の色に引かれ、アスラハルは両手を伸ばし強く彼の頬をつかんだ。噛みつくより先にグレミオが無遠慮に無様に体重のほとんどを預けて倒れ込んできたので、舌打ちをして仕方なく抱きとめ、そのまま面倒になって地面に尻をつく。グレミオは卑怯にも意識と腕力だけは正常を保っていて、背骨が軋むほどに激しく抱きしめられた。
「グレミオ。腹が減った」
「なんでもお作りしますよ、城に帰りましょう」
「腹が減った」
「そんなことで泣くものではありません。もうこどもではないでしょう?」
 指に絡む金の髪をつかみ広い背に爪を立ててグレミオに縋りつき、ぼろぼろと涙をこぼしてただ腹が減ったとアスラハルは訴えた。
 喰いたいものがある。喰いたい命がある。一度確かに喰らったそれ、腹におさめたそれを失ったのだ。あれがよかった。美味かった。代わりはきかない、二度と腹が満たされることはない。
「おまえを殺したい」
「いいえ。いいえ、グレミオは二度とあなたより先には死にません」
 笑わせるなおまえごときがと言いかけてアスラハルはグレミオに口づけた。血と涙を巻き込んで重ねた唇の味、感触に吐き気がする、舌をねじ込めばますます味は濃くなり舌先に感じるのは腐った鉄のような薔薇のような砂糖菓子のようなべたりと甘い匂い、吐き気がする。血でも涙でも薔薇の刺でも構わない、腹に溜まるのなら。
 グレミオの身体は重く吐息は熱く絡めた舌は濡れてああこの男は生きているのだと思った。
 神様、神様、神様、神様、魔王、神様、
 グレミオの命をもう一度私に寄越せ、
 ソウルイーター、

 

 

 2004.11
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