葦と甘藍
大人びた少年であるという以外に、取り立てて感想も印象もなかった。大人びているという点から通常派生しやすい生意気さ、慇懃さ、思慮深さなど、第一印象に肉付けをする要素が彼からは一切感じられなかった。それはつまり、薄っぺらいのか底が知れないのか甚だ不明ということだったが、別にどうでもよかった。物事の真実を求めるなど、この何もない田舎町で生きる喜びを見出そうと足掻くのと同義だ。クソみたいに不毛。
だから足立は、はじめてその少年に会ったとき、十六、七にしては落ち着いた子だなあと、なんの興味もなくそれだけを思ったのだった。
いま、足立と連れ立って夕暮れの鮫川土手を歩く少年は、初対面時からずっと変わらず年不相応に静穏だ。そしてその印象に準じて沈黙を嫌わぬらしい。ジュネスの食品フロアで鉢合わせ、不用意にもずるずると行動をともにしてはいるものの、足立は彼と会話らしい会話をしていない。
自分は口数が多いほうだと足立は思っている。生来無口な質ではないのに加え、多弁を演じてきたのだから当然だ。他意なく悪意なく口に締まりのない男。間抜けとそしられることはあっても警戒や敵意を向けられることはない。まるでぬるま湯。
こんな生き方に長く浸かっていれば手足の皮ばかりかやがて脳まで白くふやけてしまうに違いない。気持ち悪くて笑えるなあと日々思う。醜くふやけてゆくのが自分自身であるということはさほど問題じゃなかった、自分がふやけきって溶け崩れる頃には、きっと世界もそうなっているだろうから。
隣を歩く少年が手に提げたジュネスのレジ袋からは、象牙色と濃い黄色の二本のたくあんが覗いている。そういえばこれについてだけ、今日彼とまともに言葉を交わした。唯一の話題がたくあんて。本当にどうでもいいなあ。
ジュネスの食品フロアでばったり会ったとき、足立の買い物カゴはまだ空、少年のカゴには入り口付近に山積みされていたバナナがひと房入っているのみだった。つまり二人ともこれから買い物を始めるところで、やけに自然な流れで一緒にフロアを回ることになってしまい(なんてほのぼのした展開なんだ鳥肌が立つ、でも変に理由をつけて別行動を申し出るのも億劫だった)、足立は野菜コーナーで特売のキャベツを適当にカゴに放り込んだあとは、仕方なくただ少年のあとについて歩いていた。
少年はあらかじめ完璧な買い物リストを頭の中に書き留めていたようで、迷いなく、そして慣れた様子でにんじん玉ねぎにんにく(高くても国産にこだわっていた)セロリと、次々カゴに入れていく。その熟練主婦みたいな淀みない動きが、たくあんやららっきょうやらの漬け物コーナーの前で急に止まった。上下左右にずらりと並んだ驚くほど種類の豊富なたくあんを食い入るように見つめて動かないので、買うの? と足立は声をかけた。
「太郎さんの好物なので」
「太郎さん?」
足立の頭に、自分の職場や市役所などで非常によく見かける「稲羽 太郎」氏が浮かぶ。さまざまな書類記入例の氏名欄に漏れなく登場する、名前だけの有名人だ。その顔はひどく青ざめて、目も鼻も口もない。
「あ、遼太郎さんのことです。遼太郎って長いでしょう」
「意外と横着なんだねえ」
「いえそれほどでも」
そして外見に似合わずすっとぼけている、と足立は思う。演じているのか素なのかは表情や挙動からはまったく読めない。
彼は足立の上司、堂島遼太郎の甥っ子で、現在堂島家に居候中だ(そんな決して浅からぬ関係であるがゆえ、一緒にスーパーでお買物なんてうそ寒い目にあっているわけで)。聞けば甥と叔父としての交流は、少年が物心ついてからは皆無に等しいらしい。記憶の上では他人同然の家に単身預けられた身でありながら、その家の主の名前を長いからと省略するとは、物怖じしないのか、この短期間で早くも血縁ならではの絆を深めたのか。別にどうでもいいけれど。
「そういえば僕、たくあんて自分で買ったことないなあ」
「俺もです」
「え?」
「いつもは菜々子が買ってるんです。なので、どれが太郎さんのお気に入りなのかわからない」
「え、でもそれってきみも食べてるんでしょ? これとこれなんかぜんぜん色が違うし、だいたい目星つくんじゃないの?」
まさかこんなに種類があるなんてと若干遠い目で呟く少年に、足立はつい助け船を出す。少年は表情自体は薄いながらも眉間に生真面目なしわを刻み、片手をあごにあててすこし首を傾げた。
「学業面での暗記は得意なんですけど、実用的な記憶力はちょっと」
自慢混じりとも取れる発言が嫌味に聞こえないのは、その声音の不可思議な心地よさゆえだろうか。無表情と相まって正体はないのに、決してぶれない堅実な響き方をする。やさしい、というのじゃなかったっけ、こういうのを?
(あれ?)
何考えてんの僕、と足立は我に返る。心地いいとか優しいとか、なんのことだ。
「うーん、じゃあこの白っぽいほうじゃない? こっちの黄色いのは着色料とかすごそうだし、堂島さんそういうの嫌いでしょ」
「いえ、ジャンクなものも案外平気で食べます」
「あれ、そうだっけ?」
僕も結構一緒に食事してるのに気づかなかったなあと、足立は笑って頭を掻いて見せる。少年はにこりともしないまま、たくあんを見るのとまるで変わらない目で足立を見た。
「観察眼は磨いておかないと、足立刑事」
「あはははははは」
「笑ってごまかすなってこのあいだ太郎さんに言われてましたよね」
「き、厳しいなあ! きみあんまり堂島さんに似てないって思ってたけど、やっぱり似てるよ」
大げさに肩を落として足立がしょげると、少年は若干複雑そうな面持ちになって口をつぐんだ。きみは僕だけじゃなくて堂島さんに対してもだいぶ失礼だなあと、足立はすこし愉快になる。同時にやはり思う、(まあそんなこと、どうでもいいんだけどね)
人の言動なんて、感情なんて、人なんて、実にどうでもいいのだ。それらがなくとも誰しも命は続くし、かといって終わる際に必要なものでもない。生きるにも死ぬにも不要ならただ無意味じゃないか。そんなもの大事にする必要がどこにある? 他人を気遣いつながりを重んじ自身の心と正しく向き合いながら日々を浪費する、美しく、健やかで、反吐が出るほど退屈だ。勝手にやってろ、馬鹿どもが。
「太郎さんはうまければなんでもいいと思ってる節があるので心配です」
「刑事は身体が資本だからね。栄養バランスは大事だよ」
「まったくです。まあ俺が心配なのは主に菜々子なんですが」
キャベツしか入っていない足立の買い物カゴをじっと見る彼から、自分の身体を盾にそれとなくカゴを隠しつつ、足立は大きく頷いて見せる。
「育ち盛りだもんねえ菜々子ちゃん。ちゃんとしたもの食べさせてあげないとね!」
きみはほんとにしっかりしてるなあ堂島さんも助かってると思うよ男の子でその年で料理ができるなんて尊敬しちゃうなーとにこにこしながら、足立は色の濃いたくあんと薄いたくあんを一本ずつつかみ、勝手に少年の買い物カゴに入れた。少年がすこし驚いた顔をする。
「とりあえず適当に買っちゃいなよ。はずれだったら僕が引き取ってもいいしさ」
「なるほど。ありがとうございます」
律儀に頭を下げるその顔に、ナイスアイデア、とあからさまに書いてあるのがとてもおかしい。賢いのか抜けているのか、フェイクなのか本当に隙があるのかわからなくておもしろい、と思った。うまく泳がせてやれば、打ち捨てられた屍のようなこの腐った田舎町での生活を、すこしはおもしろくしてくれるかもしれない。もちろん首に縄はつけさせてもらうけど。
「わりと応用がきかなかったりする?」
無遠慮に足立が尋ねると、少年は特に気分を害した様子もなく、一瞬思案するように視線を斜め上に走らせる。
「そうかもしれません。応変すぎて逆にハラハラするって心配されることもありますけど」
言ってから、少年はしまったというようにわずかに目を泳がせてまばたきを多くした。ポーカーフェイスと名高いけれど存外わかりやすいじゃないかと足立は思う。
素知らぬふりで少年の失言を追求しもっと焦らせてみたい気もしたが、考えなしにキャベツを五玉も入れた重たいカゴをぶら下げて突っ立つのにも疲れてきたので、足立はあえてスルーしてやることにした。あとは何買うのと話を逸らしてやれば、少年は若干の安堵を滲ませた目の細め方をして、卵と挽き肉と、と言いながらまたフロアを歩き出した。
「足立さん」
「ん?」
「たくあんて大根なんですよ」
「それぐらい僕だって知ってるよ!」
会計を待ってレジに並んでいるときのそのやり取りを最後に少年が黙ったので、足立も特に話しかけずにいたら、ジュネスを出て住宅街を抜け鮫川河川敷に差しかかったいま現在まで、二人のあいだには延々と沈黙が横たわることになった。
“お調子者の足立透”に相応しいのは常に空気を読まず無駄口を叩き続けることなので、足立は普段あまり沈黙を好まない。けれどいま少年とのあいだにある沈黙は取り立ててなんの意味も含まず、従って気まずさも深刻さもなく、もとより彼にどう思われようがさして問題ないと足立は思っていたので(そう、このときは本当にそう思っていた)、現状維持というかただ放っておいた。
夕暮れの色が夜の風に徐々に押し流されつつある河川敷の土手には、足立たちと同じくジュネス帰りの、あるいは夕方以降に増え始める値引き品を狙って遅めの買い物に行くのだろう主婦たちが、絶えずちらほらと行き来している。若い男が二人、しかも片方は学生服が連れ立ってジュネスの大サイズのレジ袋をガサガサ揺らしながら歩いているさまは一種異質だろうなあどうでもいいけど、と足立は思う。どうでもいいことばかりなのになぜ結局いつも考えてしまうのだろうと、過去一度たりとも浮かんだことのなかった疑問がふと頭をよぎる。人間は考える葦である。って、なんだっけ? 面倒だなあ。
「足立さん」
「えっ?」
急に呼ばれ、足立はぼんやりと路面を辿っていた視線を慌てて上げる。いつからそうしていたのか、隣を歩く少年は首をきっちり九十度横に向けて、まっすぐに足立を見ている。夕日に焼ける髪の毛は墨色とも見える奇妙に色の抜けたような黒髪で、茶色く透けることがない。前髪に隠れがちなやや吊った瞳も同じ色。色素、細胞からしてわかりにくく生まれついているみたいだこの子は、と足立は意識の底辺でうっすら認識する。
「釣りはしますか?」
「しないなあ。魚ってちょっと苦手なんだよね、目とかウロコとかこわくない? あ、食べる分には好きだけど」
上辺ではもっともらしく苦笑して答えながら、足立は腹の底で漫然と考える。この子はやっぱりわかりにくいのかもしれない、わかりにくいのかどうかがまずわからない、ならばいままで読めた気でいた彼の内面もすべて誤りだった可能性が大だ。別にどうでもいいけど、と思うのが、すこしだけいつもより遅れた。ぞっとしたような気がして、足立はその事実に気づかなかったふりをする。
「俺このあいだ、はじめてヌシ様釣ったんです。今度釣ったら足立さんにも見せてあげますね」
「え、ヌシ様って一匹しかいないからヌシ様っていうんでしょ?」
「名前に騙されちゃだめです。あ、ほら」
少年が口調の穏やかさとは裏腹に鋭く土手の下を指差す。つられて足立も急いで目を向けると、夕日の照り返しと石に砕ける白いしぶきが眩しい川面を、巨大な魚影が悠々と泳いでいくのが見えた。
ね? と少年が、心情を読み取るまでもなくはじめて年相応に嬉しそうな顔をした。両腕を左右に大きく広げ、ヌシ様と呼ばれる巨大魚の体長を示して見せる。
「菜々子ぐらいあってピカピカでかわいいですよ。金魚に似てる」
「いやだから苦手なんだってば。ていうかいやだよそんなでかい金魚!」
「大丈夫、食べられるから足立さんもきっと好きになります」
「ああ、そう……」
大丈夫という日本語の誤使用だ、いまの若者の言葉は乱れている。足立は演技でなく脱力し、引きつった笑みを浮かべた。
かわいいと言いながら食ったのか。みんなかわいいこどもたちですと破顔して語っていた、ずっと昔にテレビで見た養豚会社の社長を思い出す。あの頃はまだ世の中を知らないこどもだったので、殺して食うために育てるなんて、それをかわいいと笑えるなんてと衝撃と気味悪さを覚えたが、いまならなんとも思わない。仕事に愛と誇りを持ってらっしゃるんですね、と砂を噛むような感想がこぼれるだけだ。愛でることと殺すことの境界なんて曖昧だと知ってしまった。
ヌシ様見せてあげますと執拗に迫る少年に丁重に辞退を申し上げるうち、河川敷を逸れ、また住宅街に入る。じきに見えてきたY字路を境に、足立のアパートは左、堂島家は右だ。じゃあまたね、と心持ちホッとしながら手を振って足立が左の路地へ進みかけると、少年は無言で足立の持つレジ袋に手を突っ込んだ。ぐいと引っぱられる感覚のあと、袋がすこし軽くなる。
「うわ、ちょっと、何?」
驚いて振り返ると、少年の手には足立のレジ袋から強奪したキャベツがひと玉。
「たくあんと物々交換てことで」
「あのね、僕は別にたくあん欲しいわけじゃないんだよ。ていうかきみもキャベツ買ってなかったっけ?」
「菜々子のリクエストでロールキャベツ大会やるんです。やっぱりふた玉じゃ心許ないかと思って」
キャベツ三玉分のロールキャベツっていったいいくつ作る気だ。そもそも大会ってなんだ。ていうか返せ。どこから突っ込むべきか一瞬迷い、ああもうどうでもいいかといつも通りに足立が投げ出す寸前、足立さんもきませんか、と少年が言った。
足立は少年を見る。灰色がかった少年の瞳は銀にも似た潔い平らかさで、ただ灰色いだけの足立の視線を受け止める。はは、この子は、と足立は顔にも声にも出さずに笑う。
「いや、僕はいいや。きみを見習って自炊がんばってみるよ」
「キャベツだけで?」
「そういうツッコミは禁止」
「じゃあ明日はどうですか。向こう三日間はロールキャベツなので。今日は中華風、明日はトマト、最終日は和風です」
「はは、ありがとう。堂島さんにもきみからオッケーもらっといてよ、そうしたら僕も行きやすいから」
わかりました、と表情を変えずに頷いて、少年はキャベツをレジ袋にしまうと重たそうに左手から右手へと持ち替えた。少年の耳の高さに、遠く、残照に縁取られた山が見える。
じゃあ、と会釈しかけて、少年はふいにまた足立の目を見た。
「俺、最近太郎さんに聞くまで、たくあんは大根だって知りませんでした」
太郎さん大爆笑でした、と言って、少年は帰っていった。ぱんぱんに膨らんだレジ袋の重みなのか、心持ち右に傾いて見える後ろ姿を見送りながら、やはり泳がせるより首の縄を絞めてしまおうか、と足立は一瞬考える。きみみたいなこどもが一等嫌いだよ、と、人畜無害なお調子者の締まりのない表情を顔に張りつけて、思う。何とくらべて一等なのかとふと自問し、何もかもだと我ながら爽快なほど即答できたことに、つい本心からの薄笑いが漏れそうになった。
反射的に口元を手で覆って隠し、粘つく熱を帯びた目を伏せたが、喉を震わせる笑い声は噛み殺せない。
(きみが、一等嫌いだよ、月森くん)
2008.12.28
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