英雄を望む、望まない

 

 

 

 月森というやつは、いつだって唐突なのである。
 TPOとか選ばないのである。むしろたぶん彼の辞書にはそんな高度に空気を読んだ単語載っちゃいないのである。
「花村、俺をヒーローだと思うのやめてくれ」
 要するに月森は今日も唐突だった。夕日の照り始めた放課後で、学校の正門を出た直後で、とてもめずらしく体調不良の月森を花村が送って帰ろうとしていた矢先だった。
「バッ、カ軍団のボスだなさすが!」
 バレてんのね! と花村は反射的に白状しかけ、しかしかろうじて踏みとどまってごまかした。うっかり自分も馬鹿の一員であると認めてしまったのはこの際問題ではない。
 花村が振り返ってつい足を止めると、斜め後ろを歩いていた月森も花村の肩にぶつかって立ち止まった。どうやら風邪をひいて熱があるらしく、足取りはしっかりして見えるが頭のほうがだいぶおぼつかなくなっているようだ。
「んなこと思ってねえよ。リーダーとは思ってるけど」
「えっ、ああ、そう」
 月森はひどく驚いたように目を丸くしたあと、決まり悪そうに視線を逸らした。鉄板のポーカーフェイスが発熱のせいかチョコレートみたいに溶けて、ほんのり血色のよくなったその頬に自意識過剰で恥ずかしいとあからさまに書いてあるので、花村のほうがよっぽど気まずい気持ちになった。
 月森は生来嫌というほど頭も勘も鋭いくせに、花村の稚拙な嘘や苦しい言い逃れに簡単に丸め込まれることが間々あるのだ。花村が全力で隠し通そうと努めれば途端に一秒で看破するくせに、なんというバランスの悪さ。
 ばつが悪そうにもじもじする月森があまりにもレアで思わずつぶさに観察したくなるのを我慢し、花村は無意味に頬を掻きながら口をひらく。
「や、わりい、いまの訂正」
 月森が自分の嘘を信じきっているという後ろめたさに、花村のハートは大抵いつも持ち堪えられない。これが逆の立場であったなら月森はきっと素知らぬ顔で花村を騙したままでいるだろうに、花村の良心を十とするなら月森はおそらく一未満という格差がそこに。
「月森センセイはみんなのリーダーなだけじゃなくて、俺の相棒っていうか、親友、っていうか、すごく大事なやつ、です、よ?」
 言っているうちに恥ずかしくなってきて語尾が思いきり疑問系になってしまい、花村は自分の肝の据わらなさに溜め息を飲み込んだ。俺のヒーロー、と本当は信じて疑っていない事実を認めたくは、いや、明かしたくはなかった。憧れてやまないだなんて知られたくない、そんな幼稚なプライドを守るために口走ったさっきの嘘を相殺したくて、だから花村がたどたどしく語ったいまの言葉は、一言一句漏らさず本心だった。
 弾かれたように花村に目を戻した月森は、またびっくりしたようにまん丸い目をしていた。
「花村、お前って恥ずかしいな」
「うわ、この、言ってはならんことを」
「ほんとに恥ずかしい」
 驚いた顔のまま至って冷静な声で花村の抗議を一蹴するようにくり返した、かと思えば突然反応しがたい速さで花村を抱き寄せた月森の行動は奇行と呼んでふさわしかった。ひい何!? と一瞬遅れて悲鳴を上げた花村が逃れようとするのを許さず、ぎゅううと力のこもる月森の抱擁はもはや友情や感慨を表す域にない。鯖折り!?
「俺も花村が大事。すごい大事。生まれていちばん大事かもっていま思った」
「お前のが恥ずかしいわ! つーか場所考えろってえええ痛い痛いいたい!」
 花村は月森の背中を両手でばしばし叩いたがまるで力の緩む気配がない。月森の委員会の仕事に付き合って居残っていたせいで通常の下校時刻はもうとっくに過ぎていて、幸い正門付近にひと気はないが、校内には部活中の生徒たちがまだ多数残っている。こんなところで鯖折りなんてされていたら危険すぎるのである、あらゆる意味で。
「ちょ、マジ離せって!」
「いやだ」
 明らかに平熱をオーバーした月森の頬が花村の頬に触れて、んもーヨースケちょー大事クマー、とうわごとみたいにふわふわと熱を持ったクマ語と吐息が耳にかかる。解かれない腕への戸惑いと物理的な痛みへの純粋な恐怖、それからなんだか自覚しがたい艶っぽい感情が混ざり合ってぞくりと背筋が震え、花村は激しくうろたえながら声を張り上げる。
「な、菜々子ちゃん!」
「あ?」
「菜々子ちゃんがいちばん大事なんじゃないんですかお兄ちゃん!」
 花村がどうにか切り札を出すのに成功した途端、月森はいっそ憎らしいほど一瞬で正気に返った。放り捨てるように花村を解放し、愚かな質問を嘲笑するごとくわずかに口端を引き上げすらした。
「そんなの当たり前っていうか世界の掟だろ菜々子は次元が違うあの子は天使お前は人間くらべようがないまさかまだ理解してなかったのか花村ってやっぱ馬鹿なの? つーかお兄ちゃん言うな」
 息継ぎもなければ花村への配慮もかけらもない!
「理解してっから言ってんだよこのシ、バカ!」
 シスコンと罵るのを考え直す程度には自制心が働いたが、馬鹿にバカと返しては小学生であると花村は自分にがっかりした。それ以上に月森にがっかりして、けれどマイ辞書の「ヒーロー【hero】」の解説には「〔名〕英雄。勇者。つきもりこうすけのこと。」といまだ揺るぎなく記してあって、花村はそんな自分にやっぱりいちばんがっかりした。
 もうこいつ置いて帰りたい、とせめてもの反撃のつもりで花村が溜め息をつくと、その願いを汲んだかのように月森が突然しゃがみ込んでしまった。花村は驚いて反射的に手を差し伸べる。
 膝を抱えて顔を伏せた月森には、夕日を浴びて光沢を帯びた黒いアスファルトか、自身のまぶたの裏の暗がりしか見えていないはずなのに、力なく上がった彼の片腕は目測を誤らず花村の手をつかんだ。
「つき、」
「立てない」
「うそーん」
「歩けない」
「マジなの?」
 ん、と鈍い動作で顔を上げた月森の顔の紅潮は明らかに増し、左の目尻が若干潤んでいる。花村は月森の手を強く握り返しながら慌てて携帯を取り出した。今日の放課後は補習があると昨日完二がぼやいていた、おとなしく参加したとすればまだ校内に残っているかもしれない。
 完二の番号を素早くリダイアルし、コール開始前の信号音すらもどかしく花村は月森の正面にしゃがみ込む。あんな息の根止めるみたいな馬鹿力で抱き締めてくるやつが本当はこんなに具合が悪かったなんて普通思わないじゃないか。まさかあの鯖折りで力尽きたとか残りHP振り絞って何やってくれてんのお前、完二早く出て!
「あああ完二俺! いまどこにいる、わー待て帰るな引き返せ、月森がダウンしたから手ェ貸してくれ、校門のとこいっから早く!」
 月森の危機と知らせた途端ものすごくドスの利いた声で「ウス!」と返ってきたいい返事に一安心しながら花村が電話を切ると、月森が頼りない口調でもそもそと不満を訴えてきた。
「花村がおんぶしてくれればいいのに」
「俺じゃ途中でへばるのが目に見えてんだろ、言わせんなよ」
 情けない自覚を暴露しながら、花村は今度は花村家にいるはずのクマに電話をかける。
「もしもし俺。お前バイトまでまだ時間あるだろ、わりーけど救急箱持っていまから月森んちきてくれないか。そう救きゅー、え? あー、赤い十字マークのついてる白い箱だよ。テレビの横の棚に入ってるから。何って薬だよ、風邪薬と解熱剤。月森が風邪ひ」
『センセイのピンチなら最初っからそう言いんしゃい! クマなんでも持ってどこでも駆けつけるクマ! ナイチンゲールクマー!』
 救急箱を知らなかったくせにナイチンゲールは知っていたらしいクマの雄叫びを残して電話は切れた。その叫びが漏れ聞こえたようで、ふたたび顔を伏せていた月森が、クリミアの天使と呟いてすこし笑った気配がした。熱に浮かされていても月森の頭に詰まった知識は霞むことはないらしい。花村の頭ではどれだけ健康な平時でも、ナイチンゲールと聞いて咄嗟に連想できるのは「看護婦さん」がせいぜいである。
 そんな些細なことでさえ月森を特別視する気持ちがふつふつと高まって、花村は片手で握っていた月森の手を包むようにもう一方の手を添える。月森がヒーロー扱いを嫌うなら口にはしない、態度に出さない努力もする、だけど思うのは勝手だ、と思った。それは俺の、大事なだいじな真実だから、月森にだって否定はさせない。
 それから一分もしないうちに、もう学校を出たと言っていた完二が地鳴りみたいな足音を轟かせて駆け戻ってきた。完二の広い背に負ぶわれた月森は短く礼を言うと、安心したように目を閉じた。花村は自分と月森の鞄を持って、月森を負ぶった完二のすこし後ろをついて行く。完二の鞄も引き受けようとしたのだが、平気っスよとごく普通に断られ、その言葉通り完二は片手に鞄をぶら下げたまま苦もなく月森を背負い上げたのだった。
 月森は目を閉じているだけで眠ってはいないようだったが、完二の肩におざなりに腕を回したきりいっこうにつかまろうとする様子もなく、指先が頼りなく宙に遊んでいる。それでも完二の腕はしっかりと月森を支えていて、相当な大股で歩いているにもかかわらず月森の身体はずり落ちるどころかほとんど揺れさえしなかった。
 完二を呼んで正解だったと思う一方で、花村はもどかしさに顔を俯ける。腕力馬鹿で体力馬鹿、そのくせ意外にも器用なこの後輩を羨む自分が情けなかった。
「センセー! クマゲール参上クマー!」
 鮫川の土手の途中で、ガッチャガッチャと救急箱を鳴らしながらクマ(美少年のほう)が後ろから追いついてきた。先ほどの完二同様猛ダッシュしてきたようで激しく息を弾ませている。着ぐるみを脱ぎ去って人型をチョイスしたのも走るのに有効なコンパスの長さを考慮してのことだろう。健気とは思うが救急箱抱えた自称ナイチンゲールの金髪美少年の全力疾走ときたらそれはもう悪目立ち確定なので、明日以降の町の噂が若干心配ではある(ジュネスの看板美少年の奇行がまたひとつ白日のもとに!)。
 月森の背中に救急箱アタックをかましそうな勢いで突進してきたクマを、花村はその襟首をつかんで強引に止めた。ぐえっクマ、と変な呻き声を上げてクマは恨めしげな目で花村を睨んだが、どうやら眠ってしまった様子の月森に気づくと、救急箱を大切そうに胸に抱えて完二の隣に並んだ。
「センセイ顔が赤いクマよ」
「ああ、身体もだいぶあったけえし、熱高そうだな」
「なおるのよね? きゅーきゅー箱あればセンセイなおるのよね?」
「んな心配すんな。栄養あるもん食って薬飲んでたっぷり寝りゃ風邪なんざすぐ治る」
 月森を起こさないよう小声で話しかけるクマに、完二が同じく小声で断言する。それを聞いてクマが安心したように笑顔になった。
 完二の歩幅に遅れまいとクマは小走りになっている。普段であれば女子やクマに合わせてさりげなく歩調を緩める気遣いを見せる完二だが、いまばかりは月森を早く家に送り届けることを優先しているようでペースを落とす気配はない。
「クマびっくりしたの。センセイも風邪なんてひくクマね」
「そりゃひくだろ風邪ぐらい。まあ確かに先輩に限ってって感じはしねえでもねえけどな」
「早くなおるといいクマ。でもね、病気のセンセイのお世話できるの、クマちょっとうれしい」
「不謹慎なこと言ってんじゃねえぞコラ」
 言葉とは裏腹に完二の表情はやわらかい。彼もすくなからずクマと同じ気持ちなのだと花村には手に取るようにわかった。この場の、いや、いまここにいないメンバーも含めて特捜隊の誰もがきっと同じ思いであるはずだ。
 どんな形であれ月森の助けになれるのがうれしい。月森の見せた小さな隙、彼の“普通”みたいなものに無意識に安堵してしまう。月森の背中はとても頼もしいけれど、できるなら隣に立って同じ世界を見てみたい。
 みんなお前をヒーローだと思ってんだよ。
「ヒーロー扱いすっと、月森いやがるぞ」
 揺れる月森のつま先を見つめながら花村が低く呟くと、足を止めないまま振り返った完二とクマが揃ってきょとんとした顔をした。
 俺だけのヒーローだなんて、言えやしない。

 

 

 2010.6.17
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