寂   う
   し ぼ が  た
    ん    き   

             !

 

  

 登校して教室に入ったらクマがいた。丸くてフサフサのほうではない、異国の風体キラキラシャラーンのほうだ。月森は教室の後方のドアから一歩室内に踏み入っていた右足をそっと廊下に引き戻すと、ガラガラびしゃんとドアを閉めた。右見て(廊下は衣替えしたばかりの冬服であふれていてやたら黒っぽい、ひとりジャージの長身の背は制服を着ない理由に関して諸説ある長瀬だ)、左見て(階段から次々に生徒たちが上がってくる、なじみの朝の校内風景)、ドアの上見て(そこには間違いなく『2−2』のクラス表示プレート)、ここはジュネスでも花村のうちでもテレビの中でもなく八高校舎内だと確認し、ふたたび目の前のドアをオープン。
 なのにやっぱりクマがいる。教室中の注目もなんのその、落ち着き払って月森の席に着席中の朝日にきらめく後ろ姿。ありえないものを見たときって、まずはいったん現状をリセットしてもう一度同じことを試してみたくなりませんか。それで二度目もそのアリエナイモノが見えてしまったら、残念だけれどそれは現実であるということなのでおとなしく受け入れられるんじゃないかしらっていう心の準備、もしくは悪あがき。しかしそれをしてやっぱりクマを確認してしまったこのぐったり感。教室内には花村も里中も天城もいない、つまりあのキンキラ生物の処理は現状自分ひとりで負うしかないというこの絶望感!
 月森は意を決するが早いか気配と足音を殺して背後からクマに近づき、白いシャツの襟首をつかみ、「あっセンセイ、おーはー」と言いかけるのを目で黙らせて素早く廊下へ連れ出した、この間約十秒。上出来だとは思うが、後ろからは「ジュネスの店員の」「花村と四六で」「また転校生?」「留学とか」「うっそマジで」と徐々に膨らみゆくざわめきが聞こえるし、廊下に出たら出たでまた注目が集まるので油断はできない。
 学校敷地内は基本的に関係者以外立ち入り禁止で、中でももっともトラブルの原因となる他校生の出没を教師たちは嫌い、警戒している。友人との待ち合わせか暇人の冷やかしか、放課後に校門付近をふらついているよその制服を時折見かけるが、教師や用務員に見つかれば即刻追い散らされる運命だ。それがこんな朝っぱらから紛れ込んでいるとなれば、確実に問題になる。
 クマの外見は上下どちらにサバを読んでも中高生が妥当なところだ、日本人の目に欧米人は大人びて映るの法則に則ればギリ小学生でいけるかもしれないがどっちにしろ結局学生、この時間よその学校にいるということは自分の学校は当然さぼり、どこの生徒だと問い詰められたら答えようがない。答えられることと言えば「ジュネスのアイドル熊田です」、話にならねえー! 巻き込まれたくねえー!
 とにかく一刻も早くクマを校外に放り出さなくてはと、月森は素早く廊下の左右に目を走らせる。圧倒的に人通りがすくない西階段を迷わず目指そうとしたが、実習棟からやってきたらしい柏木がこっちへ向かってくるのが見えて慌ててUターンする。柏木は比較的校則にはゆるい気がするが、クマみたいな美少年カッコあくまで外側だけの話カッコ閉じ、を彼女の前にさらすのは別の意味でまずいんじゃないだろうか。いや年下は眼中にないんだったか? 女子に対してはことあるごとに女としての敵意を剥き出しにするようだが男子相手の場合はどうなんだ、つーかなんで俺がこんな心配してなきゃならんのですか。
 西が駄目となると、あとは中央階段と正面昇降口をダッシュ通過という強行突破しか残されていない。どうか職員室から誰も出てきませんようにと心の中で手を合わせ、月森はクマの腕をつかんで中央階段に走ったが、祈りむなしく階下からのそのそと上がってくる細井の白髪頭が目に入った。細井も話がわかるほうだとは思うが果たして校則に関してはどうなのか、何しろ文学と手塚漫画についての議論しか交わしたことがない。
 月森が逡巡する間にも細井は踊り場を過ぎた。俯き加減なので、階段の下り口に突っ立っている月森とクマにはまだ気づいていないようだが、このままだとあと数秒で確実に見咎められる。
 仕方なく月森はクマを連れて階段を駆け上がる。そのまま人目を避けて辿り着いたのはもはや選択の余地なし、超一択で屋上!
 間もなく一限目の本鈴が鳴るとあってか、日々空を仰いでは天気を読んでいる未来の天才天気予報士の姿もなく、屋上は無人だ。とりあえず人目につく心配はないが、同時にこれ以上逃げ場もない。つーかなんで俺が逃げてんだ、と肉体ではなく精神的疲労で惰性のようにゼーハーしていると、教室で月森が「黙ってろ」の意でメンチを切って以来、非常に忠実に口をつぐんで引っぱられるままにポテポテとつき従っていたクマが、実に邪気なく月森の顔を覗き込んだ。
「センセイ、急に慌ててどしたクマ? 愛の逃避行?」
 青い瞳にこの上ない信頼を滲ませて、クマ真顔。
「センセイがさらってくれるなら、クマどこへでもついてく!」
「ぶっ、」
 とばすぞ、だか殺すぞ、だか言おうとしてしかしろくに言葉に出さないうちに、月森はつかんでいたクマの腕をぶんと投擲するように放り捨てる。されるがままに大きくよろけたクマは、そのままへなへなぺたりとわざとらしく床に横座りになり、よよよーと泣き崩れた。
「突き放すのが男の優しさ、泣き濡れるたび強くなるのが女の想い、深まるほどに愛が痛い、秋」
「なんでお前がここにいる」
 殴りてえーつか殴る! あとであっちで着ぐるみのときに! と心に決めて一撃必殺の右拳(現在のお気に入りはケルベロス、得意技はギガンフィストー我は汝、汝は我!)を震わせながら月森は低く問いかける。疑問を持ってから口にするまでにここまでタイムラグがあったのははじめてだ。いままで我慢できた自分に乾杯。
 クマ的恋のキャッチフレーズを無視されたクマは、若干膨れっ面をしながら横座りを正座に改めると、あのね、と月森を見上げた。
「ヨースケ、日頃の行いのせいでお腹ピーピーだから、今日遅刻するって」
「知ってる」
 今朝家を出る前に、一限はたぶん遅刻すると花村からメールを受けていた。日頃の行いとかピーピーとかは初耳だが。
「だからクマ、センセイに伝えにきたの」
 承知だという月森の返事を意にも介さず、クマはウフーと満足げに笑った。ちょうどそのとき、階下から伝わってくる喧騒を割って一限目の本鈴が高らかに鳴り響いた。きちんと時間を守って登校したのに無断遅刻決定というありえない災難に、月森は思わずその場にしゃがみ込む。それなりに優等生で通してきたのに、これで土とはいかないまでも砂粒ぐらいはついてしまっただろう。
 月森と目線の高さが同じになったのが嬉しいのか、クマが笑顔全開で正座をしたまま膝を詰めてくる。あのね熊田くん僕ら人間には電話やメールという文明の利器がね、と月森は一から十まで説明したくなったが、クマの笑顔を見ていると吸い取られるみたいにやる気がなくなった。無邪気さは武器だ。
「よく教室までこられたな。どこからまぎれ込んだ?」
「センセ、それはクマにシツレーよ。堂々と正門から入ったクマ」
「週番の先生と風紀委員がいたろ」
「うん。だからね、門の横っちょの塀を越えたの。ヨースケがペルソナ呼ぶときのあれをクマなりにかっちょよくアレンジして、ホイッ、クルルルしゅぴーん、スターン! クマ!」
「……それは堂々と、とは言わない」
 余計目立つわドアホ! と叫びたいのを噛み殺し、月森は比較的冷静に口にできるほうの突っ込みを採用した。日常会話の中で突っ込みの取捨選択をするなんて不毛すぎる。どうせやるならちゃんと漫才がしたい。ついでにツッコミじゃなくてボケがいい。
 晴れた空の青と太陽のひかりがクマの金髪に反射して月森の目を眩ませるせいか、なんだか頭まで痛くなってきた。眼精疲労! 口ではいろいろこぼしつつもこんな厄介なものの世話を甲斐甲斐しく焼いている花村を、月森ははじめて本気で尊敬した。あいつこそ寛容さマックスレベルのスーパーオカンに違いない。
「クマこー見えても超身軽よ。ボコってよし、ブフってよし、おまけにアクロバティックもイケるなんておのれの才能がおそろしいクマ。だからねセンセイ、クマは将来、アレになればいいと思うのね」
「アレってなんだ。忍者か」
「さっすがセンセイ! クマのことよっくわかってくれてるクマねー、だいすきクマー」
 当 た り な の か。月森は脱力のあまりその場に横倒しになりそうになった。某漫画の某先生なら「絶望した!」と叫んで逃げ出せばこの場を凌げる上に展開的にも許されるんだろうなあ羨ましい、そうだ一条に最新刊貸してもらわなきゃ、と真顔で現実逃避しかける。
 思いっきりうんこ座りで床に向かって溜め息するへこんだヤンキーみたいな月森とは対照的に、クマはキャッキャと実に楽しそうだ。
「ニンジャの中でも特にアレを狙ってるの。クマイチ」
「……」
「クマイチ! ……クマイチ? で正解?」
 不正解。ていうかお前はそもそもオスだからなれない。と、マッハで心の底から思いつつ、月森は黙してクマを見ないようにする。不用意にも自ら先回りして招いてしまったこの話題を、一刻も早くゴミ箱にぶち込んで蓋をしたい。ぶっちゃけクマそのものをゴミ箱に略。花村お前は本当にえらいソンケーする、そんぐらいの傷自分でディアラマかけろとかひどいこともう次から絶対言わない、だいそうじょう先生でディアラハンしてあげる、お腹ピーピーもアムリタしてあげる、だからいますぐ学校出てきて俺と代われ。
 一瞬だけ遠い目をしてから、すく、と月森は立ち上がった。花村頼みなんて当てにならないことをしている場合じゃない。
「クマ、センセイは授業に出ます。だから悪いけどまたあとで」
「ええーさびしクマー」
「学校終わったら遊んでやるから」
「んむー……わかったクマ。センセイの勉学のお邪魔ムシするのはクマの本意じゃないクマよ。それでセンセ、放課後のはおデートと思ってよいの?」
「おっけえー」
 月森の凄まじい棒読みも暖簾に腕押し豆腐に鎹、クマはキャーやったー、とバンザイして喜んだ。どこまで本気なのかわからなくてときどき真剣にこわい。あとで里中と天城にデート代行を拝み倒そうと月森は固く心に誓った。
「それじゃーお名残り惜しいけど、クマ帰るね」
「駐輪場のフェンスの端が破れてるから、そこから帰りなさい。もし人がいたら速やかに隠れて、いなくなるまで待つこと」
「はーいクマ!」
 クマのいい返事につられ、月森はすっかり万事収拾がついた気分で晴れやかに屋上をあとにしかけたが、出入り口のドアの前でハッと足を止めた。駐輪場も何も、まず校舎から脱出しないことには話にならない。慌てて振り返るとそこに金髪碧眼の美少年の姿はすでになく、代わりにフェンスの向こう側、屋上の縁ギリギリにデンジャラスに立つ青くて丸っこいシルエットが見えた。どっから出したその着ぐるみ!
「じゃーセンセ、さらばクマー」
 短い手を月森に向かって呑気に振り、ついでに丸い尻尾もぴるると振ると、でゅわっ! と掛け声一発、クマは微塵のためらいもなく宙に向かってダイブした。
「ぎゃーーーこらクマ!!??」
 でゅ わ じゃ ね え!! はじめてテレビに手を突っ込んだとき並みに驚いて、月森はフェンスにダッシュする。体当たり同然にしがみついて下を見下ろすと、校舎裏の大銀杏の根元に俯せに転がったクマの丸い身体が、腹を支点に惰性じみてゆらゆらと揺れていた。
 月森はヒイとろくに声にならない悲鳴を漏らし、しかし同時に何事もなかったようにむくりとクマが起き上がったのが見えて、びびらせてんじゃねええええと即座に怒声を炸裂させた。それが届いているのかどうなのか、クマは振り返ることなくてててと駆け出して行く。そっちは駐輪場じゃねえと思ったがもはやどうでもいい。走るクマの後ろを数羽の鳩がバサバサと追いかけているのだがそれもどうでもいい、不思議や疑問を感じるのにすら疲労を覚える。
 そうだ、クマは修学旅行についてきたときもビルの上から平然と降ってきやがったのだ。そして確か猫たちを従えていた。
 月森がずるずるとフェンス際にしゃがみ込んだところで、ズボンの尻ポケットで携帯が鳴った。
『お前いまどこよ? 鞄あるから学校きてんだよな?』
 どうやらすでに復活を遂げて登校してきたらしい花村からのメールだった。授業中の教室で教師の目を盗み、机の下でこそこそメールを打っている姿を憎々しく思い浮かべながら(はいはいただの八つ当たりですよー)、返信をする。
『頼むから二度と熊田を登校させるな。今日あいつきっと銀杏くさいから洗ってあげて。ピーピーがなおってよかったですね』
 携帯を閉じて床に放り出し、月森は力尽きた気分で横になる。寝心地最悪、しかしせめて一時間充電しないと頭も身体も真っ当に動かせる気がしない。内容のわかりきった花村からの返信を知らせる携帯は無視し(『クマが登校ってなに、ぎんなんてなに、つーかなんでピーピーのこと知ってんの!?』)、月森は大きく四肢を伸ばして目を閉じた。

 

(そしてクマイチの親になる夢を見ました)(合掌)

 

 

 2008.10.4
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