英雄を望む、望まない

 

 

 

 ヒーローみたいだと思われているなんて生易しいものじゃない、もはやヒーローであると信じられている。
 事実、月森は花村が影に飲まれるのを阻止し、暴かれた花村の本心に嫌悪も同情も理解も覚えず、しかし項垂れて涙目の彼になんのフォローもしないのはあまりにも冷血漢ではなかろうかと人並み以下ではあるが一応持ち合わせてはいる良心が咎めたのでありきたりな慰めの言葉をかけてみたところ、どうやら花村のブロークンハートのセキュリティをあざやかに解除してしまったようで、あらぬ信頼を買ってしまった。
 テレビの中で化け物とガチで戦うなんて現実味のなさすぎる現実にも、この目この耳で見たもの聞いたものは受け入れる柔軟性を身上とする月森は誰よりも早く順応した。敗北後のコンティニューもセーブデータのロードもできない以上、最大限の負けない努力をしたし、無節操に付け替えのきく力は“負けない戦い”の鉄則を守るに十分だった。そして何より、大切な人を突如奪われる悲しみと理不尽をもう二度と誰にも味わわせるまいと、およそらしくもない真っ当な正義感が驚くほど安易に芽生えてしまって、それらすべてが花村の認識にますます誤解を生んだようだった。
 月森孝介はヒーローである(確定)。
 救うためにこの町に現れたのである(暫定)。
 ア ホ か。
 花村の夢見がちな単細胞ぶりに月森は日々密かに頭を抱えた。ヒーローであるわけがない、なりたくもない、しかし築かれてしまった好意と信頼をぶち壊す勇気もない! 自分が傷つくのは嫌だがそれ以上に花村を傷つけたくないというこの薄笑いしたくなるような善人ぶった思考回路、いっそ滅べ俺の良心と正義感!
 とかいう後ろ暗いことをいまこの瞬間も考えているなんて一ミクロンだって想像しないのだろうと、月森はすこし腹立たしい気分で傍らの花村を見た。
「えっなんかにらんでる?」
「にらんでない」
 月森の視線には敏感だがその意味合いには大概鈍い花村の反応はいつだって速い。素早さ以外の身上もそろそろ身につけていただきたいと胸中で心狭く罵りながら、月森は花村から視線をはずした。やっぱり何か機嫌を損ねたらしいと誤解した花村が途端に焦った顔をするのが、視界に入っていなくても手に取るようにわかる。にらんでいないと言っているのに。
 このヒーロー崇拝者は無条件に信頼を押しつけてくるくせに、結構な頻度でヒーローの言うことを信じない。機嫌を損ねるというなら俺は毎日不機嫌でいたっていいはずなんだお前が俺を過大評価してはばからない限り、と月森の心はますます狭くなる。
「体育のときのはほんとにわざとじゃないからな」
「そう何回も言われると実はわざとだったのかもって逆に疑いたくなる」
「んなわけないだろ! つかあれはお前も悪いじゃん!」
「そうとも言う気がしないでもないとも言い切れない」
「どっち!?」
 花村のヒーローでありみんなのリーダーであり成績学年トップ10の常連であり、バスケ部員で演劇部員でいつの間にか保健委員でジュネスの臨時アルバイターで家庭教師で内職の鉄人で以下省略、我に返ればほとんど自分で撒いた種によりアホほど多忙な月森は、いま現在は保健委員である。
 今日は月森の部活も花村のバイトもテレビ行きもなかったので、沖奈のCDショップと楽器店に寄ってからカラオケに行こう(花村案)とか、ホットケーキ焼いてやるからうちで鶴折りながらごろごろしよう(月森案/おやつを報酬に内職手伝わせようなんてまったく思っていませんよ/棒読み)とか放課後のゲタ箱でもそもそ相談していたら、通りかかった養護教諭にまんまとつかまって保健室の留守番を任されるはめになった。
 イレギュラーな委員会仕事をほいほい引き受けた月森に花村は不満顔だったが、ひとりで先に帰るという選択肢が彼にはないらしく、結局二人で保健室の番をすること早一時間。所用で三十分ほど学校を離れると言っていた養護教諭はまだ戻ってこない。もう放課後だし今日は活動している部もすくないから、怪我や体調不良を訴える生徒もさっぱり訪れない。
「いまさらだけどさ、これ留守番の意味なくない? つーかそもそも先生いないのにケガ人きても俺ら慌てるしかないじゃん、どーすんの?」
「慌てず、騒がず、保健の先生がいないときは体育の先生に知らせることになってる」
 月森は養護教諭のデスクに片手で頬杖をついたまま、呆れ顔を隠さずに花村に向ける。隣でパイプ椅子に逆向きにまたがって背凭れを抱え込んでいた花村は、今度は月森の視線の意味に正しく気づいたようだったが華麗にスルーした。
「近藤ちゃんで大丈夫なのかよ」
「さあ知らん。応急処置ぐらいはできるんじゃないのか。どっちにしろ学校で対処できるのなんて擦り傷程度までなんだ。それ以上のは一択で病院行き」
「うえ、マジで?」
「そう聞いてる」
「あんま知りたくなかったわ、それ」
 花村はちゃちいくせに雰囲気だけはあるお化け屋敷に放り込まれたみたいに苦笑いして肩を竦め、保健室内を見回した。
「俺学校ではケガしないようにしよっと」
「学校以外でも気をつけろよ。花村はよくチャリで川に落ちたりするから危ない」
「落ちてねえよ!」
「よくポリバケツに頭突っ込んだり」
「よっ、よくじゃねえよ、すっげーたまにだよ!」
「よくタマぶつけて潰れたり」
「やめて思い出させないで! つか潰れてませんから、健在ですから!」
「ごしゅーしょーさまクマー」
 ポリバケツ経験者であるだけで十分危険、そして希少であると思いながら、月森は面倒になってきたので適当にクマの真似をした。
「潰れてねえっつの! 流そうとすんな!」
 すかさず花村の突っ込みと抗議が飛んでくる。よくおわかりで。月森は自分で話を振っておきながらすぐに飽きて雑にまとめようとする、または振りっぱなしで平然と無関係を装える人間である。そうとわかっていて、なぜそんなやつにいつまでもヒーローを見ていられるのか。
 花村は目を眩まされているだけなのだ。自分の影との対峙なしに力に目覚めた月森の優位性と特異性に。それに命を救われたことに。
 しかし力の獲得は月森の意志ではないし、花村を助けたのだって、あの日あのときあの場所に居合わせたからという偶然の結果にすぎない(だけど花村は必然とか信じてるんだろう、恥ずかしげもなく!)。
 ペルソナ能力だのなんだのは置いておいて、月森孝介の実体をちゃんと見てほしい。
(とか、願っちゃってるんだろうか俺は)
 願っちゃってるんだろうなあと他人事みたいに、けれどとても苦々しく思いながら、月森はずるずるとデスクに上半身を預けてほんのりと冷えた天板に右頬を押しつけた。身体が弱ると思考も弱る。考えても仕方のないことを、普段よりずっとたくさん考えてしまう。
 実は体調が悪いのである。理由は明快、昨日テレビの中でシャドウの巻き起こした猛吹雪を派手に浴びたから、おまけに氷結弱点のペルソナを装備していたから。
 つまり、風邪をひきました。
 朝起きた時点では疲労の延長のような軽いだるさを感じる程度だったので問題視しなかったのだが、甘かった。一限目が終わる頃にはだるさが顕著になり、二限目に頭痛発生、三限から四限にかけてじわじわと熱っぽさに見舞われるという着実な、ただしどれも耐えられないほどではない微妙な進行具合。
 なので、月森はとりあえず我慢することにした。しかし取り立てて隠そうとしたわけではない。戦力的にも士気的にも月森が要であるテレビの中でならいくらでも痩せ我慢を貫いてやるが、自分がぶっ倒れたところで誰が危険にさらされるわけでもない日常生活でまでがんばる義理はないのである。菜々子に心配をかけてしまうのだけは、とても胸が痛むけれど。
 だから月森は教室では授業中もほとんどずっと机に伏せていたし、昼休みは演劇部の部室兼会議室にもぐり込んでありったけの衣装にくるまって仮眠をしていたし(だいぶ皺にしてしまったので犯人と知れたら小沢に怒られる)、午後の体育のバスケットではシュートをはずしまくった上にだんだん朦朧としてきて終いには花村からのパスを顔面で受けたりした。「こらあバスケ部!」という野次に「バスケ部がみんなバスケうまいと思うな!」と返すぐらいの気力はまだあったが、正直そろそろちょっと弱音を吐きたかった。
 しかし花村は気づかないのである。ボールをぶつけたことに対しては平謝りだったが、そのあとで「お前今日キレ悪いなー内職しすぎじゃね?」とか抜かしやがったときにはかなり本気でぶん殴ってやろうかと思った。
 寝不足じゃねえ、風邪だ!
 と、怒鳴りたかったがかっこ悪いのでやめた。花村に対してかっこつけたい自分に、月森は大いにへこんだ。
 そうだ、俺は花村にヒーロー扱いされたくないくせに、かっこ悪いところを見られるのも嫌なのだ。だからいまや完璧に独り歩きを始めている気味の悪いヒーロー像を退治できないまま、ずるずると今日まできてしまっているのだ。
 馬鹿だ、と思った途端、錆びた鈴の音程度だった頭痛が急にガンガンと半鐘を打ち鳴らすひどさにまで跳ね上がって、月森はきつく目をつむる。養護教諭が戻ってきたら薬をもらおうと考えていると、前触れなく、体温の低いてのひらが前髪の下に滑り込んできてぺたりと額に張りついた。
 驚いて目をあけると、当たり前みたいに心配そうに眉を下げた花村が、間近で月森の顔を覗き込んでいた。
「お前、具合悪いんだろ」
 疑問や質問ではなく、静かに確かめる口調で花村は言った。
「熱もあんじゃねーの。結構熱いぞ」
「知ってたのか」
「見てればわかるって」
「わかってて沖奈でカラオケとか鬼か」
「だってお前テレビの中でもそうだけど、やばくなっても絶対言わねーじゃん。だから連れ回そうとすれば無理って白状するかと思ったんだよ。しなかったけどな」
 花村の真剣な表情に心配よりも不満の色が濃くなってゆくのを、月森はただぽかんと見つめていた。頭痛からもだるさからも意識が遠く引き離されて、錯覚に決まっているのに急激に苦痛が薄れ、花村はいつの間にアムリタを習得したのだろうと半ば本気で思った。こっち側でも使えるなんて何か特別な特訓でも積んだのだろうか。
「おまけにやっと帰れるっつーのにいきなり余計な仕事引き受けたりとかな、バカかと思ったけどな!」
「なんで付き合ってくれたの」
 月森はすこし顔を持ち上げる。花村の手はまだ額に置かれたままだ。
「ほって帰れるわけねーだろ。お前がまだいけるって思ってんなら、隣でギリギリまで見守ってやるのが相棒の務めだろ」
「うーわー」
 俺かっこ悪い! 花村を侮っていた申し訳なさと、その裏ですべて見透かされていた決まり悪さに、月森はマッハでデスクの下に隠れたくなった。同時に、嬉しさのあまりいますぐ全力で花村を抱き締めたくなった。風邪なんてあまりにも些細で幼稚な誘因だったけれど、隠す気がなかったのだから悟られて当然だけれど、どんな事柄であれ花村が正しく月森を見ていてくれたことが嬉しかった。
 何よりも、いまこのタイミングで相棒と口にしてくれたことが
「でもさ、具合悪いときぐらい隠さないで言えよ」
 うれしすぎて、
「必要ないかもしんねーけど、俺だってお前の助けになれることあるかもしんないだろ」
 あァ?
「つーかなりたいんだよ、お前の助けに」
 ものすごい勢いで頭痛がリターン、花村の台詞の翻訳を脳が拒否。
 渋面から一転、ものすごく重要なことを言い切ったみたいに充足感に満ちた表情を浮かべた花村は、月森がまばたきすらせずに凝視しているのに気づくと、うっすら頬を赤くして目を逸らした。
 あ。やばい。キレそう。
 月森は奥歯を噛み締めて、さっきよりずっときつく目を閉じた。風邪が悪化していてよかったと思った。おかげでいろんな神経が鈍くなっていてよかった。もしこれが平常時だったら脊髄反射的に花村に飛びかかっていたかもしれない。
 けれどそれならそれでよかったとも思った。月森孝介というのは花村には理解不能な理由で簡単にキレて暴力に訴える人間であると知らしめる絶好の機会、それをみすみす逃したと考えれば心底残念だ。しかしたとえいまそうしていたとして、果たして壊せただろうか、花村が大事に大事に胸に抱いている偶像を。
(もっとひどいことをしないと)
 月森はほとんど無意識に(お前が大事にしてるそれは俺じゃないよ)額に触れている花村の手をつかもうとしたが(俺じゃないんだ)悲しいぐらいに心地よいてのひらは、わずかに早く離れていってしまった。
「帰ろうぜ、送ってく」
「しかし俺は保健委員のお仕事中なわけで」
「その保健委員本人が具合悪けりゃ世話ねーだろ」
「留守番ぐらいできるもん」
「口とがらしてもだめ! ぜんぜんかわいくないし!」
 当たり障りのないいつも通りのじゃれ合いの言葉しか語れない自分の口を、月森は憎んだ。もっとひどいことが言いたかった。花村を傷つけたくないなんて無意味で甘ったるい理想を抱えていた自分の心を、月森は呪った。この上なく傷つけたくなった。
 ひどいことを言って、して、月森孝介はヒーローなんかじゃないと花村に認めさせたい、のに、嫌われるのが何よりこわかった。
「近藤ちゃんに話つけてくっからちょっと待ってろな」
 花村は颯爽と保健室から駆け出していった。月森はゆっくりと身体を起こす。痛みと熱と、怒りに、ぐらつく頭は使い物にならないので、不穏にざわつく胸の奥で花村への恨みを育ててみようとしたけれど、無駄であるとわかっていた。いままで何度も試みてきたが、ちいさな花はすぐに散って萎れて、絶対に実を結びはしないのだった。
 花村のせいで月森はヒーローにならざるを得なくなってしまった。勝手な思い込みで誕生させたヒーローの背中を花村がキラキラした目で追うから、月森はあとに引けなくなって、次々加入する特捜隊メンバーたちにまでヒーロー視されるようになってしまった。
 月森は必要以上に力を込めて床を踏み締め、立ち上がる。花村に嫌われる覚悟さえあればいまこの瞬間にさえヒーロースーツを脱ぎ捨てて自由になれるのに、ヒーローにもっとも必要である勇気を、このヒーローは持ち合わせていないのである。
(いっそ俺が先に花村を)
 もう数え切れないほど考えた、しかし月森の思考がその終点に辿り着いたことは一度もない。
 花村を嫌えたらいいなんて、思うことすらできない。

 

 

 2010.4.1
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