ご機嫌いかが、
クールビューティー?

 

 

 泉の機嫌の悪い顔というものを見たことがない、ような気がする。
 目の前でばったりと机に伏せている泉のつむじを眺めながら水谷が急にそんなことを思ったのは、さっき不機嫌が極まって鬼みたいな形相をした阿部に、「うぜえ!!」と殺す勢いで怒鳴られたからだ。超こわかった。言葉のひどさを差し引いても、間近で炸裂した怒鳴り声の異常な音量だけで十分こわかった(鼓膜がキーンてしたもん!)。
 毎日あれの相手をしている三橋はすごいと水谷は改めて尊敬した。まあ阿部だって相手は選ぶだろうから(選ばれちゃった俺かわいそう)、三橋に対してうざいなんて怒鳴るわけはないけれど。でもいつだってすぐ声が荒くなる、阿部は短気でいけない。
 水谷が真剣に花井にそう訴えたら、というか同意を求めたら、阿部の言うことにも一理ある、と激辛の意見が返ってきた。同意どころかクラス中を震撼させた阿部爆弾の直撃を食らった水谷への同情すらかけらもなかった。それきり大きな身体で机を抱え込むみたいにしてあっという間に寝入ってしまった花井と、同じく水谷を怒鳴ったのち一秒で寝た阿部が悪夢を見ますようにと控えめな呪いをかけながら、水谷はそそくさと七組を出た。
 我が物顔で九組に入った途端、予想はしていたが、野球部三人がそれぞれ死んだように自分の机に突っ伏しているのが目に入った。昼休みはそれこそ一秒を争うスピードで昼飯を掻き込んで一分でも長く寝るというのが野球部員の常識で、水谷だって普段は漏れなくそうしている。ただ今日は不思議と眠たくなくて弁当を食べ終わったら特にやることがなくなってしまったので阿部を相手に時間を潰そうとしたら特大の爆弾が落ちたわけで。
 三橋も田島もすでに涎を垂らして爆睡していたが泉だけはまだ半分起きていたようで、水谷が隣に立って名前を呼ぶと、すこしだけ頭を上げて水谷の姿を確かめ、おー、とぼやけた声で返事をした。それきりまた机に突っ伏してしまったけれど、水谷はそのまま泉のそばにいることにした。
 単純に、泉がいちばん相手をしてくれそうだったからだ。他意はない。熟睡中の三橋と田島には最初から近づきもしなかったのに、同様に一見寝ているとしか見えない泉にだけは声をかけてみたことにも、取り立てて意味はない。です。たぶん。
 そうしていま、水谷は泉のつむじを見ている。空いていた前の席に勝手に座り中身のない雑談を並べる水谷に、泉はだるそうながらも相槌を打ってくれた。すくなからずうざいと思ってはいるのだろうが、遠ざけるのではなく適当に流すという方針のようだ。阿部のように邪魔者を追い払ってからゆっくり眠るのではなく、泉は水谷がそばで何をしていようとまるで無関心に寝るだろう。
 怒られるのと適当に扱われるのとどっちがいやだろうかと水谷はふと首を傾げる。そんな考えるまでもない疑問を湧かせた自分の頭が疑問だった。そんなの、怒られるほうがいやでこわいに決まってる。
「泉ってキレたりとか機嫌悪くなったりとかしないよね」
 思ったことをうちに秘める配慮がない、いやあるにはあるけれどその判断がたぶん人よりだいぶ甘い水谷がなんの気なしに言うと、それまで無味乾燥な相槌のほかはいっさいリアクションのなかった泉が、のそりと顔を上げた。重たげなまぶたに半分遮られた視線に普段の明瞭さはないが、まばたきすくなにまっすぐ水谷をとらえている。
「すごい機嫌いいのとかも見たことないけど」
「クールビューティーだからな」
 ふてぶてしく答え、泉はいつになくまじまじと水谷を見つめた。オメーはほんとくだらねーことしか言わねえな、と早くも完全にまぶたを押し上げた大きな瞳が語っているのが悲しいかな簡単にわかってしまったが、さらに深いところにほかの思惑が沈んでいる気がして、水谷はにわかに戸惑った。明らかに眠気を打ち払って急激に強くなる泉の視線がなんだかとてもこわい、理由はよくわからないけれど。
「おっ、起こしちゃったんだったらごめんね!」
「起こされてねーよ、寝るとこを妨害されたんだよ」
 泉は呆れた様子で机に頬杖をつき、あくびを噛み殺すように頬を強張らせる。
「えーと、じゃあ、機嫌悪くなることとかないの」
 いったい何が「じゃあ」なんだか気圧された水谷が思わず口走ると、泉はすこし驚いたふうに目を丸くしたあと、ますます露骨に呆れ顔になった。
「とか、ってつけねーとしゃべれねえのかオメー」
「とか?」
 無意識下のことを指摘されて頭上に「?」を浮かべる水谷に、泉はもはや完全に眠気の去った目で憐憫の視線を注ぐ。
「やっぱアホなんだな。知ってたけど」
「アホじゃないから知ってないで!」
「オメーがなんかやらかしたらオレ機嫌悪くなるわ、鉄板で」
「えっ」
 水谷は一瞬心身ともに硬直した。それはあれですか、凡フライをエラーとかエラーとかエラーとかそういう、
「逆もあるかもしんねーけど」
 さしたる抑揚もなく続いた泉の言葉に、水谷は今度は完全に固まった。何かとてもおそろしいことを言われた気がする、いったい誰が、どこのどなた様が、泉の機嫌を左右するんだって?
 水谷は大きく椅子を鳴らして立ち上がり、泉に背を向けた。ドアに突進する勢いで九組から脱出しようとしたのに、泉の声が追いかけてきて、まるで逆らえない引力に捕らわれたみたいに足が止まってしまう。
「戻んの?」
「えと、の、喉かわいたからなんか買ってくる!」
 振り返らないままこどもが言い訳するみたいに答えたら、後ろで、泉が席を立つ音がした。あああ超不正解、やっぱりオレってアホなのかなあ!
「オレもいく」
 背後に泉の足音と気配が近づく、泉もしかしてサイフ置いてく気かなあと彼の自分に対する通常の仕打ち、もとい行動パターンを冷静に予測する一方で、頼むからいまは隣にこないでと水谷は哀れなほど心臓をバクバクさせた。
 だっていま、ものすごく、顔が赤くなっちゃってる気がするんだ。

 

 

 2009.11.29 / おめでとう泉! だいすき!
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