さらって
「せェー、んー、ぱい!」
聞く者の耳を甘やかにくすぐる舌ったるく加工した声が、目的の人物に届くのに先んじて幾人もの男子生徒を振り返らせる。
久慈川は自分のこの声が好きで嫌いだ。わがままを押し通すための武器になるから好き。「つくってる」と絶えず叩かれる陰口を否定する言葉を持たないから嫌い。利用価値があるという点でしか「好き」じゃなかったこの声を、あの日彼が、それも紛れもなく久慈川の「本当」のひとつであると言ってくれたから、好きだ。
後ろから駆け寄った久慈川が走る速度を殺さないまま背中にしがみつくと、彼は肩越しに振り向いて、いつも通りの希薄な表情をすこしばかり困ったようにゆるめた。内心を定かに表情に刷くということをあまりしない彼だが、努めてそうしているのではなく、そういう仕組みに生まれついたらしいところが久慈川には一等好ましい。つくらない、つくれないというのはすてきなことだ。つくってつくってつくり上げて百になるより、じっと静穏にゼロでいることに久慈川は憧れる。静けさをおそれず耐える勇気に焦がれている。
往来の多い昼休みの校舎一階廊下で隙間なく身体を寄せる久慈川と彼に、羨望、戸惑い、あるいは白けきった視線が突き刺さる。針のむしろに等しい注目を人並みに嫌ってか、単に通行の邪魔を案じたのか、彼は腹に回された久慈川の細い両腕をやんわりほどくと、脇に退くよう促してきた。久慈川は素直に従い、けれど窓際に寄って足を止めるなり、また彼の腕を取ってぎゅうとくっついた。露骨に過ぎるアピールを本音ではどう思われているのかわからない点だけが、彼のポーカーフェイスのデメリットだと思う。
「先輩、放課後ヒマ? 私どこか遊びにいきたいなー」
「みんなで沖奈にでも出るか?」
「やーだ! 先輩とふたりで遊ぶの!」
「二人でか」
彼はすこしだけ首を傾ける。灰色がかった不思議に淡い瞳が久慈川から逸れることはない。思案しているのか困っているのか、表情にも言葉にもしてくれないのでは久慈川には及びもつかない。
「そ、ふーたーりーで!」
彼の本意の在りかがわからない焦燥を振り払おうと、久慈川は殊更に甘えた声を出す。特別意識して張らずとも、業界屈指のボイストレーナーを擁して鍛えた声は実によく通り、廊下を行き来する生徒たちの視線を相変わらず独占している。
声に似合いのかわいらしくカラフルな、キラキラと元気な、ときには小悪魔的に匂い立つような恋の歌の数々は、リリースのたびに売り上げを伸ばした。別路線への進出を欲張った事務所の意向でロック調のハードな楽曲を提供されたときは、考え得る最大限の努力をして声音からも動作からも甘さを削ぎ落とし、歌詞通りの荒い感情をほとばしらせて声を張った。「久慈川りせ」が「ロック」であることに価値を見出せない、無理をしているのが見え見えと酷評も受けたが、話題性も手伝って大勢としては成功を収め、アーティストとアイドルは別物であると息巻くような層からも新たなファンを獲得した。
「そーだ先輩、カラオケいこ! 先輩のためだけに歌ってあげちゃうんだから! ね、決まり!」
抱きついた腕にさらに身体を密着させ、めいっぱい顔を近づけて久慈川が強引に約束を取りつけたときにも、彼は変わらず薄く曖昧な、そして優しいような顔をしていた。
授業が終わって早々に彼を連れて学校を飛び出し、隣駅のカラオケ店へ向かった。本当は曲数の豊富なマシンを備える沖奈の大型店へ行きたかったが、移動によって滞在時間を削られたのでは本末転倒なので近場で妥協した。
彼はあまり乗り気ではないようだったが、久慈川が勝手にオリコン上位常連の男性アーティストのラブバラードを入れると、ちゃんとマイクを取ってくれた。悪ふざけで入れた女の子向けアニメの主題歌も、まさかの台詞つきで完璧に歌いきった。菜々子と一緒に見てるから、と言い訳みたいに言ってすこし恥ずかしそうにしていた。
物心ついてから今日までのまだ短い人生で久慈川が知る限り、彼は五本の指に入る美声をしている(と確信を持って思うのだ、多分に贔屓目の美化が働いているのかもしれないが)。だから歌唱力にもさぞ目を見張るものがあるはずとごく当たり前に期待をしていたのに、あっさり裏切られ、かと言って下手でもない典型的な「一般の男の子の歌声」だった。はじめて知った彼の隙にも似た平凡さは、聞き惚れるような歌声を披露されるよりよほど久慈川の頬と胸を熱くした。
久慈川が化粧室に立って戻ってきたとき、彼は何もリクエストを入れないまま分厚い曲目リストに目を落としていた。その口元が小さく動いているのを見て久慈川は変にドキリとし、ドアを背に突っ立ったまま耳をそばだてる。廊下からは向かいの部屋の利用客のへたくそな歌声が漏れ入ってくるし、室内のモニターには今週のシングル売り上げベストテンが流れているしで、聞きたくもない音ばかり馬鹿みたいに大きい。
いらない音のあふれる中で、唯一欲しい彼の歌声だけを聞き取ろうと必死になって、久慈川はそっと足を踏み出す。近づいたら彼は歌うのをやめてしまうような気が漠然として、邪魔をしたくないと思う反面、ひどく聴きたい。一歩、もう一歩、久慈川は彼の座るソファに近づく。
彼は、とてもゆるやかな、やさしいメロディーを口ずさんでいた。知らないうた、と久慈川は思ったが、記憶のどこか奥底のほうでかつて知っていたような気もした。子守歌とか童謡とか、いまの久慈川にはもうずっと遠くなってしまった歌なんだろうと思った。
(なんてきれい)
久慈川が隣に座ると、彼は顔を上げた。同時に歌も途切れたが驚いた様子はなかったので、久慈川が戻ったと承知の上で構わず歌い続けてくれていたのだと思うと嬉しくなった。
「先輩、いまの歌、私にも教えて」
久慈川が言うと、普段わかりにくい顔ばかりするくせに、彼ははっきりと困ったふうに微笑した。ああ、どうしよう、きれい、久慈川は身体の奥がきゅうと熱く締めつけられる気がする。きれい、きれい、
(ずるい)
その歌はきっと彼にとって守りたい思い出で、人には決して許すことのない領域で、久慈川に聞かせてはくれても語ってはくれない絶対の宝物なのだ。なんて容赦のない線引きをするのよと思えば悲しくて情けなくてすこし泣きそうで、また、どうしようもなく心がさらわれる。
2008.10.4
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