ひまわりはずるい

 

 

 水谷文貴は節操がない。その自覚もない。気持ちを言動に変換することを特別得意とはしていないが実行の際には躊躇も思慮もない。
 要はたぶん適当なのだ。延々思い悩むよりは早まってしまったほうが楽ではなかろうかという雑な思考回路、結果的に笑えればナイバッチーだし泣くはめになってもまあ別にドンマイ。
 つまり極めて横着なのだ。難しいことは考えたくないし、どんな事柄も難しくは考えたくない。野球も。恋愛も。
(レンアイしてるヒマなんてあるのだろーか)
 夏大予選の観戦帰り、水谷はそんなことばかりまじめに考える。
(いな、あるわけがない。反語)
 交互に絶え間なく道を蹴る両足の振動が内臓を、思考を揺らす。あごから滴った汗が手の甲に跳ねる。
(つーかオレいまレンアイより先に野球って思っちゃったし。もーすごい無理な気するうー)
 球場を出発したときは列の中盤あたりにいた水谷だが、気づけば最後尾に下がっている。あくまでランニングであって競争ではないので順位に意味なんてないのだが、前を走る西広の背中がやけに小さい。明らかに集団から脱落した格好。
 あり? と内心で首を傾げた瞬間、暑い暑いとばかり訴えてきていた身体の芯と表面に同時に悪寒が走り、水谷はアスファルトを蹴る足を鈍らせた。視界がぐうと遠ざかって西広が、沖が、みんなが絶望的に加速したと錯覚する。平衡感覚が怪しくなり、激しいノイズが鼓膜を叩いて前をいく仲間たちの掛け声も足音も掻き消され、踏み潰すような圧力を視覚から感じて目の前が黄色く白く明滅する。うそ。なにこれ超きもちわる
「おい、大丈夫」
 声と同時に横から肘をつかまれ、水谷は極端に狭まってくらくらする視界をどうにか隣にまで広げる。実際はのろのろと首を巡らせただけのことだったが、そう動作している感覚も自覚もなかった。
「大丈夫か、顔青いぞ」
 隣には泉がいた。泉の二本の足が路上でまっすぐ動かないのを見て、水谷は自分の足も止まっているのを知る。前をいくほかの部員たちと自転車のマネージャーの背がどんどん遠ざかる。
 西浦ファイオーの掛け声が前触れなく耳に戻り、同時に全身の力が抜けて、水谷は膝から崩れた。泉が水谷の肘を離さなかったので腕だけ上に引っぱられて肩がグキと鳴って痛かったが、それよりとにかく気持ちが悪い。
「おい、立って」
 路上に正座状態の水谷に驚いたふうもなく、泉が平然と言い放つ。鬼がいますよ、と非難を込める気力もなく単なる感想として思いながら、水谷はどうにか顔を上げる。泉の表情は普段となんら変わらない。視界はいまだ黄色く、空の青さは認識できないがまぶしさが目と胃に響く。
「立てませんー」
「あと五歩でいいから歩け」
「むり気持ちわる、おえ」
「歩け!」
「むーりー!」
 泉に強引に腕を引っぱられ、水谷は地面に片手両膝をついたままいやいや移動する。いくらも這い進まないうちに腕を引いていた力がゆるみ、急に練習着の肩をつかまれ今度は後ろに引っぱられて尻もちをついた。乱暴な扱いに抗議のひとつもしたくなるが口内に込み上げるのは中途半端な吐き気と饐えた唾液ばかり、目を閉じて荒く息をついていると腕が解放されたので、水谷は何も考えないまま自動的に後ろに倒れ込む。と、ブロック塀が背凭れになって受け止めてくれて、地面に頭を打ちつけるという悲劇は避けられた。
 薄く目をあけて背後を窺うと、水谷が座り込んだそこは塀の向こうから鬱蒼と枝を張り出した大木のちょうど真下で、濃い日陰になっていた。すこしホッとして水谷はまたまぶたを下ろし、吐き気と乱れた呼吸の改善を求めて深呼吸をする。熱気混じりでも空気はおいしいが、熱光線そのものの陽射しは日陰にいてなお顔面に痛い。
 断続的なセミの合唱に逆らうように規則的な呼吸をくり返すうち、ふと周囲から人の気配が消えている気がして目をあけると、いつの間にか泉の姿がない。ほかの部員たちの姿なんてもっととっくにない。うそ、置き去り?
 マジでえ、とちょっと泣きそうになった途端にだるさ倍増、水谷はぐったりとその場に横倒しになろうとした。ら、また腕をつかまれて阻止されて、泉が戻ってきたと安堵すると同時に額にひやりと肌慣れた感触がふれた。
「使っとけ」
 無造作に押しつけられたそれを手に取って薄目をあけると、なんの変哲もない丸めたタオルだった。ただしやたら冷やっこく、変にかさばって重たい。水谷が考えなしにタオルの端をつかむと、中から、氷と水を詰めてきつく口を結んだビニール袋が転がり出た。即席アイスノンというわけだ。
「わーすげ、こんなのどこに持ってたの」
 氷入りビニール袋をタオルでくるみ直しながら水谷が感激すると、泉は非常にわかりやすく、おまえほんとアホだなという顔をした。
「持ってるわけねーだろ。そこんちでつくってもらったんだよ」
「知ってる人のうち?」
「いや知らねー」
「泉ってすごいね」
 何が、と問いたげに泉は眉を寄せたけれど、水谷はその先は言わなかった。言わないけど、泉を尊敬した。突然へたり込んだチームメイトを冷静に日陰に避難させ見ず知らずの家を訪ねて氷をもらってくるなんて、水谷には絶対にできない。過剰にオロオロしたのち、慌ててチームメイトたちを追いかけて呼び戻すぐらいがせいぜいだ。
「これ飲んどけ」
 中腰になって水谷の顔を覗き込みながら、泉がポカリの缶を差し出した。
「これももらったの?」
「ああ。オメー動けるようになったら、帰る前にいっしょにお礼言いにいくからな」
 確か自分こそが次男で弟であるはずなのに、まるで兄として育ったかのようにこどもに言い聞かせる口調で言うと、泉は氷をもらったという家のほうにまた歩き出そうとした。水谷は咄嗟に、ほぼ無意識に泉の手をつかんでいた。泉が訝しげに見下ろしてくる。彼の背負う空は、水谷の視界の中で本来の青さを取り戻していた。
「どこいくの」
「電話借りて、オレら戻んの遅れるってモモカンか篠岡に連絡すんだよ。って、あー番号覚えてねーな」
 言いかけて自己完結し、泉は百枝たちの携帯番号を思い出そうというのかむずかしい顔をして口の中で何やらぶつぶつ呟いていたが、すぐにあきらめたように水谷の隣に座り込んだ。泉の左半身が日向に出ているのに気づき、水谷は地面に尻を引きずって右側にずれると、つかんだままでいた泉の手を引っぱる。おおサンキュ、と泉が水谷に身体を寄せて全身日陰に入った。
 喉渇いたなあと水谷は思うけれど、ポカリの缶をあけるには両手を使う必要があって、つまり泉の手を離さなくてはならない。それはとても惜しい気がした。泉の手は熱く、自分のてのひらも熱くて、じっとりと汗をかき始めている。それを泉が不快に思っていたらいやだなあと、女の子と手をつないでいるときみたいな心配が急に真剣にわき起こり、あれーオレちょっと変じゃない? と思った。そもそも道端で男同士手をつないでいる現状に水谷はともかく泉まで特に疑問もない様子、これも日々の瞑想の賜物(ていうか一種弊害?)だろうか。
「おい、水分取っとけって。またすぐバテんぞ」
 即席アイスノンだけでなくポカリの缶まで一緒に首に押し当ててぼけーとしている水谷を見兼ねてか、泉が手を伸ばしてきた。泉の左手が水谷の鼻先を通って缶を奪っていき、プルタブをあけるのに当たり前に右手を動かし、それを握っていた水谷の手は他意なく簡単に振りほどかれる。
 手元に戻されたポカリの缶に口をつけながら、水谷はすこししょんぼりした。喉をすべり落ちてゆく慣れ親しんだ味はこの上ない清涼感と潤いをくれたけれど、泉の手の熱さのほうがよかったと思った。
 片手にポカリ、片手に即席アイスノンを抱え、両膝を立てて背中を丸める水谷の横で、泉はあぐらをかいてブロック塀に寄りかかっている。帽子でパタパタと自分の顔を扇いでいたが、すぐに思いついたように手の向きを変え、今度は水谷に風を送り始める。
「ありがとー」
 水谷はにへらと笑ったが、泉は無言だ。表情も変わらない。優しいこと、良いことをしているという顔をしていない。練習中のグラウンドや、学校の廊下ですれ違うのと同じ顔。水谷のために日陰を確保し、氷と飲み物を調達しに走り、扇いでくれてそばについていてくれることは、泉にとって善行でもなんでもなくただの普通だ。だって泉は最初からずっと、アホを見る目で水谷を見ることはあっても、迷惑そうな顔はいっさいしないのだ。
 それってやばいんじゃないの、と水谷は思った。指がゆるんでポカリの缶を取り落としたけれど、気づかなかった。それってすっげえかっこいいんじゃないの?
 ガコンと音を立てて地面に横倒しになったポカリの缶を、泉が驚きながらも素早く起こす。中身がすこしこぼれてアスファルトを濡らしたが、数分とせずに一滴残らず干上がってしまうだろう。
 缶を落としたと自覚するより先に泉に両手で頬を挟まれ詰め寄られて、水谷はぎょっとして硬直する。もう片方の手から即席アイスノンがすべり落ちてアスファルトの上でガシャリと鳴った。
「大丈夫か? まだそんなやべーのか」
 泉の真剣な顔がものすごく近い。言葉と息が直接唇にふれる距離だ。それなのに、それだからこそ、泉の言葉は水谷の頭を素通りした。
「こっ、こんなことぐらいで好きになったりしないんだからね!」
「はあ?」
 およそ返答にならないことを口走った水谷に、泉が困惑したように眉をしかめる。顔がますます近くなる。
「おい水谷、  てるか」
 こんなに間近で話しているのに、近くでみるとやっぱり大きな目だとか、汗の玉の浮いた意外に通った鼻筋だとか、うっすらひらいた唇だとかにばかり意識を奪われていたせいで、泉がなんと言ったのか水谷はまた聞き逃した。
「い、生きてますうー」
 生きてるか、あるいは聞いてるか、と言われた気がしたのでとりあえず一生懸命答えると、自分でも驚くほど情けなく声が引っくり返った。泉は一瞬世にも不可解なものを見たように変な具合に顔を歪め、それから、ふは、と大口をあけた。ひまわりみたいな笑顔になった。
「あーハイハイ、よかったなー」
 帽子の下に手を突っ込まれ、乱暴に髪を撫でられる。完全にこども、そしてアホ扱いされている、だけど泉の無防備な笑顔のほうがよっぽどこどもみたいだと水谷は思った。これほんとにさっきの泉とおんなじ泉? 簡単に髪とかさわってくんな。いずみこうすけ。
 帽子が地面に落ちてもなお髪を掻き回すのをやめない泉の手を、もう一度、水谷は強くつかまえた。
「好きかも、泉」
 言った途端、なんだか周囲の温度が下がったようだった。暑気を冷ます快適な方向にではなく、あっやべースベッた的な方向に。泉は高速で笑顔と手を引っ込めた。つかんだ手は邪険極まる勢いで振り払われさっきまでの病人に対する気遣いも粉微塵、泉は冷淡を通り越してもはや無機的に目を眇めた。
「きも」
「あっひでっ、やっぱぜんぜん好きじゃないですから!」
「マジきもい」
 泉は抑揚ゼロの声で言い捨てると、地面に落ちたままになっていた即席アイスノンを水谷に投げつけ、ポカリの缶を押しつけるように差し出して、そして急に何か思いついたように晴れやかに目を見張った。
「学校に電話すりゃいんだ!」
 なんの話、と水谷が訊く暇もなく泉は立ち上がり、ガッコの番号調べてシガポに連絡してくっからと言い残して、路地の向かい側の家へと走っていってしまった。水谷の血迷った発言なんてコンマ一秒で惜し気もなく忘れ去ったかのように、ぴかぴかの幼い笑顔の余韻も平たい嫌悪の名残りもない、落ち着いて引き締まったいつも通りの横顔をしていた。
 水谷は一気にポカリを飲み干した。まだ十分に冷えた甘い水は期待通りの爽快さで、喉の渇きと胃の底に最後までしがみついていた不快感を洗い流してくれたけれど、こんなものでは到底消し去れるはずもない。
 このてのひらに刻まれた泉の手の熱、思考に食い込んだ存在の鋭さは。

 

 

 2008.7.9
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