町を殺す霧からは埃の臭いがした。

 

 

 

 

 陰鬱な商店街の終点には記憶に鮮明な寂れた酒屋。店頭の自動販売機だけがあかるい。ぽかりとひらいた出入り口をふさぐ蠢く粘性の赤と黒。店内は見えない。
 赤と黒のストライプは店外に這い出ない代わり粒子の粗いひかりに似て路上を照らす。見上げれば空にもとろとろと同じ色が流れている。なぜまた、まだ、ここにいるのかと花村は金色の瞳をまばたかせる。自分の瞳の色など見えないが黒くないことは知っている。
 周囲に人はいない。空に鳥も飛ばない。自販機の陰で猫があくびをすることもない。音がしない。
 仕方なく花村は俯いてヘッドホンを耳に当てる。音楽を、歌声を、温度と彩度のある音を求めるのは人を恋しがるのに似ている。静寂には耐えられるが沈黙はおそろしい。なみなみと場を満たす無音は静寂ではなく沈黙であると感じられた。この場所は人の心奥そのもの、小西早紀のこころが生んだ闇の生き物。
 異国の貪欲な恋の情景が息つく間もない速さで踊り叫び耳から流れ込む。聴くと同時に同じ速さで口から外へ吐き出す。灰のような黄土のような重たい霧に音はすぐさま吸収されて、沈黙。
 小西早紀の生んだ世界が花村を拒絶しているのだきっと。悲しくはなったがその悲嘆は氷が溶け切ったアイスティーのように薄ぼけた味しかしなかった。
 花村陽介。やっぱり俺たちは別々のものなのかもしれない。なぜならいまヘッドホンから鳴り響く曲も次に再生される曲も次もその次も俺はさも慣れ親しんだ淀みない発音と音程で舌にのせられるが本当はこんな歌好みじゃない。惚れた女に疎まれていた花村陽介を俺は愉快に思う。
 いつの間にか喉も口の中もカラカラに渇いていて花村は歌うのをやめた。干上がった大地で萎れかけた植物のように水分を求めて自販機の前へと移動する。小銭なんて持っていない。適当なボタンを幾度か押してみる。自販機はただ皓々とあかるいだけ。ディスプレイ室のアクリル板を拳でやる気なく叩けば同じくやる気のない反発とボコボコと鈍く間抜けに鳴るだけ。
「ぬるい」
 唐突そして不審な低いひとこととともに隣に八高の黒い学ランが並んだ。ぬるいなんて表示は自販機にはない。咄嗟にそんなことを思いながら花村は隣を見る。
 同じクラスの転校生が立っていた。花村よりすこし背が高い。花村よりすこし肩幅が広い。花村より前髪が長い。花村と同じ金色の
「こうするんだ」
 言うなり転校生は自販機の横腹に強烈なミドルを叩き込んだ。凄まじい音を立てて機体が大きく揺れ、取り出し口に呆気なく飲料缶が落ちてきた。なんの罪悪感も、そもそもなんの感情もない能面じみた顔で転校生は取り出し口に手を突っ込み、不正に取得した飲料缶を無造作に花村に放って寄越した。
 受け取る体勢を整える余裕も生来の反射神経を働かせる隙もなく缶は花村の胸に当たって地面に落ちた。転校生が表情のないまま口内で小さく舌打ちをして路上を転がっていこうとした缶を拾い上げる。
「食い物は大事に扱え」
 まともではない行動を取っておきながらまともなことを言う。つまりいかれている。自販機の側面のわずかなへこみが思いのほか花村の気分を害した。
「蹴ってんじゃねえよ。先輩んちの、」
 転校生を睨みつけ、しかし最後まで言えずに花村は威嚇を飲み込む。転校生の直線的な長い前髪はその目つきをひどく悪辣に見せる。金色の瞳が底意地悪く笑った気がした。
「てめえ、月森」
 短く呼ぶあいだに上下の歯が何度かぶつかって鳴った。怒りと、弱みを見せてしまったような羞恥に頭の芯が焼けるに任せ花村は缶を持つ転校生の手を蹴り上げた。転校生の腕が若干おかしな方向に捩れて跳ね上がり、缶が宙に弧を描く。転校生の顔が歪んでようやく表情を刷く。その苦痛を花村は笑う。
 しかし宙に吊り上げられた体で一瞬硬直した転校生の腕は突如糸が切れたように身体の脇に落ちるや即座に肘を引き絞り殺気を抑えもしない右フックが花村の顔面を襲った。飛び退る間もなく危うく上体を反らした花村の鼻先を風圧とともに拳が掠め、同時に転校生の肩でごきりと嫌な音がした。クソいかれてる。
「肉切らして骨まで断たれてんじゃん月森孝介!」
「ちがう」
 転校生の顔にはふたたび表情がなかった。瞳に見え隠れた(花村には絶対的にそう見えた)感情も失せていた。否定する低音が赤と黒を映すアスファルトを這い、金の目が暗々と花村を見ている。ゴ、と地面に缶が落下した音がいま頃した。本当はもっと前にしていたはずだ、転校生のカウンターへの対処に全容量を割いていた脳がいまようやく正しく聞いただけ。
 ぶらりと垂れた転校生の右腕に花村はぞっとした。見上げた自業自得だと笑ってやろうと思っていたのに。
「お前月森孝介だろ」
 俺を叩きのめして花村陽介に勇気を与えた正義のヒーロー(笑っちまう!)。
「あいつの影だろ?」
 転校生は今度は否定を口にしなかった。無言のまま全身で否定していた。まるでパズルのラストピースが正しい位置に収まったかのようにコニシ酒店の出入り口を真後ろに背負って転校生は立っていて、禍々しい赤と黒は彼から生じているようだ。月森と同じ姿形をして金色の目をしてあいつの影ではないだなんて、それならいったい誰を名乗るつもりだ。陽が陰を拒むのではなく陰が陽を否定して、いったい何になるつもりだ。
 小西早紀の世界に拒絶されるよりはっきりと悲しい気がして花村は唇を噛む。うらやましい、気がして、無理やり嘲って笑う。
「じゃあお前名前なんつーの」
「ない」
「なら“転校生”な。はは、イジメくせー!」
「必要ない。誰も呼ばない」
「俺が呼んでやるよ転校生くん」
 転校生はまた能面のまま舌打ちだけをした。気に食わないならそれなりの顔をしやがれと花村のほうがよほど舌打ちしたい気分だった。苛立ちを笑い声に変える。転校生が左手で自分のはずれた右肩をつかみうっすら眉を顰めただけで嵌めた。痛みに疎い生き物なんてろくな死に方はしない。肉ごと骨まで砕き潰してちぎり取ってやればよかった。
 コニシ酒店の前から離れふらりと歩き出した転校生を、花村はその場で首だけを巡らせて追う。転校生は酒屋の向かい側の道の端まで歩くとそこに転がり着いていた缶をまた拾い上げ、花村を振り向いた。
「ここで何してるんだ」
 いまさらの問い、そして返す答えを持たない皮肉に花村は目を細める。
「お前こそ何してんの。つーかなんでいんの、いつからいんの?」
 あの日対峙した正義のヒーローは身の内に影を飼っているようにはとても見えなかった。
「わからない」
 不安も惑いも関心すらない顔と声で転校生は答えた。陰った金色は花村を透かして何か別のものを見ているように思えた。
「花村のところに帰らないのか」
「知るかよ」
 関係ねーだろと花村は露骨に牙を剥く。転校生の口から出た自分ではない「花村」の名がひどく癇に障った。
「帰り方がわからないなら」
 空いている左手を持ち上げ、もう飛べない翼を震えて広げるように(そう見えた理由が花村にはまったくわからない)、腕を伸ばし、転校生はまっすぐに南を指差した。
 見えるのは蛇行しながらだらしなくのびる人のいない道。両脇に影絵のように立ち並ぶ朽ちた商店。とろりとろりと蠢く常軌を逸した空の緋、漆黒。
「この道をまっすぐ戻って商店街の外に出ればいい」
 不気味で不毛な異界の先に導く転校生の指。
「居場所のあるやつはそれで帰れる」
「お前は?」
 不覚にも花村は訊いていた。転校生が静かに腕を下ろして目を伏せた。
「お前は居場所あんのかよ」
「ない」
 あまりにもあっさりと転校生は言った。言いながら、手にした缶のプルトップをあけるか否か迷うような仕草を見せた。缶の中身は炭酸飲料である。二度も地面に激突したものをあければ惨劇は免れないだろう。自分の在り処よりそんなことが心配なのか。本当に頭がおかしいのじゃないか。足元の崩れ切った状態でなぜそんなに落ち着いていられるのかと考えれば身震いがする、自分の存在を自ら否定するような目をしやがって反吐が出る!
「早く帰ったほうがいい」
 花村の気持ちを知ってから知らずか転校生は変わらぬ無表情、暗い金の目で花村を見る。人間の目がそうであるように感情が昂ればシャドウの瞳もひかる。怒りを覚えれば焼けつくように、喜びを感じれば生き生きと。あの日コニシ酒店で「花村陽介」も、ぎらつく花村の金の瞳に心底怯えていた。
「お前はどうすんだよ」
「わからない」
 転校生は結局プルトップを引いてしまった。プシ、と聞き慣れた音が普段の数倍の大きさでして透明の液体が勢いよく飛び散った。ぽたぽたと水滴の垂れる両手と缶を持て余すように見つめる転校生に花村は一歩近づく。
「なあ、いっしょに」
 言いかけたとき、転校生の手が缶を取り落とした。花村の視線は反射的に缶を追ってわずかばかり下がる。視界の中心からはずれる瞬間、転校生の瞳があざやかなあかるい金にかがやいたように見えた。
 缶が底から地面にぶつかり斜めに跳ねて倒れて中身がこぼれ出す。花村は視線を上げた。一秒も経っていなかった。転校生の姿は消えていた。視界に入っていたはずなのにわからなかった、消えた瞬間を、見ていない。
 慌てて周囲を見回したが誰もいない。ずっと花村しかいなかったように、誰もいない。耳の中に音楽があふれてヘッドホンをつけていたことを思い出す。転校生が現れた瞬間から、彼の姿を見、声を聞くことのみに執着していたと自覚した。
 花村はヘッドホンをはずして首にかける。漏れ出す激しい音楽以外にやはり音はしない。大声で転校生を呼んでみようかとも思ったが口が動かなかった。転校生が、自分が月森孝介であることを否定したから、なんと呼べばいいのか花村にはわからなかった。転校生と怒鳴ってやりたい衝動に駆られたが返ってくる沈黙に自分が泣く予感が、情けないことに心底して、やめた。
 コニシ酒店の自販機のあかりが目の端で滲む。道端に転がった空き缶はあちこちがへこんでいる。食い物は大事にしろと言った転校生自身の手で無駄にされた中身は彼の制服の袖とアスファルトが残らず吸ってしまった。花村の喉は渇いたまま。
 かがやいた金が何を思っていたのか知りたい。
 ふたたびヘッドホンで耳を塞ぎ、愛用のこの機械は自身の弱さの証明である以外の役割がもはや何ひとつなかった、花村はコニシ酒店に背を向ける。転校生の示した南へと踏み出した足が、簡単に二歩目を躊躇って、くそ、と吐き出した呟きも深く深く霧の中。

 

 

gold cry

 

 

あいつを呼ぶための名前が知りたい。

 

 

 2009.12.26
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