はじめて、
はじめて
ないわああああ、この状況!!
幸か不幸か、そう絶叫するだけの気力が花村にはなかった。力の入らない腕を月森の首に回し冷えた指先で爪を立てるようにすがりついたのは、そうしなければ落ちるという本能的な危機感がなさしめた失態であって、誓って望んだわけじゃない。
月森につかまっていなければ「落ちる」という平和な学校ライフにはありえない、しかし読んで字のごとくの痛々しい状況、花村は月森に抱き上げられていた。しかもあれだ、もろに、いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。千歩譲ってテレビの中でならありえたかもしれない(花村が自力歩行不可能なほどの大ダメ−ジをもらうという笑えない大前提つきで)、しかし清々しいほどにここは校内で、あろうことか全校集会中の昼休みの体育館だった。ありえなすぎて泣きそうです。
せめて肩にでも担ぎ上げてくれたならまだマシだったのにと、花村は朦朧とする意識の端で不服を唱える。米袋でもキャベツがみっちりのダンボール箱でも回収した買い物カゴの山でも構わない、そういう類いの扱いでぜんぜんオッケーだったのに。
月森の首に回した腕を解くことも自分で歩けると強がることもできないまま、花村は投げやりに目を閉じた。だから、突如貧血で倒れかけた花村を抱きとめ、抱き上げ、すかさず体育館の出入り口に向かった月森の一連の行動が、目立つヒマもないほど尋常じゃなく素早かったという幸運には気づかずにいた。
保健室に連れていきます、と教師に告げたらしい月森の声が聞こえたあと、マイクを通してキンキンと響く諸岡の説教と、皆そこそこおとなしく聞いているのになぜだかどことなくざわついて感じられる空気が遠ざかり、体育館の外に出たのだとわかった。と、ほぼ同時に、もっとも警戒していた「落ちる」に匹敵する乱暴さでいきなり床に下ろされた。思いきり腰と尻を打ち、痛みに悲鳴を上げて花村が目をあけると、めずらしくすこし困ったような表情をした月森が傍らにしゃがみ込んでいた。
「ごめん、無理だった」
申し訳なさそうに言いながら月森は自分の腕をさすり、それから仕事上がりのパートのおばちゃんみたいな動作で交互に両肩を叩いた。そりゃそーだよなあと花村はぼんやり思う。花村と月森は身長も体重も大して変わらない、自分と同体格の相手をお姫様抱っこなんて普通に考えれば無理がある。テレビの中ではどでかいカブト虫を引っくり返せても、現実の自分たちは標準的筋力しか持たない一介の高校生なのだから。
それがわからない月森じゃないだろうし、ましてや自分の力を過信するタイプとも思えないのに、なぜにお姫様抱っこなんて暴挙に出てくれちゃったのか(公衆の面前で野郎同士でお姫様抱っこは暴挙以外の何ものでもないですよね!?)
ひんやりと背中に当たる壁の感触に人心地つきながら、花村は深呼吸をする。体温とともに色まで失われ白か黒かも判別つかず砂嵐にまみれるようだった視界の悪さと胸のむかつきは、すこしずつだがおさまってきていた。
余裕が出てくると、いま自分が凭れているのが廊下の壁ではなく、体育館の大きな鉄扉だとわかった。どうりで冷たいはずだ。体育館を脱出したまさに直後、月森の腕力は限界を迎えたらしい。
半分ひらいたままになっている扉の向こうでは、緊急全校集会の当初の主旨からすでにだいぶ逸脱した諸岡の説教が終わる気配なく続いている。いやでも耳に入ってくるその声を押しのけるように、体育館の中で落っことされなかったことを月森さんに感謝すべきですとキラキラした瞳で訴えるエンジェルヨースケと、助け方がまず間違ってんだよ超恥かいたっつの感謝するわけねーだろボケ、と犬歯を剥き出して悪態をつくデビルヨースケが、花村の脳内で火花を散らしている。月森の行動が花村を案じたゆえのものだったとわかってはいる、しかし素直にありがとうとは言えないわけだ、男としては。抱っこされちゃった身としてはね!?
「保健室行こう。歩けるか?」
月森が花村の腕を取りながら顔を覗き込んでくる。花村が何も答えずに目を細くしてじいと見返すと、歩けないと即座に判断したらしく、月森はしゃがんだままくると背中を向けた。
「はい、おんぶ」
イエス、無難な運搬方法。どうしてさっきその選択肢を提示してくれなかったのか、花村にだって選ぶ権利ぐらいあっていいはずだった。
「いいって、自分で歩くから」
拒否した途端、変に不機嫌な声が出たことに花村は自分で驚いた。男なのに全校集会で貧血とか、男なのに同じ男に抱き上げられて助けられてしまったとか、男子としてのプライドというか体裁が傷ついた悔しさ恥ずかしさはもちろんあるけれど、いちばん譲れないのはそういう当たり前の感情ではなくて、相手が月森だったということが、
「まだ無理だ」
しゃがんだまま肩越しに花村を振り仰いだ月森が、冷静すぎる声で断定するのを聞いた瞬間、花村はにわかにカッとした。
「や、おんぶとかマジいらねーから。俺の身体のことは俺がいちばんわかるし」
「わかってない」
「なんでお前にんなこと言われなきゃなんないの。歩けるっつーの」
「嘘だ」
「嘘じゃねーよ」
決して声を荒げない月森に対抗し、花村も意地でも大声を出すまいと必死で冷静さをつなぎとめた。体育館の扉に背を預けたまま後ろ手に体重を支え、ゆっくりと立ち上がる。明らかに膝に力が入らなくて、なんて頼りない足だと歯痒さに唇を噛んだが、扉から手と背を離してもまっすぐに立つことができて安堵した。
「ほらな、平気だろ。保健室も行く必要ないから」
「だめだ」
「教室で休んでりゃなおるって」
壁伝いに歩き出した花村を、月森は一瞬ものすごい目で睨んだが、すぐについてきて隣に並んだ。廊下の先の教室棟へつながる扉を射るように見据える月森の横顔を盗み見て、うあ怒ってる、と花村はようやく気がついた。
そうか、怒っているからいつにも増して単語のすくないもはや片言みたいなしゃべり方をしているのか。月森は、プラス方向マイナス方向関係なく、感情が高ぶると顔よりも言葉に出るのだと最近やっとわかってきた。異様に饒舌になるか、口を縫い付けられたかのように無言になる。ある意味とてもストレートな感情表現と言えるかもしれない。
そして月森はいま、花村に腹を立てているが、同時に罪悪感も抱えているから、縫われた唇の隙間からどうにか言葉を押し出して、花村のわがままを許しているのだろう。
無理をするなと、きっと月森は言いたいはずなのだ。けれどその無理の根本、花村の貧血のそもそもの原因が自分にあると思うから、口にできずに奥歯を噛んでいる。
月森の考えていることがこんなに明確に読めたのははじめてだった。すこしも、嬉しくなんてなかった。
花村の貧血の原因はおそらく、昨日テレビの中でソニックパンチを連発しすぎたせいだ。目に見える傷は魔法で癒せても、自ら削った体力と失われた血液はひと晩でフル充電とはいかなかった。
花村は極力魔法を使うなという指示を出したのは月森だが、疾風魔法に耐性のあるシャドウとの遭遇ばかりが重なった昨日の探索において、その判断は正しいと評価されてしかるべきだ。だが月森は悔いている。仲間の翌日の体調にまで気の回らなかった自分を責めている。
責任感とは厄介なものだと花村は思った。それに凝り固まった人間はとても厄介だ。
いつの間にかさりげなく、しかし拒絶を許さない力強さで花村の片腕を支えていた月森の手を結局は借りて、花村はのろのろと廊下を進む。小さなこどもみたいに一段一段を確かめながら階段をあがり、教室に辿り着くなり、崩れるように教壇の端に座り込んだ。長々と吐いた溜め息は、花村と月森以外誰もいない教室内に思いのほか大きく響いた。
「昼休み終わってもなおってなかったら保健室だからな」
花村の隣に同じように膝を抱えて座りながら月森が言った。単語数が増えた、というかちゃんと文法が成り立つまでに復活したしゃべり方に花村はほっとする。そういえばこいつ保健委員だったっけと思い出しつつ頷くと、月森はすこしだけ安心したように引き結んでいた唇をゆるめたが、表情は固いままだった。
「あのさ、別にお前のせいじゃないから。授業中はぜんぜんへーきだったわけだし。さっき体育館わりと蒸してたし立ちっぱだったからちょっとくらくらしたっつーか、まあなんのせいかっつったら、裏門に面倒な落とし物してくれちゃった誰かさんのせいーみたいな」
月森に逃げ道をつくってやりたくて、花村は明るい声を出す。突如昼休みを半分潰して緊急全校集会がひらかれたのは、今日の午前中に裏門付近でタバコの箱が見つかったからだった。吸い殻は発見されなかったようだが、中身の減った開封済みの箱だけでも十分けしからんというわけだ。もっともですよねーとは思うものの、ぶっちゃけ裏門なんてちょっと腕を伸ばすだけでそこはもう学校敷地外なのだから、本当に八高生の落とし物なのかどうか怪しいものだ。むしろ教師の誰かがうっかりという可能性のほうが高くはないか。ミスターモロキン、あなたのそのすばらしい情熱と粘着力をすこしでも生徒を信じる方向に向けてくれたなら俺たちは青春ドラマ顔負けの暑苦し、いやいやいや、充実した学校ライフを送れていたのではと残念でなりません。
「昨日家に帰ってから心配になって、でも大丈夫そうだったから安心してたんだ」
若干つながりに欠けた月森の発言は、花村の気遣いが無駄に終わったことを告げていた。月森は花村の用意した逃げ道には目もくれず責任街道を驀進している。
「今朝、花村すごく元気だったし」
「そうだっけ?」
責任転嫁(をさせるの)をいったんあきらめ、花村は抱えた膝に頬をつけて月森に顔を向ける。
「りせちーに会えるかもって騒いでただろ」
「あーはいはい」
そうだった。今日の放課後は、稲羽の生んだ星、人気アイドルのりせちーを拝みに、じゃない、久慈川りせが次の被害者になるのを阻止すべく彼女の身辺を探りにいくのだ。とは言っても滅多なことではお目にかかれない生アイドル、会えるものなら会ってみたいのが男心ってもんだろう!
「お前ほんっとにりせちー興味ないの?」
「ないっていうか、よく知らない」
月森は朝教室で口にしたのと同じ台詞をくり返した。男として間違ってる、と花村もまた朝と同じことを思う。
「あれかもな、俺今日朝からいい感じにテンションあがってたのにいきなりつまんねー集会で昼休み潰されて超オチたからさ、そのせいで血も下がっちったのかもな! でもマジでりせちーに会えんならこんなん帳消しにしてお釣りくっから。なんたって今日なんだし、神様からのプレゼントでーとかありえると思うわけよ」
無茶を承知の取ってつけた理由で花村がふたたび責任の在りかを捩じ曲げようとすると、月森は意外なところに食いついてきた。
「今日って何かある日なのか」
「あ、俺の誕生日」
なんの気なしに、実際ただなんの重みもひねりもない事実を告げるだけなので実に簡単に簡潔に花村が答えると、
「えっ!!」
月森はめずらしく大きな声を上げ、目を丸くしてそのまま固まってしまった。予想外の反応に花村は膝にのせていた顔を上げ、思わず眉をひそめる。
すると月森は花村を凝視していた視線をふらふらと数秒のあいだ宙に逃がし、それから、お、おめでとう、と歯切れ悪く言った。
「あ、おう、サンキュー?」
つい語尾が上がってしまったのは、月森の態度が不審でならないからだ。なぜ動揺する。およそ普段の月森らしくない。
「悪い、何も用意してなくて」
「いいって。知らなかったんだから当たり前だろ。つか何、なんなのよそのリアクションは?」
訊かずにはいられなくて花村が真顔で突っ込むと、月森は膝を抱えた手でズボンの生地をつかみ、すこしばつが悪そうにぼそぼそと言った。
「友達の誕生日って、はじめて知った」
「は?」
「おめでとうって言ったのも、はじめて」
月森は一瞬横目で花村の表情を窺ったが、すぐに目を逸らして照れたように膝にあごをつけて背を丸めた。ザ・ポーカーフェイスの月森が照れているらしいことと衝撃の告白のどちらにまず驚くべきなのか決め兼ねて、花村は感心にも近い心持ちで月森の横顔を見つめた。貧血の不快な余韻は、いまの衝撃発言が完全に粉々にしてくれた。
「マジか」
「マジだ」
「小学校のときとか友達の誕生日パーティーみたいのなかったのかよ」
「女の子のによく呼ばれたけど、ああいうのって大抵日曜にやるだろ。招待がかぶることが多くて、片方だけにいくのもはしごするのも失礼な気がして全部断ってた。パーティー当日が誕生日じゃないだろうから、本当の誕生日も知らない」
「小学校からすでにモテモテですか!」
ちょっと本気で羨みながら、月森が肉親以外の誕生日をはじめて祝ったのが今日このときで、その相手がほかならぬ自分であることが、花村はとても、とてもとても、嬉しくなった。いったい誰に向かってなのか考えつかないまま(世界中の人々に、とか気持ちの悪いことを一瞬本気で思った気がした)大声で自慢して回りたくなるほど、嬉しくてたまらなかった。
しかし若干遅れて、月森の『はじめて友達の誕生日を祝った記念日』イコール、自分の『はじめての被お姫様抱っこ記念日』だと思い至って花村は頭を抱える。そっちは嬉しくない、マジ嬉しくない!
すると、苦悩する花村の隣で月森が、相棒の喜びも羞恥も一撃で粉砕する妙案を口にした。
「そうだ。放課後、豆腐買ってプレゼントしてやるな」
「いらねーよ!」
花村はマッハで顔を上げた。いつの間にかすっかり普段通りの涼しい無表情に戻ってしまった月森が、真顔で首を傾げる。
「でもせっかく豆腐屋に行くんだし」
「いらねーからマジで! 心の底から遠慮します! ねえアリかナシかちゃんと考えて言ってるそれ!? つかお前なんでそんななのにモテちゃうの!?」
花村が豆腐を苦手としていることを月森が知っているはずはなく、だから純然たる好意からの提案なのだろうが、それにしたってない。男子高校生が友達に贈る誕生日プレゼントが豆腐、それはない。
「豆腐は健康に」
「ないわああああ!!」
なおも豆腐推奨の姿勢を崩さない月森の言葉を遮って、花村がさっき体育館ではしそびれた絶叫をしたとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。
じきに集会から解放されて戻ってきたクラスメートたちに花村は密かに身構えたが、特に誰が何を言ってくるでもなく、お姫様抱っこの目撃者が奇跡的にごく少数であるらしいことを知って心底安堵した(でも里中さんと天城さんが変な目でこっち見てるんですけど月森センセイ!)。
五限目がはじまる寸前、急に振り返って無言のまままた前に向き直った月森に、花村はわりと本気で戦慄した。その無表情な顔いっぱいに、「豆腐に決定」と書いてあったのは気のせいだと信じたい。ああだけど猛烈にいやな予感がする、たとえりせちーに会えたとしても、お姫様抱っこに始まって豆腐に終わるんじゃかわいそすぎるだろ、俺の十七の誕生日!
2009.6.22
/ 花村誕生日おめでとう! だい、すき
、だ!!
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