目の前で女の子が泣いている。
髪の長い、ちょっと背の高い、目のきりりとした唇のあったかい女の子。
あー夢だ、と水谷は思った。だってこの子とは中二の冬に別れた。以来廊下ですれ違っても芸術授業の選択がかぶって同じ音楽室にいても下校時の下駄箱で三メートルの距離を置いてふたりきりになっても無言で靴を履き替えるだけで当たり前に赤の他人、まるで互いを透明人間みたいに存在を認めないみたいに(ちがうかもそんなおおげさじゃなくってただえーと忘れちゃってただけなのかも)二度と口をきかない顔を見ないまま別々の高校へ進んでそれっきり。だからいま彼女があのときみたいに止まらない涙を隠さず肩と拳を震わせて泣いてオレの心臓が痛む、ような気がするならこれはただの夢だ。
興味ないみたいな目しないで、と彼女は言った。ねえわかる、かなしくてしょうがないんだよ水谷はほんとはあたしのことなんかどっちだっていいんでしょ。校舎の廊下の突き当たりで、水谷は彼女の濡れた頬と耳にかかる黒髪越しに窓の外を見ていた。朝の天気予報では降雪率九割だった灰色の空は、いまだ雪を吐かないかわりに街の隅々までを自分と同じ色に冷やしきり、ガラス一枚じゃとても防げない冷気はブレザーの袖口から忍び込む氷の針のよう。
「さむいね」
水谷は言った。早く雪が降ることを願っていた。寒いだけなんてとても損をしている気がする、かなしくなる。
ほんとは好きじゃないんでしょ、ではなく、どっちだっていいんでしょ、という言葉を使った彼女は完璧すぎて言い訳の余地がなかった。緊張して心臓がドキドキする。どうすりゃいんだ。マジ、寒すぎる。雪が降れば寒いだけじゃなくて、きっと楽しくだってなるのに。
「ほんと、ムカツク」
ため息のように泣き笑いして彼女は言って、首に巻いていたピンク色の毛糸のマフラーを水谷にくれた。それでおしまい。バイバイも言っていない。
うわ、と口走って水谷は目が覚めた。震えるほど寒かったのが、目覚めた途端にもんわりと濃密なあたたかさに包まれた。ちょっとオレ最っっっ低なんじゃないのといま頃はじめて自覚することがまず最低だが思いながら周囲をよく見て、また、うわーと思った。あきれたように振り返って水谷を見ている阿部や花井たちクラスメート、それから教壇で寛容かつ不敵な笑みを浮かべている現国の女性教師といやというほど目が合った。あらー……授業中でしたかー……。
「みーずーたーにィー」
「はいーすいませえん!」
「顔洗っといで!」
教師の一喝とクラスメートの笑い声を背に水谷が教室を飛び出すと、「あっれ、米じゃん。なに便所? 保健室? 怒らした?」なぜか泉が廊下を歩いてきた。夏大の某試合以来、三学期に入ったいまでも「米」が野球部員たちから抜けきらないのは、間違いなくこいつの地味な布教活動のせいだ。なんかもうどうでもいいけど。
「怒らした。そっちは?」
「パーシーリー」
授業中に返却予定だったクラス全員分のノートを教師が丸ごと忘れてきたので、生物準備室まで取りにいくのだという。ぜってーわざとだと思わねえ? とブツブツ言っている泉と別れて水飲み場に向かおうとすると、うしろから襟首をつかまれた。
「ぐえ、なに!」
「生物準備室あっちだろ」
「オレ顔洗いに水飲み場いくんだけど」
「オレはノート四十冊取りに準備室いくんだよ」
「水飲み場」
「よん、じゅっ、さつ」
ふたりして自分の言い分が世界でただひとつ正しいみたいなマジ顔で数秒間にらみ合ったあと、水谷は折れた。最近、いやわりと前からときどき、阿部より泉のほうが俺様なんじゃないかと思うことがある。戻ってくるのが遅いと教師に怒られたら、必ず絶対神かけて泉のせいですと言おうと誓って廊下を歩きながら、水谷は長いため息をつき、ついでに疑問も吐き出した。
「ねーオレってさあ、なんにも興味ないよーな顔してんのかなあ」
隣を歩いていた泉は、すこし怪訝そうに水谷を見た。さむいなあと水谷は思った。窓は閉まっているのに、教室の中はあんなにあたたかいのに、冬の学校の廊下ってのはなんでこうどこも例外なく寒いのだろう。
「おまえなんも興味ねえの?」
「まさかあ。明日のマガジン超楽しみだし。泉オーバードライブ読んでるっけ?」
「読んでる」
「オレ大和が好きー」
「オレ寺尾さん」
両手を口元にあてて寒そうに息を吐きかけながら、泉はチラと水谷を見た。
「楽しみなもんあんだったらぜんぜんいんじゃねーの」
水谷は立ち止まった。明日マガジン買ったら回せよ、と言いながら泉はひとりでどんどん歩いていく。あのときも、あの子に、好きなものの話をすればよかったのだろうか。的はずれでも。彼女の求める答えじゃなくても。ちゃんと興味があるよと言えればよかった。そうすればピンクのマフラーはいまもあの子のもので、華奢な首が寒い思いをすることもなくて、
「あ、」
水谷を置いて廊下を曲がろうとしていた泉が、窓の外を見上げて足を止めた。
「水谷」
振り返って、楽しそうに笑った。
「雪だ」
2007.11.29
×
|