The hero on a peaceful day is free !!

 

 

 

 秋の空は晴れ渡って高かった。爽快な日差し、心地好い涼風、相棒お手製の肉じゃが弁当。昼休みと書いてらくえんと読むのが正解だ。
 花村と月森はいつも通り、ベンチ代わりのコンクリの段差に並んで座って弁当を食った。月森の肉じゃがは本日も絶品だ。玉ねぎがやらかくてうまい、と先週花村が言ったからか、今日は玉ねぎの量が当社比二倍のような気がする。俺愛されてんなーと花村が冗談めかして笑うと、そんなことはない、と月森は厳かに否定した。
「今日のおかずのメインが肉じゃがなのは花村のためじゃなくて、昨日の夕メシの残りを詰めてきたから。あと玉ねぎを増やしたのはこのあいだ遼太郎さんが」
「いい、それ以上解説してくんなくていい」
「誤解はその場で解いておかないとだめだ」
「お前ってほんっと律儀な!」
「よく言われる」
「でしょうねー!」
 花村のささやかな傷心以外、昼下がりの屋上はとても平和だ。しかし平和というものは、いつだって簡単に崩れ去る。
 弁当を食べ終わっていくらも経たないうちに、月森の頭が派手にぐらんぐらん揺れ始めた。と思った端から突然すこんと勢いよくのけ反ったので、花村は咄嗟に右手を背後について上半身を反転させ、脊髄反射の速さで左手を伸ばす。あれこれ配慮する余裕があるはずもなく、伸ばした左手は思いきり月森の胸倉をつかみ上げる形になった。
 月森の優秀な頭がコンクリの床の上でいい音を立てるのを聞かずに済んで花村はほっとしたが、次の瞬間、捩じ切らんばかりの極悪な力で手首をつかまれて血の気が引いた。胸倉をつかむ花村の手首をみしみしと握り締めた月森が、非常に眠たそうな据わった半眼で花村を見据えている。
 目は口ほどに物を言う、全開で言う。月森のあの落ち着き払った無感情な低音が、てめえ何さらしとんのじゃとイメージぶち壊しのチンピラ口調で吐き出すのがいまにも聞こえるようだ。ああああやばい、寝ぼけていらっしゃる!
「いっ、待っ、助けてやったんだってえいででででだだ!」
 悲鳴混じりに花村が訴えると、月森は我に返ったように目を見ひらき、花村の手首を解放した。花村も本当はいますぐ月森の胸倉から手を離したかった、咄嗟に仕方なかったとはいえこの体勢は非常によろしくない、喧嘩売ってるとしか見えないわけですよ天下の月森センセイに!(実際センセイもそう誤解してくださったようですし!)
 しかし花村が手を離したが最後、月森は段差から転がり落ちて後頭部から床にがつんといって、それこそおそろしい事態になること請け合いだ。その気がないのか半覚醒だからなのか、月森は自分で自分の体重をまったく支えておらず、現在花村の左腕にかかっている重さときたら半端ない。離すわけにいかないがこれ以上支えられない無理無理むり、と花村が腕をぶるぶるさせながら混乱および恐怖のバステにかかりかけたとき、ようやく月森が自力で身体を起こしてくれた。
「ありがとう、ごめん」
 眠たそうにまばたきをしながら、月森は小動物を慈しむみたいにやわらかな手つきで花村の手首を撫でた。甘ったるくもうそ寒い感覚がぞわりと背筋から首筋へ抜け、や、いいっていいって、と花村は声を上擦らせる。引きつった笑みを浮かべつつさりげなく手を引っ込めると、うっすらと赤味を帯びた手首を追って月森の視線が移動するのがわかった。痛みよりも強い熱にまだ手首を捕らわれている、そんな錯覚に、一瞬頭の芯が眩んだ。
 花村は左手を身体の脇に隠して月森の視線から逃がし、同時によからぬ穴蔵へと鼻面を突っ込みかけていた自分の思考も、もとの真昼の太陽の下に引っぱり戻す。あからさまに不自然な花村のつくり笑いに、月森は特に気を払う様子もなく、しょぼしょぼと目を伏せた。
 眠いなら寝ればいいのにと花村は思うけれど、月森は断固として睡魔との握手を拒否り、学校は寝る場所ではないという小学校発の超初歩的モラルを守り通す方針であるようだ。これが授業中というのならわかる、というか学生としてあるべき姿なのだが(しかしわかっていても守れない、もう高校生だけどますますぜんぜん守れない、すくなくとも花村は)いまは昼休みの真っ直中だ。午後の授業が始まるまでにもまだ余裕があるし、昼寝をして悪い理由なんて一ミクロンだってないのに。
 そういえば月森は電車やバスでも居眠りをしない。友人同士で沖奈へ出たりすると、みんな時間と財布と体力の限界まで遊びまくってしまうので、帰りの電車ではまず長瀬が寝て、次いで一条のまぶたが下りて、花村もいつの間にか意識をとばしているのが常だが、月森だけはずっと眠らずにいるようだ。八十稲羽駅に着く直前に、もはやルールみたいに月森に肩を揺すられる(たまにでことか叩かれる)。乗り過ごさないよう自分は起きていなくてはという否応なしの責任感なのかもしれないが、ふと、別の想像が花村の脳裏を掠めた。
 隙を見せない、ということなのだろうか。常に気を張っているから、本来眠っていいと定められている時間と場所、つまり夜中に自分の布団でしか眠らないということなのだろうか。月森が捜査隊のリーダーだから、それに倣うように学校内でも目立つ存在になっているから気を抜けずにいるのだとしたらと考えて、花村は急に心臓を鷲掴みにされたような緊張に襲われた。月森をリーダーにしたのは自分だ。
 けれど、自分のせいだなんておこがましいとも同時に思う。花村の言動などなくとも月森はごく自然にいまのポジションを確立していただろう、テレビの中でも、こちら側でも。望むと望まざるとに関わらず、彼はそういう器に生まれついた人間だ。
 それこそテレビの中のヒーローみたいだ、と眩しい反面ひどく苦々しく思ってしまって、花村は顔をしかめて頬を紅潮させた。陳腐で卑屈な自分の発想が恥ずかしかった。対等でありたいと願ってやまないのに、相棒呼ばわりはもはや口癖のごとく図々しくできるのに、結局はただあとをついて回って、振り向いてくれるのを待っている。憧れて、期待するばかりで、相応しくなれるはずがない。
 自分の情けなさに花村は頭を抱えたくなったが、隣で月森がまた危なっかしくぐらぐらし始めたの気づき、慌てて手を伸ばす。が、さっきの暴力沙汰を教訓に、今度は申し訳程度に背中を支えるにとどめた。
 我慢なんてするな、と花村は唇を噛む。寝ちゃってくれよいま俺の隣で、と月森本人に懇願したくさえなった。自分の女々しさに変な笑いが込み上げる。思わず泣き笑いみたいに顔を歪めた瞬間、眠気をこらえるあまりえらく物騒な人相になった月森が、急にまっすぐに花村を見た。
「花村、まずい」
「ななななにが!?」
 あからさまな動揺を露呈してしまい、花村は心底自分が嫌になる。だが月森は花村の挙動不審っぷりには反応せず、昨日の夜つるとふうとうに二股をかけた呪いが、とこっちのほうがよほど不審な謎の言葉を残して、落ちた。
 背中を支えていた花村の手は意味をなさず、むしろその腕に沿って月森の身体は簡単に横に傾いで薄墨色のやわらかい髪が花村の頬に触れたと思ったら、がっつんと肩に衝撃がきた。いってえ! と反射的に声を上げるほど花村にとっては普通に痛かったが、月森の口からこぼれるのは痛みを訴える悲鳴ではなく明らかな寝息。
 花村は思わず固まった。確認するまでもなく、月森の頭が自分の右肩にのっているのがわかる。わかるが、やっぱり確かめずにはいられなくて、花村はゼンマイの切れかけたおもちゃのロボットみたいな動きでぎしぎしと首を傾け、月森の顔を覗き込む。
 なんの気負いも警戒もない安らかな表情で、月森は目を閉じていた。ふうふうと、まるでこどもか小動物のような軽い寝息が聞こえる。
 急激に体温が上昇するのを花村は感じた。この状況をやばいほど喜んでいる自分が、本当にやばいと思った。にやける顔を、わざとらしく空に向ける。ちらほらと屋上に散らばる生徒たちは皆思い思いに昼休みを満喫していて、花村がいかに締まりのない顔をしていようが気にもとめないだろうが、それでもやっぱり気恥ずかしい。それぐらい無駄にいい笑顔をしてしまっている自信があった。
 家以外での睡眠を頑強に拒んでいた月森がすっかり気を抜いた様子で眠っている、しかも花村に身体を預けて。真顔でいろというほうが無理だ。
 しかしわずか五分後、喜んでばかりもいられないと花村は悟った。早くも地味に肩がしびれ始めている。学ランの襟の隙間から入り込んだ月森の髪が首に触れてくすぐったい。起きている姿からは想像できない妙に幼さを感じさせる寝息がやたら耳につくし、それを聞き続けるうちに目をあけているときは無駄で無敵で無闇なポーカーフェイスもあの眼光さえなければ案外かわいいんじゃないのかなんて自分史上最大級にがっかりな日本語の誤使用をしてしまうし(誤:月森≒かわいい、正:月森≠かわいい)、とにかく落ち着かない。
 起こしたくはないがどうにもじっとしていられなくて、花村は慎重に月森の様子を窺いながらわずかに身動いだ。すると肩にのっていた月森の頭は、花村の胸から腹へと呆気なくずり落ちて、最後はころんと腿の上に落ち着いた。びびったのと突然腹を撫でられたようなむず痒さに、花村はついうひいと変な声を上げてしまう。
 月森が図太く起きなかったのには安堵したが、同時に、これはこれでまずいことになったと思った。月森の寝顔を真上から見下ろす状態になってしまったのはまずい。身動き取れなかったさっきまでと違い、すくなくとも上半身は自由がきくようになってしまっているのもまずい。
 だってほら、入ってしまうだろ、スイッチが。よからぬことをしたくなるスイッチが、健全な男子高校生としてとても正しくオンになってしまうだろ。
 日溜まりの猫みたいに至って平和に眠る月森の寝顔からできる限り距離を取ろうと、花村は精一杯背筋を伸ばすという半端な努力を試みる。そのくせ、目だけは素直に膝の上に向いてしまう。
 花村が身体をまっすぐにしているので、月森の顔には燦々と日差しが注いでいる。まぶたすべすべっぽい、と花村は思って、いやいやだめだと思考から締め出す。スイッチが入りかねない。唇ちょっとあいてる、と思って、だからだめだってええ! とまた投げ捨てる。あああどうしてくれようこの健全すぎる思考回路!
 そのとき、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。天使の吹き鳴らすラッパにも悪魔の奏でる笛の音にも聞こえた、午後の授業が始まるまであと五分。あれ、天使がラッパを吹くのは世界が終わるときだっけ?
 どっちにしろ救いにならないじゃないかと思いながら、花村は素早く屋上を見渡した。自分たちのいる位置からは死角になる部分もあるが、見える範囲にはもう誰もいないことを確認する。救われる気など毛頭ない行動だと我ながら無性に苦笑いしたくなった。
 すこし背を屈めて真上から月森の寝顔を覗き込む。自分の影が月森の顔を覆って、その目元に落ちていたまつげの翳りを飲み込んでしまったのを残念に思った。
 そうっと月森の髪を撫でて、前髪越しに額に唇を押しつけ、すぐに離れる。月森のまぶたが微動だにしないのを若干寂しく、一方では都合よく思いながらもう一度顔を近づけようとした途端、急に目の前が暗くなった。何が起こったのかわからずにいるうちに正体不明の物体にビタンと勢いよく顔面を襲われて、花村はぎゃあともひいともつかない間抜けな悲鳴を上げる。
「はなむらくんのえっちー」
 すさまじく棒読みの月森の声が聞こえて、花村は瞬時に首まで真っ赤になった。目潰し寸前の容赦のなさで花村の顔をつかんで押し戻したのが月森のてのひらだとわかり、羞恥というかもはや恐怖に駆られて慌てて振り払う。涙目で見下ろした月森の顔は、これ以上ないというほどにぱっちりと目をあけていた。
「もー男子ってどうしてそうなの!?」
「なっ、おまっ、起きっ、」
「学校ではキスは禁止だ」
 打って変わって感情込めて、しかし地声のまま気色悪く女子口調で叫んだかと思えば、月森は即座に普段通りの真っ平らなしゃべり方に戻る。わずかに目を眇めて呆れたように花村を見上げると、腹筋の要領で軽やかに身体を起こした。
 突如急接近する月森の顔に、さっきまでオンだったよからぬスイッチはオフどころかあっという間に回路がイカレてガラクタ同然、間違いなく頭突きがくると覚悟して花村はぎゅうと目をつぶり、恐怖に固まった。
 そうしたら、唇のごく端を、濡れたやわらかい感触が舐めるように触れていった。花村が硬直したままおそるおそる目をあけると、月森はすでに涼しい顔で弁当箱を片手に立ち上がっていた。ぽかんとする花村を見下ろす目だけが、うっすらと笑っている。
「お、ま、自分でだめっつっといて……!」
 驚いたのと悔しいのと、何より嬉しくて心臓がバクバクしまくっている情けなさがない混ぜになって、まるでサウナに閉じ込められたみたいに花村は全身が火照るのを感じた。赤くなる一方の顔をすこしでも隠したくて手の甲で口元を覆い、月森を睨み上げる。
 月森はそんな花村の視線などまるで意に介さぬ様子で、実にしゃあしゃあと言ってのけた。
「俺からするのはいいんだ」
「どんな線引きだよ!」
「花村はエロいからだめ。俺はまあ、普通だから」
「ぜんっぜん、百パー、意味わかんねえよ!」
 なんてひどい月森論だ。だが花村の知識と伝達力ではそれを突き崩すことなんて到底できない。いったいなんの意味があって寝たふりなんて。けれど本当にふりだったのだろうかという疑問も湧く、あの寝顔と寝息が演技だったなんてにわかには信じがたい。月森は演劇部に所属してはいるが、その分野に関しての才能はお世辞にも非凡とは言えないようなのだ。
 花村は立ち上がり、いまにも屋上の出入り口に向かって歩き出しそうな月森の腕をつかんだ。月森がすこし目を見ひらいて、不可思議そうな顔をする。
「しろよ。もっかい、ちゃんと」
「え」
 表情はろくに動いていないのに、本気で驚いているらしいのが憎らしい。愛おしい。
「お前からするのはいいんだろ」
「しない。俺エロくないもん」
「もん、じゃねえよ」
「ははははは」
 月森が花村に向き直り、あいているほうの手で、同じように花村の腕をつかんだ。わざとらしい乾いた笑い声と吐息が、近くなる。

 

 

 2009.7.25
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