あの人なんでダラダラダラダラしてんだろうって考えたら簡単だった。あの人がアホだと信じてやまないオレの頭でも一秒でわかるぐらい答えは簡単だった。
 教室の机に両手で頬杖をついて、利央はフッと短く前髪を吹き上げる。別にムカつかないし、イラつかないし、悲しくもないからそれはため息じゃない。ため息なんてついてやらない。
 あの人はアホだ、と思う。あんたこそアホです、準さん。
 夏大初戦で負けてから、三年生が引退してから、準太は明らかに落ちていた。部活には出てくるけれど球に力がない、声に気持ちがない、目にひかりがない。監督や青木にそのことを指摘されると、やー体調がちょっと、と素直にヘラヘラ肯定したりする。そのくせポーズだけは取るのか骨の髄まで染みついた条件反射なのか練習メニューにはきっちりついてきて、けれどくたびれているのは汚れた練習着だけ、準太自身にはほかの部員の半分も疲れた様子がない。なんだその目立たないさぼり方。
 と、利央は思っていたけれど、やはりそう都合よく目立たずにいられるわけはないようで、しょーもねェなアイツどーするよ、と二年がみんな口を揃えているのは、すぐに一年部員のあいだにも伝わった。肝心のエースがあれでは示しがつかないと、準太本人が不在の場で、いや不在だったからこそ二年全体がかなり険悪になったことがあって、利央は真柴たちと一緒にビビりつつ成り行きを見守ったが、結局誰も本当のことは言わずじまいだった。エースのだらけっぷりをみんな怒っているけれど、重要なことを誰も準太に言ってやらない。
 いつまで言わないどくんだよ、と利央は薄く眉を寄せて唇を尖らせる。みんないつまで、どこまで、あの人に優しくしといてやるんだ。けれど利央自身も、監督や青木がいずれ準太を諭してくれるのを待っているだけなので、それを思うと情けない。
 ぐうと力いっぱい両腕を頭上に伸ばして、利央はそのまま椅子の背凭れに体重を預けた。窓の外にあふれる夏のひかりはキラキラと、空はどこまでも高く青い。あの日とは大違いだ。
(和さんはもういねーんだよ、準さん)
 引退した三年に教えを請うことはできても、支えとすることはできても、それはいままでとは明らかにかたちが違う。だからあんたはひとりで立たなきゃ、
「りーおー」
 突然廊下から響いてきた準太の声に、利央は動揺しすぎて呆気なく椅子ごとこけた。いちばん後ろの席なので誰にも迷惑をかけないかわり、掃除用具の入ったロッカーにもろに後頭部を打ちつけた。
「いっ……!」
 てええええいう、とまともに声にならない利央のざまを、教室の後ろのドアから顔を覗かせた準太は容赦なく笑い飛ばし、そのままずかずかと室内に入ってきた。
「ますますアホになんぞーりおー」
「なんっすか! 準サンがいきなり呼ぶからでしょお!」
「なんでオレのせいなんだよアホ利央」
 両手で後頭部を押さえて床に座り込んだまま利央は言い返したが、準太のにやついた表情は崩れるどころか余計に深まっただけだった。そう頻繁にあることではない上級生のクラス内侵入に、クラスメートたちが遠巻きにしながらも物珍しげに見守っている。
「英語の辞書持ってんだろ」
 準太は利央の横にしゃがんで目線を合わせると、片手を突き出して早く寄越せと催促した。人にものを借りる態度なのそれは。
「一年の貸したって意味ないじゃないすか」
「ホントにアホなんだなー。辞書なんて全学年共通だっつの。あ、全国か」
「ちゅ、中学生用とかあるじゃん……」
 赤面しながら、認めたくないが確かにアホだった自分の発言に苦しいフォローを入れる利央には耳を貸さず、準太は勝手に利央の机の中をあさり始める。すぐに目的の英和辞典を探り当てると、残りすくない休み時間を気にしてか、素早く立ち上がった。
「サンキュ。返すの部活んときでいいよな」
 一方的に決めてさっさといってしまおうとする背中を睨み、利央もゆらりと立ち上がる。部活。いまの準太がそう口にするのが許せない気がした。資格がないと、ちがう、そんな大げさなえらそうなことじゃなくて、心臓がぎゅうっとしてどうしていいかわからなくなるんだ。
「ねえ準サン」
 低く呼んだら、準太は廊下に片足を踏み出したところで立ち止まり、振り返ってすこしいぶかしげな顔をした。オレはいまちゃんと強い目でこの人を見据えることができているんだろうか、と利央はふいに怖じ気づく。すがるような顔をしていやしないかと頬が火照りそうになる。
 なんだよ、と準太の口が動いたのは見えたがその声を聞いた気がしないまま、利央は大股で準太に追いつき、その肩をつかんで廊下に押し出した。なんだよ! と今度は鮮明に準太の声が鼓膜を打って、怒ったように手を振り払われた。
 準さんあんたはもうひとりで立たなくちゃいけな
「オレといっしょに立ってくれる?」
「……どこに」
 救いようなくクソ鈍いラブコメヒロインみたいな台詞を素でかましてくれるこの人を殴りたい、と利央は思った。抱きしめたい、ではないだけまだまともだと思ったが、そんなことを考える頭なんてとうにまともじゃない。どうしよういつからだろうオレの頭おかしくない?
 深呼吸をしようとしたのに、こぼれたのはため息だった。別にムカつかないし、イラつかないし、悲しくないのに。
(悲しくない、)
 わかってるそんなのはウソだ。ただひとりの捕手しか見ようとしないエースにムカつかないわけがない、イラつかないわけがない、(悲しい)悲しくないわけが(悲しい悲しいかなしいよ準さん)
「オレだってミット構えてるのに」
「オイ?」
「あんたがそんなんじゃ、オレはまた和サンに頼んなきゃなんなくなるじゃないか」
 河合の名前を出しても、準太は特に反応しない。河合の引退を誰よりも強烈に致命傷のように引きずっておきながら、普通すぎるその態度はなんだ。普通じゃない、と、利央の目には映る。
「おまえ何言ってんだかわかんねェよ」
 準太は笑って、ドンと強く利央の胸を叩いた。またあとでな、と去っていく後ろ姿に大声で叫びたい衝動が、利央の背中を痛みのように駆け抜ける。
(目ェ覚ませ、エース!)
「準さん!」
 利央の声に準太は鋭く振り返り、うんざりしたように目を眇めた。うう、そろそろ怒られる。ヘラ、と利央はつい手を振ってしまった。準太はまったく何がなんだかわからないというようにとてもイヤそうに顔を歪め、それでも手を振り返してくれた。
 結局何ひとつ言えないまま、利央は準太の姿の見えなくなった廊下で目を泳がせる。授業の開始を知らせるチャイムが鳴って、廊下に出ていた生徒たちが次々に教室に引き上げていく。
 ぐし、と手の甲で目をぬぐい、肩を落として利央も教室に戻った。なんだか涙が出る気がするのは、空が青すぎてまぶしいからだ。
 倒れた椅子も起こさずに机の脇に突っ立って河合にメールを打とうとして、冷たく硬張る指と携帯をしばらく睨んだ末にやめた。いまやめたって、明日か明後日か一時間後か、河合に助けを求めることには変わりないのかもしれない。
 だけど、和さんの力を借りてだって、オレの言葉じゃなくたって、準さんが前に進んでくれればそれでいいんだ。
(立ってくれ、準さん)
 オレたちのエース。 

 

 

いいからさっさと立ちやがれエース!!
オレのエース!!

 

 

 2007.11.8
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