昏き日輪のごとき人の子よ
昏き日輪のごとき人の子よ

 

 

 

 

 町に雨の降る日、その店員は決まって店先に立ち、その男子学生は決まって店の前を通りかかった。雨の日にだけ出会う必然はまるで約束事のようでいて、単なる日常に過ぎなかった。いつにも況して閑散とした雨天のガソリンスタンドでは、店員が大してない仕事の手を遊ばせて客ではない学生の相手をしようと、特に急ぎとも見えぬ学生がそのゆるやかな歩を刻む足を止めてすこしばかり商売の邪魔をしようと誰にも咎められはしなかったろうが、二人は互いに声をかけることはなかった。
 傘を差してガソリンスタンドの前を行き過ぎるとき、学生は必ず店員を視界の中央に捉え、軽く目礼をした。知らぬ仲ではないから、という殊勝な心がけからの行為であるのだろう。そのわりに、傘を持たないほうの空いた手が学生服のズボンのポケットに入ったままのことが間々あった。店員は学生のそういう人を食った、あるいは迂闊なところが気に入っていたから、気が向けば薄い笑みとともにふらりと手を振って見せたりなどしていた。学生はいつも無機質と紙一重の真顔だった。
 じきに冬を迎えるに至ったその日の雨は冷たかった。
 店員は、雨靄の向こうにいつも通り学生を見ていた。学生は傘を差していなかった。寒さのせいか心情の表出か、顔色が悪かった。もともと男にしては白い肌の色と、墨を薄めたようなあまり見ない髪色が雨に紛れて灰色に煙り、雨粒の染みて色濃くなった黒い学生服ばかりが目立つ。服を着た間抜けな透明人間が立っているようだ。
 学生の鼻の先、あごの先から滴る雨滴を店員の目はスローモーションで捉える。丸い雨粒はくるくると回転しながら落下してアスファルトにぶつかり、小さな王冠を形作ってはすぐに砕けた。
「どうしたの、風邪ひくよ」
「雨なんて涸れてしまえばいい」
 店員の人間らしい驚きの声と、学生の神のごとき無色の声が重なった。はじめて会ったとき以来、半年以上経っての互いの肉声だった。
 どうしたの、と店員はくり返した。いまこの場で平凡に学生の健康を案じるのは誤りで、問題にすべきはどうやら心のほうであるらしいと思い直したからだ。薄情にも、すこしばかり笑いたくなった。何事にも動じないと常に堂々顔に書いて歩いているような彼もやはり分相応にこどもであるのだと、乱れて弱ったその心を哀れみ深く、冷酷に、撫でてやりたくなった。
「雨が嫌いかい?」
「はい、とても」
 表情も口調も軽々しい店員の問いに、学生は同じく重さのない、そして感情もない声で答えた。うっすらとも好悪を浮かべぬ面で平然と嫌悪を吐く学生が、店員にはひどく好ましい。人の尽きぬ可能性を見るような気分になれる。ろくな可能性ではないと甚だ冴やかに思えるのが、またなんとも愉快だ。
「でも雨が降らなかったら農家の皆さんが泣くよ」
「農家」
「地獄みたいな凶作になっちゃうでしょ」
「……地獄」
 片言しか発せぬ幼子、または異人のように店員の言葉を鸚鵡返ししながら、学生は一度深く目を伏せた。低く言葉を噛み締め、ゆっくりと上げた瞳には、死灰が息を吹き返してふたたび光るごとく奇異な明るさがあった。
「農家の皆さんどころか、生きとし生けるものが泣きますね」
「ああ、うん、そうだね」
「そんなことは誰も望まない」
 光る灰色の目が、店員を見据える。
「だから、冗談です」
 学生の言葉は前後のつながりをひどく欠いて聞こえた。雨が涸れればいいなんてほんの冗談です。不自然なく成り立った会話の上での自然ないらえだと認識できる一方、明らかな裏を感じずにはいられなかった。その敵意にも似た裏を読むなど容易いと自負し、店員は慈愛すら持って目を細めかけたが、読もうとするまでもなく学生は口を閉ざさなかった。もとより微塵も隠す気がないようだった。
「結局、同じ轍を踏みました」
 今度こそ本当にかけらもつながりのないひとことが、雨音とともにアスファルトに落ちた。
「わかっていても止められない、さすが神の呪いだ」
 自らが呪いを吐くように、学生は言った。およそ生きた人間の喉が鳴らせるとは思えぬ感情の死に絶えた声だったが、反して、無表情と評される顔には焼けるような怒りと後悔があった。双眸のひかりは戦意の刃、誤てば憎悪に研ぎ上げられて殺意の切れ味のみに終始する抜き身。
 店員は刮目した。自分が“驚いた”ことに驚いた。目の前の、不当に人から化けたようなこれはいったいなんだ? 与えた三のうちの一の姿形をしてはいるが、いつの間にかまるで別のものだ。
「二度目なんです、俺は」
 店員の困惑に応えるようなタイミングで学生が呟いたが、意味がわからなかった。直後、図ったように学生の携帯電話が鳴り、学生服のポケットから素早く取り出したそれが雨に濡れるのも構わず逸った様子で彼は通話を始める。短く相槌を打つ中に、病院、という単語が幾度か躍った。
 防水仕様、と無意識につい思い、そんな自分に店員は呆れる。通話を続けたまま歩き出した学生の背に傘を貸そうかと声をかけると、彼は律儀に身体ごと振り返り、いいえと答えてバス停のほうへ向かって行った。降りしきる雨の向こうに見たその表情からも気配からも、先ほどの怒りはほんの燻りすら残さず消えていた。
 これが雨の日に彼と会う最後になるだろうと店員は思う。それはつまり、二度と会わぬと同義であった。今日を境に、この町に二度と雨は降らない。日も照らない。霧に満たされた不可視の安寧がやってくる。
 しかし万が一、あの三のうちの一の切っ先が、闇も霧も惑いも刺し貫いて真実に届くとしたら。
 

 なんと、焦がれるほどに待ち遠しい。
 なんと、焦がれるほどに待ち遠しい。

 

 愉悦と破滅を同時に望むおのれに、店員は思わず声を立てて笑ってしまった。よしんば希望が通ずるとも、案の如く通じずとも、たとえこの身が滅ぶとも、そこには絶望だけがないのだ。
 人の姿人の声で今日明日だけを眺め楽観的に生きる若者のように笑い続ける店員の声は、存分に学生に届いているはずだが、彼はまだ片耳を携帯で塞いでいる。その黒い背は遥か昔に見た男のものとまるで似ないが、誰であるにせよ見送るのは好ましくないと感傷的になるにつれ店員の笑いはやみ、学生も二度と振り返らぬまま去って行ったようだった。 

 

 

 2009.9.30
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