真V NOCTURNE マニアクス クロニクル/人修羅とフトミミ

 

 終極、渾身の魔弾を撃ち放とうと上体を弓形に撓らせしかし視線は片時も標的から離さず殺意を噛む。畜生残害に似たりと自嘲するも野良犬のごとく吠えかけた矢先、斜前に立つ鬼神の背に怒気とも殺気とも悦びともつかぬ闘志が漲るのを、人修羅は見た。
 フトミミと名乗るこの鬼神は仲魔たちの中でも取り分け、もっとも古き友ピクシーにも劣らぬ忠心で(小さき乙女のそれは忠心ではなく恋人の情に相等しいと彼女はむくれるかもしれないが)主の身を案じていて、ひとたび戦闘となれば必ず人修羅の盾となり前に立つ。道端の水溜りで濯いだような薄ぼけた白い衣を纏った見慣れたその背が、ギ、ギ、ギ、ギと筋肉骨格の軋む音の漏れるほど力を溜めているのを認め、人修羅は必殺の意志のもと起こした撃鉄を間一髪ふたたび寝かせ、装填済みだった魔弾を飲み下した。
 世にまたとない殺意の実弾を形成していたエネルギーが人修羅の体内深く散り溶けていくと同時に、フトミミが攻撃に転じた。敵との間合いは詰めるというほどもない。地を砕くように重くしかし速い足でフトミミは瞬時に敵の懐に入り、溜めた力をすべて解き放つ掌底で標的のあごを突き上げた。
 標的となった白い女は大きくのけ反り、フトミミに砕かれた華奢なあごから、文字通り“砕けた”。あごから首、胸、肩、腕へ腹へと白磁のような肌に筆で墨を引くごとく亀裂が走り、滑らかに指の先、踵まで広がって、彼女を壊した。
 無機物が砕け散る甲高く耳障りな音が長く長く尾を引いて、人修羅はそれが途絶える頃にようやく、白い女が断末魔を上げていると気づいた。聞くのは二度目だとも思い出したが、もう何も感じない気がした。最初に聞いたとき何を感じたかも、疾うに覚えていない。
 破れ落ちる聖堂のステンドグラスのようだと、ただ思った。感想ではなく見立てに過ぎなかった。以前、人であった頃、そういう光景を見たことがあった。ボタンひとつで人の生き死にが決し国や世界すら救えも滅ぼせもする、ゲーム画面の中の架空の世界の出来事だった。現実のようにつくられた架空を架空のようなこの現実に当て嵌める、そんな意味のないことを考える自分の人間味に人修羅はすこし満足した。目の前で砕け散ってゆく、死んでゆく、白い女が美しいものであると認識できただけでよかった。
 羽ばたかぬ白磁の羽根で不自然に浮遊していた女の身が微塵になるにつればらばらと落下を始め、あご以外が何故か綺麗に形を成したまま残った首が地にぶつかり砕ける寸前、人修羅たちの周囲の景色は一変した。マガツヒの筋が毒々しく輝き走る壁は失せ、白磁の破砕音も途絶え、しんと静寂する青暗い小部屋に戻っていた。
 眼前の黒い墓標にするすると真っ赤な文字が刻まれていくのを見るともなく眺め、人修羅は乾いたまつげを無意味にまばたかせる。過去を記し、過去を見せる墓標。
 失った女に思い出の中で出会い、また殺した。ああ、思い出ではないのだと、人修羅は唐突に理解した。懐かしむことも悲しむこともないのだから、それはただの記憶だ。人は悲しく、強く、優しく思い出を抱えることができるが、悪魔に残るのは無闇に極彩色の記憶だけ。
 人修羅の横に立っていたフトミミは、墓標に一瞥もなく小部屋の出入り口へと踵を返した。ほかの仲魔たちはすでに出入り口の扉を抜けている。人修羅は足を動かさぬまま振り返り、フトミミの背に問いかける。
「フトミミ、気分は?」
 フトミミは立ち止まると身体ごと人修羅を振り向いて、気分、と色のない唇で訝しげにくり返した。
「これと言って変わりはないよ」
 そう、と人修羅が呟くと、人修羅自身ですら自覚せぬ落胆のかけらを見抜いたかのようにフトミミは困り顔になり、眉を下げたままごく薄く微笑した。
 はじめて彼と出会ったとき、無表情の代名詞を名乗れそうな人だと思ったのを人修羅はうっすらと覚えている。その印象を覆す柔軟な表情を惜しげもなく見せることをやがて知り、いまも変わらずフトミミの白い面は慈母のごとき笑みを刷き、しかしこれはもう本当の彼ではないのだ。さっき記憶の中でふたたび死んだ女も。
 止めを刺す権利を、などと思ったわけではない。いや、思った、たぶん。怒りと力を背負ったフトミミの背を見たとき、彼がそれを望んでいると人修羅は妄信に近しく仮想した。もはや全き悪魔である自分の非道な飛び道具で幕を引くより、血の通った、通っているはずだそうでなければあんな笑顔はできない、フトミミの手で終わらせるのが正しく相応しいと思った。
「仇を、」
 あなたが守りたかった、しあわせな未来を与えたかったマネカタたちの、
(しかしあなたも彼女ももう本物ではない殺しても殺されても何も成り立たない二度と真には失われない生まれもしない)
「    ?」
 フトミミの声が不思議そうな響きを滲ませて人修羅を呼んだ。人であった時分の人修羅の名を。うれしい、と人修羅は思った。悲しいとも、思った。
 皆が待っていると促され人修羅がようやく墓標の前から離れると、フトミミはどことなく安堵したようにまた微笑み、先に立って歩いて行った。
 激しさとは程遠く、しかし決して涸れることのないこの悪魔の感情は、森深く秘された命の泉のようだ。自分がいまどんな感情を以てどんな顔をしているのか人修羅にはわからない。いまと言わず、もうずっと前から自分の心根も顔形も記憶の隅で随分と朧げだ。
 代わりに、フトミミが烈火のごとき感情を剥き出したことがあったのを思い出した。(そのあと彼は死んだ)白磁の女が、おのれの非力さを呪って噛み締めた唇の赤を思い出した。(そのあと彼女は変わった)
 墓標の間を出て行くフトミミの顔の脇を軽やかに擦り抜け、先に出ていたピクシーが戻ってきた。人修羅の周囲をくるりと一周飛んでいつも通り肩に腰掛けようとし、ふと驚いた様子で目を見張る。ひらひらと羽根を動かし宙に浮いたまま、小さな両手で人修羅の頬に触れ、遠慮がちに顔を覗き込んだ。
「どうしたの、泣いてるの?」
「まさか」
 悲しげなピクシーの声に、人修羅は即座に否定を返した。驚くほど自然に苦笑がこぼれたのがわかった。
「もう涙なんて出ないんだ」
 うそ、と呟くピクシーのか細い声と泣き出しそうな瞳が、白磁の女の放った聖なる威光のように人修羅の視界を焼いた。そう、嘘だ。彼女も、彼も、この涙も。
 全部にせもの。

 

世 

は 

 物

 

 

 2009.10.27
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