はじまったばかり
はじまったばかり
はじまったばか り!!!!

 

 

 

 早朝は景色が白い。空気はまだ重たく濃密なのに匂いは妙にすっとして爽やかで、街の目覚めを易々と感じさせる。
(だーけど、オレは眠いのよ)
 くふあ、と大きなあくびをしながら泉は駐輪場に自転車を入れた。
 毎朝四時起き、四時半自宅出発の四時五十分学校着だなんて正直気がふれている。眠気に加えて早朝特有のナチュラルハイのままに自転車を飛ばすものだから、通常の登校時間並みに対向車や通行人がいたら加害者必至であろう暴走をかました末、冷や汗でようやくちゃんと目が覚めるなんてこともある。が、踏みはずして一回転したペダルがすねを直撃した挙句ハンドルも切り損ねて電柱にぶつかる衝撃よりも、力いっぱいの挨拶と礼でグラウンドに敬意を払い、一歩目の土を踏みしめた瞬間のほうがよほど本気で眠気が飛ぶのが不思議だ。
「ちわっ!」
 今日も気合い一発、泉がグラウンドに入ると、黒マジック田島筆のイチバンが燦然と輝く練習着の背中が見えた。
「うえい、はよーっすー」
 何を考えるでもなくごく普通に、よっく晴れそうだなァあんま暑くなんのはかんべんだぜー、と白く静かな上空をこそよほど気にしながら先客の肩を叩くと、相手はすごい勢いで全身を硬直させた。いまにも金属の軋む音が聞こえてきそうなぎこちなさで泉を振り向くさまは、旧型の上に油の切れた錆だらけのロボットみたいだ。
「お、おはっ、おっ、」
 全力疾走のあとのように息を弾ませながら挨拶を返そうとする三橋を見て、やっば、と泉は反射的に手を引っ込める。イレギュラーな声掛けや不意の接触には漏れなく挙動不審スイッチの入る三橋なので、寝ている赤ん坊のそばで足音を忍ばせるみたいにいつもなるべく前フリつきで穏やかに話しかけるよう心がけていたのに、うっかり忘れた。落書き然とした背番号1はいやというほど目に入っていたし、それが三橋だなんてわかりきっていたのに、何も問題はないと無意識深く浅はかな判断をしてしまったのはなぜだ?
「つか、あー、別にいちいち考えるとこじゃねってか」
「う? ど、どうし」
「や、なんでもね。おはよー三橋」
「お、はよう、泉くん!」
 笑顔とはとても見えないけれど嬉しそうなのはやたら目いっぱい伝わってくる紅潮した顔で、三橋がすこしだけ緊張したように泉の名前を口にする。三橋が面と向かって接してくれると、泉はいつもちょっとびっくりして、そして楽しくて笑いたくなる。ぞんざいかつフレンドリーな接し方を自ら解禁してしまうはずだ、初対面の頃には掛け値なく異質な珍獣のように見えていた三橋は、いまはもうすっかり泉の中に馴染んでいる。
「オレいま一瞬、おまえの1番見えないみたいな気分になったよ」
「ひっ!? うう、う、ウソッ」
 三橋は飛び上がらんばかりに肩をそびやかすと、マッハで練習着を脱ごうとする。泉は慌てて止めた。
「いやいや、わり! だいじょーぶ、1番消えてるとかじゃなくてさ!」
 どうも言葉が迂闊だなオレ、と反省しつつ安心させるように優しく背中を叩いてやると、う、とか、あ、とかこぼしながら、三橋はハテナをいっぱい張りつけた顔を泉に向けた。泉はちょっと困る。うまく説明してやりたいが、自分でもうまくなんて整理できていない。なんというかアレだ、この気弱に過ぎる背番号1は別に腫れ物ではないのだと知ったというか、特別扱いなんて却って邪魔だった気がしているというか、
「なあ三橋、オレたちって、けっこー仲良くなったよな」
 自分で言っておいて泉は大いに照れたが、ぎょ、と漫画ばりの効果音が聞こえそうなほど瞠目して口をぱくぱくさせる三橋を見て、ますます恥ずかしくなった。
「な、仲よくっ、なっ、」
「そーだぞ、オレたち仲いーぞ!」
 突如割って入った田島の声に、三橋はもちろん、泉も驚いた。見ると、ズボンだけ練習着に着替えて上はまだシャツのままの田島が、いつの間にか三橋のうしろに立っている。
「おう、いたのかよ」
「おお! オレ今日いちばん乗りだもんね!」
 普通に考えたら毎日いちばん乗りでもおかしくない、むしろそうであるべき田島が自慢げに白い歯を全開で覗かせる。
「そんでなんでまだンなカッコしてんの」
「アンダー忘れた! どっちでもいーから貸してくれ!」
「はあー?」
 田島が図々しくも堂々と、泉と三橋に向かって両手をひらいてちょうだいのポーズをしたところで、背後で挨拶の声が上がった。振り返ると、はーよー、と浜田が若干眠たげなゆるい歩き方でグラウンドに入ってくるのが見えた。
「お、浜田だ。はよー!」
「ハマちゃん、おはっ」
「オメーまたきたの。ごくろーなー」
 口々に迎える三人に水槽の端っこの水草みたいにやる気なく手を振りながら、浜田はまっすぐに泉のところにやってくると、無言の笑顔で泉のほっぺたを両側から引っぱった。いでだだだだ、と泉が叫んで浜田の手を払いのけ、双方ともに額に青筋立てたいい感じのつくり笑いで互いの胸倉をつかみ合うのを、田島が止める気配なくわくわくと見守り、三橋は、
「なっ、なったよ、ね!」
 両手を握りしめて精一杯の声を張り上げたエースに、あとの三人は同時にびびる。一秒後、三橋と天然的動物的な意思の疎通を誇る田島が、だよなー! と笑いながら三橋の背をバンバン叩き、五秒後、その脈絡のない言葉の出発点にようやく泉も気づいた。
『なあ三橋、オレたちって、』
 三橋がカチコチに固まりながら、ほの赤い顔にうっすら汗を浮かべながら、きゅっと唇を引き結んでまっすぐに泉を見ている。
(うん)
 泉は目で頷いた。
 ぎゅうと拳を握れば、仲間のてのひらの感触と、ほかほかと心地よくリレーされてくる体温がゆっくりよみがえる。
(うん!)
 そうだな三橋、オレたちみんな、これから、もっともっとだ!

 

  

 2007.9.22
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