ひとりでテレビの中へは行かないこと。みんなで決めたルール。約束。
 クソ食らえ。
 午前九時五十九分、目の前の巨大なシャッターが軽快な騒音とともにようやく上がり、しかしひらかない自動ドアのガラスを叩き割ってやりたい衝動が限界だった。青い制服制帽の中年の警備員が、鼻歌でも歌っていそうなのんきな顔と足取りでフロアの奥に姿を現したのを、月森はドアガラス越しに目敏くとらえる。やや遅れて気づいた主婦たちが、冗談めいて笑い合いながら早く早くと警備員を手招いた。
 開店直前のジュネスの正面出入り口前、売り切れ必至の特売品を狙う熱心な主婦客の群れに混じった学生服姿の月森の存在は、飛び抜けて奇異だったろう。皆が皆、一度ならず好奇あるいは不審の目を向けてきたし、学校はどうしたのかしらねえと聞こえよがしに言う者もいた。それらを鬱陶しいと態度に出すことにも恫喝じみた斜眼で黙らせることにも躊躇はなかった。キレやすい物騒な少年と思われて結構、あとでどんな悪評が立とうと知るものか。
 ドアのすぐ向こうまでやってきた警備員はそこで立ち止まり、開店待ちの客たちに人のよさそうな笑みを向けると、のんびりと腕時計に目をやった。殴り倒してやろうかと月森は思う。十時ジャストに開店すべく律儀に時報に合わせてでもいるのだろう、それが彼の仕事なのだから責める謂れなどかけらもなく、しかし同時にいまの月森には良識も余裕もまるでない。もしこちら側でもペルソナを発動できたとしたら、いまこの瞬間、ドアがひらくまでの残りわずか数秒を惜しんで間違いなく力を振るい、行く手を阻む強化ガラスを粉砕していた。
 警備員が腕時計から目を上げ、自動ドアの上下のロックをようやく外した。ゆっくりとひらき始めたドアの隙間をこじあけるように、月森は店内に身体を滑り込ませた。呆気に取られた顔をする警備員もざわつく主婦客たちも、二つ目の自動ドアの向こうでいらっしゃいませの挨拶も忘れてぽかんと見つめてくる店員たちも置き去りに、エスカレーターを駆け上がる。
 三十秒とせずに着いた家電フロアにはまったくひと気はなく、お馴染みのメロディーをくり返す店内放送が必要以上に明るくけたたましく耳に響く。人影がなさすぎるお陰で、目指す大型テレビの前に非常によく見知った黒い学ランとふさふさした丸っこい姿が立っているのが、エスカレーターののぼり口からでも容易に視認できた。
 月森は本気で舌打ちをする。もしかしたらいるかもしれないと予想はしていたが、実際いるとなると面倒極まりない。しかしわずかも歩調を鈍らせることなく、月森は大股で大型テレビへと向かった。
「よお、相棒」
 ひらりと手を振る花村の間延びした挨拶に応じず目も合わせずに横をすり抜けようとすると、素早く左腕をつかまれた。即座に振り払おうとしたが花村の力は予想外に強く、利き腕でないのも災いして儘ならない。殴れば引き剥がせるだろうかと当たり前みたいに考える。
「はなせ」
「やだね」
「一秒が惜しいんだ」
「わかってる。でもひとりじゃ行かせらんねえ」
 互いの目的が知れているので言葉からは無駄も感情も削ぎ落とされて、殺気立つようにただぶつけ合う。普段はそれこそ無駄口だらけのクマが、何も口を挟めずにおろおろと二人を見比べている。
 一昨日、菜々子がテレビの中に捕らわれた。本当はあの晩すぐにでも助けに向かいたかった、しかし無謀だと止められ、仲間たちの圧倒的な正しさを認めざるを得なかったから血を吐く思いで我慢した。
 翌日、久慈川が体調を崩した。久慈川は大丈夫だと言い張ったし多少無理をさせてでも一刻も早くテレビの中に行きたいというのが月森の本音だったが、結局探索は中止になった。
 わかっている、菜々子を案じる気持ちは皆同じだし、月森の焦燥を慮りながらも探索中止を判断した花村や白鐘が正しい。ただでさえ精神も体力も削られるテレビの中だ、明らかな体調不良を抱えて飛び込める場所ではなく、また、探査能力者を欠いてまともな探索および戦闘ができるとも思えなかった。
 泣いて謝る久慈川に、泣くヒマがあるなら早く治せとあえて皮肉を言って頭を撫でてやったのが月森のフェミニズムのギリギリで、けれどうまく笑えていた自信はない。夜にはすでに後悔していた、久慈川なしでも、クマを代用してでも行けるところまでは行くべきだった。菜々子も堂島もいない静まり返った家にひとりきり、菜々子の命の保証はない、堂島だって重体だ。気が狂う。
 そして今朝、月森は迷うことなく学校ではなくジュネスへ向かった。もうすっかり元気になったと早朝に久慈川からメールを受けていたが、放課後まで待つ気などもはやさらさらなかった。仲間の言に従いふた晩我慢した、無駄にした、限界だ。こんなときに学校? アホのすることだ。俺の好きにさせてもらう。菜々子を取り戻す。
「お前を殴ってでもいますぐ行く」
「それは勘弁。お前のパンチまじやばいっつーの」
「だったらどけ」
「どかねえ」
 花村の冷静な拒否を心底腹立たしいと思うと同時、月森はつかまれた左腕を力いっぱい引いた。勢い前によろけた花村の顔面めがけて容赦なく右拳を見舞う。寸でのところでかわされ拳は花村の髪を掠めて手応えなく空を切ったが、立て直す隙を与えず足払いをかける。もろに食らいながらも花村は驚異的なバランスと柔軟さで踏みとどまった、月森は攻撃をゆるめない。
 ローが二発入ったところで花村は顔を歪めて月森の腕を解放した。蹴られた弾みで離したのではなくつかんだままでは逆に枷になると悟ったのだろう、さすがに判断が早い。
 距離を取られると厄介なので月森は早々にとどめにいったが、テンプル狙いの上段はさすがにモーションが大きすぎてあっさりかわされた。ペルソナ能力全開のテレビの中のようには動けない、里中の常の身のこなしや技をもっと真剣に観察して盗んでおくんだったと頭の隅でちらりと思った。
 花村は壁に追い詰められないよう抜け目なく背後を確認してから数歩後退し、しかしその余裕とは裏腹に心なし青ざめた顔で月森を見据えて呼吸を整える。花村の背にしがみつくように隠れたクマが大きな目を片方だけ覗かせて月森を窺っている。いつもなら、衣食住の世話になっている花村蔑ろで月森にべったりの恩仇返しのクマが、本心からの怯えを月森に向けている。万人にポーカーフェイスと評されてきた自分がいまいったいどんなひどい顔をしているのか、月森には想像もつかなかった。
 ギチリと奥歯を鳴らし、月森はふたたび花村との間合いを詰める。左右にフェイントを入れてから本命の右フック、しかし花村はことごとくかわす。力なら月森が上だが速さは花村が勝る、あっちに行きもしないうちから体力の削り合いなんて冗談じゃないと思うものの致命的に決定力に欠ける。
 苛立ちに目を眇めた瞬間、花村の首のヘッドホンから伸びるコードが視界の端で揺れた。脊髄反射の速さで月森はコードをつかみ、引きちぎらんばかりの強さで引いた。ヘッドホンごと引っぱられて大きく前に傾いだ花村の顔面に頭突きをかます。いってえと叫んで花村が両目をつぶったところへ渾身の右。
 が、信じがたいことに、花村はそれをも防いだ。パアンと破裂音じみた派手な音を立てて、月森の拳と、花村がギリギリで顔の前にかざしたてのひらが衝突する。かろうじて受け止めた月森の拳を、花村はそのまま強く握り込んだ。振り払うのもワンツーで左を叩き込むのも容易で当たり前の選択だった、てのひらに食い込む爪の痛みを糧に左拳を振るうのに躊躇などなかった、のに、月森の集中力はそこで切れた。
 凶器と化した自分の拳越しに見る花村は、ひどい顔をしていた。怒りや不安や焦燥や恐怖、すべてをない混ぜて赤黒く粘ついた感情を無理に噛み砕き飲み干して、けれどとても消化しきれず、いまさら吐き出せもしない瀕死の愚か者の顔だった。あとはもう泣きわめくしかできないのに自らそれを禁じ、どこへも行けなくなった大きな迷子の顔だった。
 目尻がうっすら赤く染まりさえしている花村の目を見て、月森は悟る。鏡だ。花村はいま俺を映している、このひどい顔をしているのは俺だ。
 途端に力が抜けた。菜々子への思いや邪魔をする花村への悲しいほどの怒りや敵意や秘めてきた凶暴性、自分の中で歪なひとつを成していたものがすべてばらばらになって頭と心の隅々まで散っていき、何がなんだかわからなくなる。
 月森が膝から崩折れたのを見て、大型テレビの裏で身を縮めていたクマが慌てたように飛び出してくる。震える息を大きく吐き出し、花村もへたり込むようにその場に尻をついた。
「せ、センセイ、センセイー。ヨースケー!」
 ポテポテと走り寄ってきたクマに体当たりみたいにしがみつかれ、月森はすこし我を取り戻す。花村と対峙していたあいだずっと鼓膜を抉り続けていた金属的な耳鳴りが、ジュネスのCMメロディーに戻っていた。
「センセイ、大丈夫クマか? 大丈夫? センセイ大丈夫?」
 着ぐるみだからよくわからないが、中身はおそらく泣きじゃくる寸前なのだろうよれよれの声で何度も問いながら、クマが月森の顔を覗き込む。ついさっきクマを怯えさせた張本人である月森を、いまはもう泣くほど本気で心配してくれている。そんなクマをも必要とあらば排除する気でいた自分の冷血さと混乱ぶりに、月森はきつく唇を噛んでまぶたを震わせた。
 床に両足を投げ出して両手を身体の後ろについた花村は、セールや新商品の宣伝パネルが何枚も吊られた天井を放心したように見上げている。
 彼を本気で敵対者と認識した自分、攻撃することを迷わなかった自分に、月森は泣きたくなった。相手は花村なのに。
 はなむらだったのに
「月森、お前」
 しぼり出すような低い声にハッと意識を向けると、花村が激しく目を眇めて月森を睨んでいた。謝らなくてはと月森も口をひらいたが、喉が張りついてふさがったかのように声が出ない。唇も舌も乾ききり、ただ浅い呼吸をくり返す。月森の腕にすがりついたままのクマが、ヨースケ、センセイを怒らないで、怒らないで、と必死に頼んでいる。
「お前な!」
 花村が眉を吊り上げて怒鳴った。月森とクマは揃ってびくりと首を縮める。
「ほんっとに本気でかかってくるとか、おま、こっえーんだよ!! 寿命が三年縮んだ! 絶対縮んだからなどーしてくれんだ!」
 ばしばしと床を叩いて怒り狂う花村に月森は心底驚き、驚きすぎて、あ、ごめん、とものすごく普通に間抜けに言ってしまった。凍りついたように出なかった声と言葉が簡単に出た。
「あ、ごめん? あ、ごめんン!? それですんだらジュネスなんていらないですよねえ奥様!!??」
 わけのわからない雄叫びを上げる花村に、月森の隣でクマが胸をそり返らせた(のだろう、たぶん。一見よくわからなかったが)。
「世紀の美少年アイドルクマがいる限り、ジュネスの存在価値はまんまんクマよ奥様。当分はお勤めしてあげるから安心するがいいクマ」
「いますぐ星へ帰れ!」
「八つ当たりはいかんクマ。センセのような大物に小物なヨースケがかなわないのは当たり前よ」
「え、俺いま負けたの? つかてめ小物っつったか」
「でもヨースケもよくやったクマ。いーこいーこしてあげるね」
 月森から離れていそいそと花村に寄っていったクマは、容赦なくグーパンチをもらって床に転がりじたばたもがく。花村がケケケと小悪党みたいな笑い方をしてそれを眺めている。
 月森は床に額を押しつけてうずくまりたい衝動に駆られた。この身勝手に過ぎる心と身体を小さく小さく丸めて、泣いて、愚かさを流し尽くしてしまいたい。愚行を極めた月森の暴走を身体を張って止めたばかりか許そうとまでしてくれている花村とクマに報いる手立てが何もない。嬉しくて情けなくて、ああ本当にいまにも泣きそうだ。
「泣いてもいいんだぜ、相棒?」
 からかうような声に慌てて鼻をすすって(泣いてはいない、まだかろうじて!)顔を上げると、目の前に花村がしゃがみ込んでいた。そのすこし後ろでは、自力で起き上がったのか花村に情けをかけてもらったのか復活したクマが、フロアの床に器用に正座して月森を見つめている。
「別に泣かない。泣く理由がない」
 月森が真顔で答えると(感情が表に出にくいタチでよかったとたぶんいま生まれていちばん思った、許容を越える寸前だった涙さえすぐに引っ込むしきっと目だってすこしも充血していないんだろう)、花村はとても残念そうに、あっそう、と唇を尖らせた。
「花村、こないだ俺の前で泣いたの後悔してるのか」
「し、してませんけど」
「俺もお前の前で泣けば相殺できるとか思ってるだろ」
「思ってませんけど!」
「ヨースケ、センセイに泣かされたクマ? さっすがセンセイ、泣かせた男女は星の数ー」
「ちがう! クマお前はなんでもかんでもそっち方向に解釈すんのやめろ!」
「だってクマは恋愛タイシツ」
「うざいわ!」
 ふたたびグーを振り上げる花村の手から華麗に逃れ、むほほーといやな笑い声の尾を引いてクマが逃げてゆく。追いかける花村を目で追いながら、月森は本当はまだ力の入らない足をなんとかごまかして立ち上がる。
 家電フロア本日ひと組目のお客様がエスカレーターから上がってきて、それに気づくや花村とクマは追いかけっこをぴたりとやめて駆け戻ってくると、いらっしゃいませー! と声を揃えて頭を下げた。一見まるで店員らしからぬ学生服の高校生と着ぐるみに迎えられ、老年の夫婦はひどく驚いた様子だったが、あらフードコートの子、と婦人が優しくクマの頭を撫でていった。
 夫婦の姿が洗濯機コーナーのほうへ消えると、花村は改めて月森へ向き直った。学ランの襟元からいつもより長くはみ出しているヘッドホンのコードが妙にみっともなくよれているように見えて、ああ弁償しなきゃ、なんて月森はぼんやり考える。
「もう平気か、月森?」
 花村がすこしだけ硬い声と表情で訊いてきた。平気じゃない、と月森は思う。菜々子のことを考えるだけで脳にも視界にも熱が走る、いますぐテレビに飛び込みたい衝動は以前強烈で薄れようがない。平気なはずなんてあるか。
 けれど、月森は頷くことができた。花村の目を見て、平気だと言えた。花村の表情がほっとしたようにゆるく溶ける。
「おっし、んじゃ、学校行こうぜ」
「うん」
「しょうがねえから遅刻のお小言もらって、授業受けて、あー里中たちにも心配され、や、めっちゃ怒られる予感すんだわ、お前もだろうけどすんげーメールきてるし」
「ははは、きてるきてる」
「昼メシ食って、だりーけど午後乗り切って、そしたらすぐ放課後だ」
「だな」
「ソッコーあっち行って、今日こそ菜々子ちゃん助けよう」
 花村の隣でクマもこくこくと懸命に頷いている。耳の付け根を撫でてやって、ありがとうクマと月森が言うと、ウフフクマーと気持ちよさそうに笑った。
「花村も、感謝してる」
 花村は照れたように目を細めて、乾いた茶色い髪を掻く。
「お前に感謝されるとちっとうれしいな」
「お前に助けられるのもちょっとうれしいよ」
「クマー」
 寂しんボーイが無駄に会話に混ざろうとしてきたところで、フロアを通りかかった女性店員が花村を見咎めて足を止めた。
「あら、陽介くん? 学校どうしたの」
「あっお疲れさまっス、いまから行」
 慌てて愛想笑いを浮かべた花村が最後まで答えるより早く、月森は花村をさらって走り出した。花村の手を握った途端、頼りなかった足は嘘みたいに力を取り戻す。エスカレーターに直行しながら、クマがんばって稼げよ! と肩越しに振り返れば、すかさずナイスアンサーが返ってきた。
「センセのためにー!」
 俺のためにも稼げよとわめく花村を引きずるようにして、ほかの利用客がいないのをいいことに月森はエスカレーターを駆け下りる。
「おわ、こら、店ん中で走るなって!」
 骨の髄までジュネスの息子に幼稚園で教わるような注意をされたけれど、構わず一階まで突っ走った。途中で花村があきらめたように、そしてすぐにたまらなくなったみたいに大声で笑い出したのが嬉しかった。ぎゃはぎゃは笑いながら悪ガキみたいに二人でエスカレーターを走り、十分すぎるほど客や店員の注目を浴びた(花村は一階に着いた途端に我に返って、「今日中に親父にバレるって!」と頭を抱えて後悔していた)。
 これ以上人目を引くまいと(いまさら無駄すぎる気はするが)正面ではなく西側出入り口から脱出すべく、主導権を握って前をゆく花村の背に、月森はそろりと声をかける。
「花村。もし、もしまた俺が馬鹿になったら、」
 たすけてほしい。
 羞恥か後悔かなけなしのプライドか、肝心な部分は急に声が掠れてうまく音にのせられなかった。けれど花村は振り返り、エスカレーターの下で一度離した手を再度差し出して、にんまりと笑った。
「任しとけ」
 王子様、と真顔で月森はきゅんとして、そんな自分に人生最大の鳥肌が立ち、花村の手を取ると同時にうわぎゃーと盛大に野太い悲鳴を上げた。

 

 

 2008.10.26
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