ファイティングガールズ!
演劇部の台本を片手にぶつぶつと台詞を呟きながらろくに前も見ずに蛇行気味に鮫川沿いの通学路を下校中、ふと直感めいたあまりよくない感覚が働いて月森は土手の下の河原に目をやった。一瞬固まった。きみを失くした僕の愛はいまや砂塵のように彷徨うばかヒイ、とついおかしな悲鳴を上げてしまった。
町はうつくしい夕焼け色に凪ぎ、里中の特訓の場としてお馴染みの河原の端の草地も優しい橙に染まっている。いつものように制服の短いスカートの下にスパッツ装備(とてもざんね、いえ、なんでもないです)の勇ましい里中の姿が地面に長く影を落とし、その隣に、かわいらしい影がもうひとつ。
月森はいつになく平常心を失って台本と鞄を取り落としたことにまったく気づかず、ばさりどさりと足元で鳴ったその音にびびってまたヒッと肩を縮める。花村や一条あたりがこの場にいたら(花村はたぶんいったん大いに引いてから)さぞイイ笑顔で落としたものを拾ってくれて「落ち着け、お兄ちゃん」とでも言ってくれたろう、失笑を噛み殺しながら。友人の動揺する姿を見て喜ぶなんてとんだ人でなしども。
だが、河原で里中と一緒にキャッキャとはしゃぐ菜々子に向かって土手の上から遠くおろおろと制止の手を伸ばしてみたりする月森の姿は、普段の彼を知る者なら漏れなく笑いを誘われるに違いなかった。めずらしいものとおもしろいものは大概イコールなのである。
菜々子と里中が一緒にいるのは別に構わないのだ。菜々子は“お兄ちゃんの友達”という絶対的な信用度を差し引いても十分里中に懐いているし、里中も菜々子をかわいがってくれている。月森の部活日である今日は菜々子が夕飯の買い物当番で、その買い物の帰りに河原で里中と出会って彼女の特訓を見学しているだけなら、何も問題はなかった。優しくてかっこいい自慢のお兄ちゃんが、両手を頬に当てていまにもイヤーとか叫び出しそうなガッカリな姿を露呈することもなかった。
菜々子はその未熟な腕力には余るだろう丸々と膨らんだジュネス製エコバッグを河原のベンチに置き、すこし離れた大きな木の脇に里中と並んで立っている。小さな両手で力強く拳を握ってあごの前で構え、立派に脇を締めて、キッと前を見据えている。
月森は頬に手を当てたままきつく目をつむり、ゆっくり五つ数えてから勢いよくあけてみた。河原でくり広げられる光景、変わらず。幼いかわいい従妹の凛々しいファイティングポーズ、健在。つまりこれは現実です。うわー。うわー!
月森の混乱および恐怖状態をよそに、菜々子の隣で同じく構えていた里中が空中に鋭くワンツーをくり出した。すると菜々子もすかさずそれを真似してシュッシュと幼い拳を突き出す。
見事なファイティングポーズに続き、従妹の小さな全身にみなぎるファイティングスピリットに月森は気が遠くなりかけた。里中さんあなたの戦闘スタイルは足技オンリーではなかったのですかボクシングもいける口なのですかていうかどっちでもいいから小学生女子に格闘技指南は勘弁してくれ。
ダッシュで止めに、むしろ菜々子を抱えていますぐ逃げるべきだと月森は思ったが、ワンツーを打ち出しては里中と笑顔を見合わせる菜々子の楽しげな様子になかなか決心がつかない。菜々子に甘いとか弱いとかシスコンだとか、そういう問題ではないのです。あの天使の笑顔を曇らせるような真似ができる輩がこの地球上に存在し得ようか。つーかいたら表に出ろ、鼻血噴かす。噴かした上で宇宙人認定してやる。
しかしこのまま傍観していたら将来的に非常によろしくない事態になりかねない、いつの日か目の覚めるような回し蹴りや飛び足刀や前宙からの踵落としを披露する菜々子、を想像して月森が青ざめた瞬間、出た。里中の超必殺、上段回し蹴りからの逆足での飛び後ろ回し蹴りが。
ドオオン、とおそろしい音がして太い幹を蹴りつけられた大木全体が震え、大量の木の葉が夕日を弾きながら舞い落ちる。テレビの中でシャドウを蹴散らすのとはまた別の生々しさと破壊力を目の当たりにし、ひいいいいとさらに青くなる月森の頭上を、赤い空に黒く影を抜いたようにカラスがゆったりと輪を描いて飛んでいる。カー。
「千枝おねえちゃん、すごい!」
「へっへー、これぞ特訓の賜物なのだ!」
興奮した様子で目を輝かせる菜々子に、片脚を上げたまま里中がVサインをして見せる。ぱちぱちと拍手で応えたあと、菜々子は真剣な顔で自らまたファイティングポーズを取った。
「菜々子も!」
「よっし、じゃあまずは右ローキックからやってみよっか」
「右ロー、キックって、いまのやつ?」
「ううん、もっと基本的な技。いきなり飛び蹴りとかは危ないから、順番にね」
「ローってなあに?」
「えっとね、下段蹴り、って言ってもわかりにくいよね、こう、低めの位置でね」
着々と進む里中道場の蹴り技指南を立ち尽くしたまま見守っていた月森は、頭上でひときわ高く響いたカラスの鳴き声にハッと我に返った。複合バステ起こして戦線離脱してる場合じゃねえ!
月森は急いで台本と鞄を拾い、猛ダッシュで土手を駆け下りる。その足音を聞きつけたのか、菜々子がすこしポーズを崩して土手のほうを向き、あっお兄ちゃんだ! と嬉しそうに真っ白な歯を見せた。
「よーっす月森くん、バイトお疲れー」
「いや、今日は、部活」
「あっそっか、どっちにしろお疲れー。てゆーかどしたの、そんな急いで」
息を切らして駆け寄った月森に、里中が明るく労りの言葉をかける。秋口の夕方とはいえ気温はまだそれほど下がっておらず、細い首筋にうっすらと光る汗が彼女の笑顔を一層溌剌と見せている。その気力体力を見習わなくてはと我が身を省みながら激しく息を弾ませ、うん、とだけ答えた月森の腕に、菜々子が勢いよく飛びついてきた。
「お兄ちゃん、千枝おねえちゃんすごいんだよ! とっくん! あのね、ケンカのぼーりょくじゃなくてね、自分とたたかうためなんだって。あとね、町のへいわを守るんだって。お父さんといっしょだね!」
目をキラキラさせていつになく大きな声で言い募る菜々子と、頬を赤らめて照れ隠しのように軽快なステップを踏む里中を見比べ、月森はとりあえず引きつった笑みを浮かべるしかなかった。二人の頭上にぽわぽわと花でも咲きこぼれていそうなこの雰囲気の中で特訓中止なんて空気を読まない発言、普段鉄壁のマイペースを誇るさすがの月森でもとてもじゃないができそうにない。菜々子のキラキラ笑顔とぽかぽかテンションに水をさすなんてお兄ちゃんにはムリ、キライ、シンドスギ!
だけど上段回し蹴りから飛び後ろ回し蹴りの超必殺コンボをかます未来の菜々子も、お兄ちゃん無理です。大好きだけど、しんどすぎます。
月森が不自然な微笑の裏でぐるぐると葛藤しているあいだに、里中が実にきれいなフォームで右のローの手本を数回見せ、それからふいに思いついたように菜々子に笑いかけた。
「そうだ菜々子ちゃん、お兄ちゃんにも特訓手伝ってもらおっか」
「うん!」
「月森くん菜々子ちゃんのこっち側に立って、手つかんでてあげてよ。最初はどこかにつかまってたほうがバランス取りやすいし、転んじゃう心配もなくなるしさ」
え? とろくに聞いていなかった月森が訊き返す間もなく、菜々子が月森の右側に回ってぎゅっと右手を握ってきた。反射的に握り返した月森の耳に、よーし! とかわいらしくも凛々しく意気込む声が飛び込んでくる。
菜々子の右足が地面から離れる寸前、月森は咄嗟に叫んだ。
「す、スカート!」
「え?」
「は?」
菜々子と里中が揃ってきょとんと月森を見た。スカートってなに!? と月森自身も正直まったく自分の発言が理解できなかったが、勢いに任せて無理やり言葉をつなぐ。
「スカート、だから、えーと、そ、そうだ今日はスカートだからだめだ菜々子!」
グッジョブ言霊使いの俺! 本音は違うけど確かにそういう心配もありました、嫁入り前の娘にはしたない真似をさせるわけにはね!
「スカートでキックはよくない、また今度にしよう」
「あ! ああーそうだよね! そうしよ菜々子ちゃん、続きはもっと運動しやすいかっこしてるときにしよ、ズボンとか」
月森の言わんとしていることを察した里中が、慌てつつも素早く加勢に回ってくれる。菜々子は二人を交互に見上げて大きく目をまばたかせたあと、明らかにむっとした様子で眉間にしわをよせた。
「菜々子、スカートでもうんどうできるよ。それに千枝おねえちゃんだってスカートだよ!」
「あーうん、そうなんだけど、あたしは下にスパッツはいてるし」
里中がしまったなーと顔に書きながら、スカートの裾を両手でぱたぱたとひらめかせる。やめなさい、と月森が目で訴えると、さらにしまったという顔で耳まで真っ赤にし、慌てたようにスカートを押さえた。
「あ、アハハー。えっとね菜々子ちゃん、お兄ちゃんがスカートって言ったのはほんとはね、」
「うわ待て里中!」
「たとえば、菜々子ちゃんがお嫁にいけなくなっちゃったら困るなって心配してるっていうか」
たとえてねえええ、と月森は遠吠えしそうになった。ストレートすぎる単語を避ける配慮はさすがにあったようだがある意味そのまんま、しかし菜々子にとっては婉曲的すぎてより不審と困惑を招くだけだろう。月森が叫ぶまでもなく里中自身も即失言と気づいたようだが、超あとの祭り。
あわわわわ、と慌てまくる二人に菜々子は案の定訝しげな視線を向けていたが、急にハッと目を見ひらき、それから見る見る不安でいっぱいの顔になって里中にすがりついた。
「スカートでとっくんしたらおよめさんにいけなくなっちゃうの? おぎょうぎわるいから? どうしよう、菜々子そんなのいやだよ!」
「ご、ごめん菜々子ちゃん、ごめんね! 違う違う、ぜんぜん大丈夫だから!」
「菜々子きめたんだもん、大きくなったらお兄ちゃんのおよめさ、」
ピタ、と菜々子の声はそこで壁にぶつかったみたいに唐突に止まった。片手で菜々子の背を、もう片手で頭を撫でながら懸命になだめようとしていた里中の動きも同時に止まる。
菜々子が恥ずかしさのあまりどうしていいかわからないというように真っ赤になり、里中の腰にしがみついたまま怒ったみたいに月森を睨んだ。えええなんで俺なの、と情けなく怯む月森をよそに、さっきまで困り果てた顔をしていた里中が思いきり相好を崩して菜々子を抱き締める。
「もおおお、菜々子ちゃんはほんっとかわいいなあ! 月森くんてば果報者!」
菜々子は里中の腕の中に閉じ込められて小動物みたいに撫でくり回されていたが、彼女が腰に巻いたジャージの袖の結び目が顔に当たるらしく、いたいーとくぐもった声を上げて身をよじった。笑いながら謝る里中の腕から逃げ出すと月森に駆け寄ってぴたりと隣にくっつき、すこし頬を膨らませて上目遣いに里中を見る。
「あたしも菜々子ちゃんみたいな妹ほしいなあ。むしろ菜々子ちゃんがほしい!」
「やらん」
悪びれずににこにこする里中に月森が思わず真顔で答えると、里中は楽しげに大きな笑い声を立てた。菜々子はなんだかよくわかっていないようだったが、里中につられたのかすぐに膨れっ面を引っ込めて頬をほころばせ、月森を見上げてはにかむように笑った。月森も微笑み返し、里中に撫で回されてあちこち乱れてしまっている菜々子の頭に手をのせる。
「帰って夜ご飯の支度しようか」
「うん! あのね、たまごがとくばいひんだって花村お兄ちゃんがおしえてくれたから、いつもよりいっぱい入ってるの買っちゃった」
「じゃあ今日は卵料理だな。オムレツはこの前やったから、うーんと、茶碗蒸しは好き?」
「ちゃわんむし! たべたい!」
菜々子がはしゃいだ足取りでベンチに荷物を取りに行ったのと入れ替わりに、里中がにやにやと月森に寄ってきた。
「愛されてますなあ、お兄ちゃん」
「里中、夢いっぱいの女の子相手に嫁に行けないとか言うな。現実を知ってる大人のお姉さんにももちろん言うな」
「すまんでござった! でもさすがに大人のお姉さんには言わないよ、そんな微妙なラインこわくてふれられないって」
「あと菜々子の特訓はできる限りソフトにお願いします」
「だーいじょうぶ、そのへんはばっちり考えてやるから!」
夕日に髪をきらめかせて里中は力強くグッドサインを突き出した。つまり今日のあれは彼女的にはまったくソフトの範疇なのだなと月森は溜め息を飲み込んだ。格闘家方面をめざす予定などまるでない六歳の女の子にものすごく先を見越した基本技から教え込むのがソフトであるならいざハードとなったらどれだけハイレベルな世界がくり広げられるのか。興味はあるが首を突っ込んではいけない気がする、ちょっと本気で入門してみたくなるぐらい興味はあるが。
「じゃーあたしはもうちょっとやってくから。明るいうちは特訓タイムってね!」
「帰り道気をつけてな」
「うん、ありがと。あ、ねえ、もし茶碗蒸し余ったりなんかしたら明日のお弁当に持ってきてほしいなーなんて」
「わかった、里中の分は確保しておく」
やったーゴチんなりゃあっす! と熱く喜ぶ里中に別れを告げ、月森は足早にベンチへ向かった。重たいエコバッグをちょうど抱え上げようとしていた菜々子の後ろから手を伸ばし代わりに持ち上げると、菜々子は振り返って嬉しそうにほんのり頬を染めた。
「じゃあ、お兄ちゃんのかばんは菜々子が持つね」
かわいらしい提案に素直に甘え、月森は鞄と台本を菜々子に預ける。菜々子は丁寧に鞄に台本をしまって蓋を閉めると、満足げに、大事そうに胸に抱えた。それから、木の下で舞い落ちる木の葉を標的にハイキックの連打をくり出していた里中に向かって大きく手を振る。
「千枝おねえちゃん、ばいばい!」
「バイバーイ菜々子ちゃん、今度またいっしょに特訓しようね!」
うん! と元気に答える菜々子と手をつなぎ、月森は微笑ましさと切実な危機感とを一緒くたに腹にしまって帰路についた。ちょっと胸焼けしそう。菜々子にも里中にも不満を抱かせずいかに無理なく菜々子の特訓参加を回避すべきかを考えれば頭痛もしそう。そんな高いハードル、越えられる気がしない。
2009.10.7
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