とても良い子!

 

 

 死ぬほど怒らせちゃったみたいなんですよねえ、とひとつも深刻ではなさそうに苦笑いをして大きな古傷の残る頬を掻いて見せた男は、つまり毛程のダメージも受けてはいなかったのだろう、豊かな金の髪をくるくると器用に後頭部でまとめていつもとなんら変わらぬ様子でいまは厨房に立っている。
 開け放された厨房の扉の枠の中に、意匠など微塵もない不出来な絵画のように収まった大斧使いの背。馴染みのその光景を廊下の壁際から眺めながら、殺されるほどじゃなくてよかったじゃないかとクレオが茶化してみたのが数分前、いいえェもちろん殺すとも言われましたよでもあれ坊ちゃんの口癖ですからねえ条件反射っていうんでしょうかねえ、とのうのうとした答えが返ったのも数分前だ。
 マクドール家嫡男モモアルマお坊ちゃまがそんな短時間で機嫌を直すほど寛容な気質の持ち主でないことは重々承知しているので、本来なら紋章魔法の訓練の時間なのだが、いましばらくは声をかけるまいとクレオは溜め息をついた。
 モモアルマの気性の荒さ、というかローテンションと凶暴さが常に同居という質の悪さはいったい誰に似たのだか、すくなくともテオでも亡くなった奥方でもない、つまり血から継いだのではなく突然変異的にあの性格、ただしグレミオの露骨かつマイペースに過ぎる世話焼きが悪影響を及ぼしているのは確実だ。
 やれやれと首を振りつつ肩を竦める一方で、このまま時間をやり過ごし、のちに控えている体術訓練担当のパーンにうまいことすべて押し付けられないものだろうかと企まないこともないクレオである。テオには非常に申し訳ないが、クレオの判断したところ、モモアルマにはおそらく魔法の才はない。いや、あるにはあるのかもしれないがろくでもない。
 何しろ回復、防御、攻撃補助系のすべてが不得手で水の封印球など持っただけでもいやな感じがするとふざけたことを抜かすし、風の紋章でさえ痛い痛いと大騒ぎをしてまともに宿していられない。逆に、火や雷の紋章なら苦もなく宿せて威力も上々、なるほど典型的な攻撃型かと納得したのも束の間、いっそ笑うしかないほど制御不能ときた。
 一度火炎の矢が暴発して貯蔵してあった薪の山がすべて燃え、危うくボヤでは済まなくなりかけたときなど、クレオは本気でテオに土下座したくなった。元凶であるモモアルマと、そんなにいっぺんに燃やしても暖炉に収まりきりませんよといつもの調子で宣ったグレミオはもちろんその場で張り倒した。パーンがテオについて領内視察に出ていたため消火の人手が足りず、シューレン邸の人々の手を煩わせてしまったのは一生の不覚だ。
 思い出すだに情けなさのあまり頭痛が起き、クレオは壁に背を預けてずるずると廊下にしゃがみ込む。気配を察したらしいグレミオが振り返り、両手に大きな鉄鍋を抱えて足で流し台の下の戸棚を閉めながら、そんな行儀の悪いことじゃ困りますよと説得力のない小言を漏らした。
「坊ちゃんが真似るからやめてください」
「何をいまさら」
 クレオが鼻で笑ってひらひらと片手を振って見せると、グレミオはすくなからずムッとした様子で眉根を寄せた。
「坊ちゃんがテーブルの上に座ったり窓から出入りをしたりベッドから落ちても平気で寝ている原因がわかりました」
「私はベッドから落ちたことはないよ」
「じゃあパーンさんですね」
「そういうのは誰から移るもんでもないだろう。あの子は生まれつき神経が太いのさ」
「坊ちゃんはそんなに粗野な方じゃありません」
 言い切ってグレミオは厨房の奥のかまどのほうへと移動し、扉枠の形に切り取られた四角い世界の中から消えた。
 まあ確かにその通りだね、とクレオは後頭部でごつごつと壁を打ちながらひとりごちる。あれは粗野なんてレベルで片付けられるものじゃない、傍若無人で傲岸不遜、自分を中心に世界は回るという鉄の法を提唱しかねない傍迷惑なこどもだ。おかしい。いったいどこで道を誤ったのか。
 数何年のある日、ふらりと出て行ったきり音信不通となり果てた棒術のカイ師がいた頃は、いまとは比べものにならないほど礼儀作法に秀でた幼子だったと記憶してい、る? クレオはふと首を傾げた。「くそジジイてめえも鼻血噴かしたるあ!」という師に対してありえない弟子の暴言が耳の奥によみがえった気がしたが、いやないないそんな事実はございません、とクレオは記憶に蓋をした。
 まあとりあえず、だ。首根っこを押さえつけるカイ師がいなくなった途端、モモアルマが限りなくのびのびと粗悪な方向に育ってしまったということは、つまりグレミオとパーン、そして他ならぬクレオの教育がなっていなかったと、そういうわけか? ああテオ様、お許しください。
 額の前で両手の指を組んでぶつぶつ言っていると、玄関の扉をけたたましく乱打する音がした。確かめるまでもなく誰だかわかって、動くつもりも返事をする気もなく壁の端から顔だけを出して窺うと、来訪者は出迎えを待つことなくすでに勝手に扉をあけていた。
「こんちはー! おれでーす!」
 玄関ホールいっぱいにいい加減な挨拶を響かせたテッドは、奥の廊下の角から覗いているクレオに気づくと懐っこく走り寄ってきた。
「どうしたのクレオさん、機嫌悪そうな顔して。寝起き?」
「組み手の相手でもしてくれるのかい、テッドくん」
 立ち上がりながらボキボキと両手の指を鳴らして見せると、いやややや滅相もないおれか弱いんで遠慮します勘弁してくださいクレオさんたら今日もお美しい! とひと息に叫んでテッドは殺し屋うさぎ並みの跳躍力であとずさった。あの坊ちゃんにしてこの友人あり。クソ失礼なガキだ。
 うふふふふ、と互いにまったく笑っていない目で不気味に愛想だけはいい笑みをしばし交わし合ったあと、クレオは気を取り直して顎で階段のほうを指し示した。
「坊ちゃんなら自分の部屋だよ。ただしご機嫌斜めだ。うまいことおさめて連れてきてくれないかい、魔法訓練の時間なんだよ」
「まっかしてください! 俺モモの魔法訓練好きなんだよねーおもしろいから。クレオさん、今日は雷魔法やろうよ!」
 蹴ってやろうかと思うような勝手な言い草を残し、テッドはうきうきと階段をのぼっていった。あれはだめだねとクレオは一抹の不安というよりもはや決定的な悪い予感として思う。
 案の定、軽快に扉のひらく音と同時にモモっちゃーん魔法のお稽古しまギャワいてえェ! というテッドの悲鳴、と同時に何かがすごい勢いで壁に激突する音と震動、と同時になんだテッドかごめんまちがえたなあ聞いてくんないあのやろシチューに何入れやがったと思うつーかまずシチューが何色だったと思う殺(ころ)、とモモアルマの平然とした声がだらだらと続いた。モモアルマの一撃必殺上段飛び回し蹴りが美しくテッドに入ったようだ、間違って。
 様子を見にいくのも面倒でテッドは見捨てることにして、ついでに魔法訓練もあきらめて、クレオは自室に戻ろうと廊下を歩き出す。と、そこへ、
「クレオさん、シチューの味見をお願いしたいので坊ちゃんを呼んできていただけませんか」
 にこにこと厨房から顔を覗かせる本日のところの諸悪の根源がいるわけだ。
「自分でいきな」
 深い溜め息とともに言い捨てて、クレオは容赦なく退散した。それぐらい手伝ってくれてもいいじゃないですかとこぼしながら火が気になるのか足早に階上へのぼっていく足音、扉のノック音、のあとに続いたどがらがしゃどかゴン、というどうしようもない騒音と罵声。「何するんですか痛いじゃないですか坊ちゃん! マクドール家のご子息ともあろう方がそんなお行儀の悪いことではいけま、え、いま殺し損ねたって仰いましたか? なんのことでォうぐふっ!」「あああモモ鳩尾はやばいって鳩尾はあ!」
 クレオは自室に入って扉を閉めた。寝たふりをしてもいいだろうか。

 

 

 2004.11
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