only
only only one.
見慣れたグラウンドをこんなに広く感じたのははじめてだ。朝早いにもかかわらず夏の空はすでにはるか高くひかりは強く、その下で白くかがやくあの端は世界の果てかもしれない、古びた校舎の壁と蔦の這うフェンスとに四方を閉ざされているのに?(笑える)汗とともに背骨を伝い落ちる妄想をそれ以上育てぬよう、浜田は右手の硬球を固く握りしめた。
日曜なのでどの部活も休みなのか時間が早すぎるからか、久しぶりに訪れた中学のグラウンドに人影はなく、啼き立てるセミの声と乾いた風、土埃だけが渡る。ごく細く耳鳴りがしているように感じたが、自覚した途端に消えた気もした。セミ、風、背中に響く公道のエンジン音、遠く運ばれてくる車輪がレールを噛む鉄の軋り、何ひとつ騒音になりえないこともあるのだと知った。どんな音が飛び交っていようと、人がいないだけでこの場所はこんなにも静かだ。
しんと閉じた校門が引けば動くのかまだ施錠されているのか確かめるのすらためらわれ(そもそも乗り越えるのは容易だがそれはルール違反だ)、浜田は敷地の外に突っ立ったまま落ち着きなく顔だけを動かす。高校のグラウンドとは比べるべくもなく明らかに狭いここなのに、野放図と呼びたくなるほどやたら先が見えない気がするのは人のいないせいだろうか。毎日のようにこの土を踏んでいたのがそう昔のことではないにしても、懐かしいという感情がろくにわかないのもそのせいか? わずかな恵みの雨のあとの砂漠の水たまりのように、悪に傾きゆくダークヒーローの良心のように、浜田のこころに生まれた懐かしさは底が知れていてあまりにも脆弱。それどころか、かつてここにいた自分の姿すら思い出せないと錯覚するほどに希薄だ。
(オレここで野球してたよね?)
浜田は途方に暮れかけたが、母校のグラウンドはそれすら許さないように他人の顔をしている。目を閉じている。寝たふりをしているようだ、と思った。とても拒絶に似ている。
「あっれ、浜田!」
突然背後から大声で呼ばれて、浜田は誇張なく飛び上がるほど驚いた。敵にうしろを取られた気分で(実際今日まで生きてきてそんなハードな危機に陥ったことなんてないが)慌てて振り返ると、泉が耳障りなブレーキの音を立てて自転車を急停止させたところだった。よほど飛ばしていたらしく、つんのめるように止まった自転車は浜田をだいぶいき過ぎていたが、会話するにはやや不自然なその遠さを泉はまるで意に介さない。
「何やってんだあ?」
「いやあー……」
陽に透けてますます黄色い軽薄な頭を掻きながら、野球という思い出のある母校を前に感傷にすら浸れないことに不安を覚えていたなんて恥ずかしくて言えるはずもなく、浜田はにへらと笑う。それだけで泉は、キモー、と言わんばかりに目を細めていやなものを見る顔をした。
「おまえは? 練習あんだろ?」
「ないわけねーじゃん」
「遅くね?」
休日は集合時間が変わることがあると聞いてはいたが、それにしたってじきに七時五十分。って、いやいや、日曜の朝八時前に学校に向かっているやつをつかまえて遅いもないもんだ、と自分で言っておいて浜田は思い直す。一介の健全な男子高校生だったら、まだ正しく就寝中でしかるべき時刻だ。だけどとにかく七時五十分。遅すぎやしないか、と結局もはや普通に思ってしまう、あの女監督に不当に常識をすげ替えられている気がする。……洗脳?
「おーもーギリギリ。サイフ忘れてさあ」
浜田よりだいぶ早く数倍強く洗脳済みらしい泉が、自転車にまたがったまま深くうなだれた。弁当さえ忘れなければ金なんて必要なさそうなものだが、練習帰りのコンビニでの買い食いの有無は彼らにとっては死活問題なのだそうだ。安い生き死にだなとつい口をすべらせてしまって、田島と泉と三橋(おまえまで!)に親の敵みたいに責められたことがある。
「ここでオメーに会うってわかってたらわざわざ取りに戻ったりしなかったのによ」
「え。追いはぎ?」
「それいうならカツアゲだろ」
泉はまったく悪びれもしない。こ、の、ヤ、ロ、と浜田が拳を握ってにじり寄ろうとすると、泉は校舎の壁時計を見上げてうおっと叫び、慌ただしくペダルに足をかけた。
「オレいくわ、オメーもくんだろ!」
「えっ、あ、うん。え?」
まるで当然みたいに大声で言われてつい勢いで頷いてしまい(え、あれ、なんでオレも?)、浜田があわあわと自分の自転車に駆け寄ったときには、泉の背中はすでに猛スピードで遠ざかり始めていた。ついていくのが本気で困難なその速度に感心するよりとりあえずびびりながら懸命に食い下がるうち、さっきまでの言葉にしがたいぐらついた不透明な気持ちは根こそぎちぎれ飛んでいた。消えてはじめて、明確に言いあらわす言葉を得た。
居場所がないという不安。母校のグラウンドが荒涼と他人のように見えたのは、かつて慣れ親しんだかどうかなんてもはや無意味、いまはもうそこが自分の居場所ではないからだ。そして、次に身を置ける場所が、浜田にはない。自ら選び取ることを放棄してしまったので、どこにもない。
「うおおいコラ浜田!!」
「ひえっ!?」
突然の危機迫る叫び声に我に返ると目の前に泉の自転車のケツ、横断歩道は赤信号、ブレーキをかけたが間に合わずぶつか、らなかった、泉はものすごい反射神経というか薄情さというか寸でのところで自転車ごと身をかわし、浜田は危うく車の走り出した車道に躍り出るところだった。
ひえええええ、っぶねええええェ!! とふたり揃ってひとしきり自分の身だけを心配したあと、殺す気かてめ浜ダブリ! てめーこそわけーんだから身体で止めるぐらいの根性見せろ! とかしばらく罵り合ううち、青になった横断歩道の信号はまた赤に戻ってしまった。
「あああマジやべええモモカンに握られる!」
車道に向かって本気で怯えた悲鳴を上げている泉の横で、浜田はふと右手の指が変にこわ張っているのに気づいた。目をやって、うわ、と耳が熱くなった。薬指と小指だけで危なっかしくハンドルを支え、ほかの指はといえばアホみたいにしっかりボールを握ったままでいた。無自覚であったことに驚くよりもむしろ引いた、自転車を飛ばしているあいだも、追突未遂の挙句に命の危機だった瞬間でさえこれか。
急に笑いたいような気分にもなって、けれど情けなく気持ち悪く頬がゆがむだけなのが自分でもわかった。強い視線を感じて慌ててボールをハーフパンツのポケットに押し込んだが、顔を上げると、泉はちょっと驚いたように目をまるくして浜田を見ていた。
「浜ダブリ先輩」
「そんな先輩は存じ上げませんが」
「オレ今日遅刻したらオメーのせーな。向こう一週間昼メシおごりな」
泉はなぜだか、ボールのことを何も言わなかった。
信号が青になった途端、またマッハですっ飛んでいった泉についていくのはもうあきらめ、明日から一週間は念のためサイフを持ち歩かないようにしようと決意しつつたらたら進んでいると、ゴ、と泉に勝るとも劣らない勢いの自転車が風を巻いて一瞬で浜田を追い抜いていった。あー浜田じゃあーん、と呼ぶ声がそのスピードで引き伸ばされるのか声だけ置き去りにされるのか妙に間延びして聞こえ、水谷? と目を眇めて確かめようとするもすでに信じられないほど先にいる。
はやくーしねーとー、とまだ言い続けながら水谷(仮)は角を曲がっていき、声もそこで途絶えた。考えるまでもなくあとには握られるとかケツバットとか続くのだろうが、浜田は部員ではないので遅刻もペナルティも関係ない。そもそも今日の練習に参加する義務がないのだが、なんだかみんな誤認をしているようだ。手伝いを頼まれない日にグラウンドに顔を出すと、何しにきたのヒマなのと人をヒマ人扱いするくせに(特に若干名が)、浜田が練習の場にいるのは当然と、いつの間にか誰もが認識しているようだ。
(あれ?)
パチ、と鼻先で火花が弾けたような気分だった。凝縮された陽のひかりと熱とセミの鳴き声に背中から貫かれた気がして、動揺して背筋がゾクゾクして、ペダルを踏む足に力がこもった。
(オレ、)
もう居場所、えらんでたんだっけ?
2007.11.29
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