懸命に瞳を閉ざす。思考を閉ざす。けれど努力は報われずやんわりとひんやりと眠りの国から閉め出され、おぼろな意識の浮沈を落ち着きなくくり返すうち朝方になってしまった。
 午前五時。これ以上未練たらしく布団にすがりついていてももう絶対に眠ることはできないと予感、ではなく不本意だが確信が生まれる。ついでに腹が減った。
 のそりと布団から這い出し、白み始めた空をカーテンの隙間から一瞥して薄暗い部屋を出る。階段の古く軋む音が深夜以上に鮮明に響く気がして、殊更足音を忍ばせる。世界の(冴えない田舎町に押し込められた花の男子高校生のこの狭い世界の!)大半が眠りを貪っているときに自分は形だけ布団をかぶり眉間にしわを寄せてひたすら寝返りを打っていただなんて、ひどい不公平のような気がした。
 人間は睡眠を取ることでしか疲労の回復をはかれないのだそうだ。雨が降るといそいそと大挙して現れる鎧武者に吹っ飛ばされてはずれた肩はクマの愛情あふれるディアラハンで即きれいに嵌まったが(どうせなら天城にお願いしたかったなんて別に思っていませんよ?)、蓄積した疲労までは癒やされていないように思う。だから睡眠が。疲れきった哀れなこの身には睡眠が必要なのに。返せ!(どこに訴え出ればいいのでしょうか!)
 苛立ちを押し殺しながら台所に下りて戸棚を物色し、赤いきつねを発見したところで、ようやくちゃんと頭が働き始めた。今日は日曜だ。当然学校は休みだし探索の予定もないから超フリー。つまり、不毛に完徹してしまったツケが回って日中睡魔に襲われても、いつでも堂々と昼寝ができる。無問題。
 途端に心が軽くなり機嫌も回復し、赤いきつねを戸棚に戻して冷蔵庫へ向かう。野菜室には、そろそろ使ってしまいたいキャベツがごろりと丸ひと玉。先日のジュネス野菜特売デーの目玉商品だったので迷わず購入したら、菜々子も遼太郎も同じことを実行していて、一時は野菜室がキャベツでみっちりになってしまった。買い物には打ち合わせが必要だと三人で反省した、特に特売日は(でもせめて夜遅くに店を訪れた遼太郎に、夕方甥っ子が(そしてその三十分後に娘が)同じものを買っていったと花村が教えてやってくれればよかったのに)(逆恨み)。
 菜々子と遼太郎の朝食用にもなるだろうと、そのキャベツとツナで簡単な(しかし旨い!)(ツナ缶は主婦の味方!)スープ蒸しをつくってトーストと一緒に腹に入れ、天気予報を見て、それから玄関へ向かった。
 玄関の引き戸もまた階段と同じで、夜中よりも大きな音を立てた。夜更けよりも夜明けのほうが世界は静かなのだとはじめて気づく。
 空に日のひかりはまだないが、青暗く沈んでいた外はもうすっかり視界が利くほど明るくなっている。薄手の長袖Tシャツを着ただけの腕を無意識にさする。日中はまだ十分残暑が幅を利かせているが、朝方は思いのほか冷えるようだ。こんな時間に外に出ることなどないから知らなかった。というかなぜいま家を出たのか考えてみればよくわからない。
 かろうじて洗顔は済ませたものの歯を磨いていないし携帯も財布もないし、鍵だって持っていないから玄関の戸を施錠することもできない。とても出かける態勢にないと思いつつもふらりと塀の外へ歩み出す。するとすぐ足元で、馴染みの野良がにあと鳴いた。
 はなこ、と呼んでいる。見上げた美人顔なので絶対の自信を持ってメスだと判断したのだが、命名して三日後、立派なオスであると気づいてしまった。若干がっかりしながらも試しにたろうと呼んでみたら、すごく馴染まなかった上にはなこ自身がおそろしい形相で牙を剥いて断固反対した(ような気がした)ので、よしよしお前ははなこだ、と改名案は即白紙。
 以前花村が遊びにきたときにはなこを紹介したら、とてもわかりやすくむっとされた。お前の名前から取ったんじゃないとちゃんと説明したが(日本人なら男はたろう、女ははなこはデフォルトだろう?)信用してもらえたかどうかはわからない。否、きっといまだに疑われている。
 はなこは足のあいだをぐるぐると八の字に回っては、時折頭をもたげてにあんと鳴く。その様子を微笑ましく眺めてから抱き上げ、塀に背をついて道端に座り込んだ。体育座りの両脚と腹のあいだにはなこを抱えて、喉といわず頭といわずぐりぐり撫で回していたら、最初はおとなしかったが、そのうちふうーんふうーんと普段聞かないトーンの声を上げ始めた。なんの意思表示かと顔を覗き込もうとしてすこし手をゆるめた途端、全体重かけて腹を踏みつけて逃げ出していった。どうやら嫌がられてしまった。地味にへこむ。
 あたりはどんどん明るくなるが、日曜だからなのか、堂島家はもちろん周囲の家からもまだ人の起き出す気配は感じられず、なんだか急に寂しいような気分になる。みんな眠っているのに自分だけ起きているからって寂しいなんて、置いていかれたような気分になるなんて、ひどくナーバスになっていやしないか。
 誰か一緒にいてと思うが、(花村、)誰にも会いたくないとも思う。誰かと話したいと思うが、(はなむら、)何も言いたくないとも思う。どうしようもない矛盾。
「イザナギ」
 いまはもう力を借りることもなくなった、いちばん最初に出会ったもうひとりの自分の名を呼んでみる。やはりあちらの世界ではないからか、何も応えるものはないし、自分の内側にもかすかな細波すら起こらない。そもそも、あちら側でも、ペルソナと口をきいたことはない。“彼”は最初からおのれの剣であり盾であり力であったから、影ではなかったから、言葉を交わす必要がなかった。
 もうひとりの自分と向き合い、おそれたり惑ったりしながらも言葉と意思を交わし合ったみんなが羨ましいと言ったら、仲間たちは呆れるだろうか。あんな目に遭わずに済んだお前が羨ましいと、逆に言われるだろうか。
 あの世界で戦っているとき、力を振るっているとき、皆と違ってあからさまに変幻可能な自分の能力を実感すればするほど、わからなくなる。自分の呼び出しに応じ、行く手をふさぐ異形をためらいなく屠る彼らがなんなのか、彼らをもうひとりのおのれとする「自分」が何者なのか、わからなくなる。きっと仲間たちにくらべて、自分には圧倒的に自覚と納得が足りないのだ。
 ペルソナを、もうひとりの自分だと思えない。
 そのせいだろうか、学校だろうとテレビの中だろうと突然悪い発作のように言いようのない寂寥感に囚われて心が竦むのは。けれどそんなときでさえ眉ひとつ動かさずに教師の設問に正解できるし、部活で決勝点を決められるし、友人とくだらない会話を続けられる。戦いの最中であればペルソナを喚ぶ声は淀みなく、振り下ろす剣が止まることもない。
 その無節操さがおそろしい。裏表どころではない、ミラーハウスに閉じ込められたように永遠にひとりにはなりえない自分が存在する気がする、そういう内面を人に、仲間たちに知られたらと思うとおそろしい。
「イザナギ」
 返事など微塵も期待せずに呼んで、抱えた膝に額を押しつけ、目を閉じる。灰色の闇だ。ひどくさみしい。
 ガラガラガラとどこかすぐ近くの家で雨戸のあく音がして、驚いて顔を上げる。肋骨がへし折れるのじゃないかと思うほど心臓が跳ねて、自分のびびりようが笑えた。
 雲と溶け合うほどに薄い水色をしていた空は、もうずいぶんと色づいて青い。左手から自転車の音が近づいてきて視線を向けると、自分とそう年の変わらない少年が、前カゴに新聞の詰まった自転車を漕いで坂を下りてくるところだった。目が合った途端、新聞配達員の少年はうわ、と口走った。寛容さを鍛えてあるので特に不愉快とも思わない、というか早朝に新聞配達に行った家の玄関先に人が丸まっていたら誰だって驚く。むしろこわい。
 少年は若干スピードを落として堂島家の前までやってくると、ちらりとポストに視線をやってから、自転車を降りて近づいてきた。ややおそるおそるといった体で新聞を差し出されたので、どうも、と座ったままで受け取る。
「すんませんした、遅くなって」
 まだ六時になるかならないかだろうに、新聞の場合はもう遅い部類に入るのかとすこし驚くとともに、つい口に出てしまう。こう見えて細かい(そして比較的どうでもいい)ことが気になるタチだ。
「いつもは何時頃にきてるんですか」
 意外かつ都合の悪い質問だったのだろう、少年は明らかに焦った様子で顔を強張らせ、けれど嘘のない間合いですぐに返事をした。
「えと、よ、四時ぐらいっス」
 そんなに早いのかと感心する。だとすると本日の配達時間は確かに問題なのだろうが、咎めるつもりもその立場にもない。同年代の連中がほぼ例外なくベッドまたは布団でぬくぬくしているこんな時間から仕事をしているなんて尊敬するのが当然で、遅刻を指摘するような何様がいたら殴る、全力で。
 だが少年を前に座ったままの自分も十分失礼だと気づいて慌てて立ち上がり、ありがとうございます、お疲れさまですと深々頭を下げた。少年は目を丸くして何度かまばたいてから、同じく慌てたように慣れない様子で会釈を返し、ふたたび自転車にまたがる。が、すぐには走り出そうとせず、数秒の沈黙を挟んだあと、ためらいがちに声をかけてきた。
「あの、花村くんとよく一緒にいる人っスよね」
 予想外の言葉に驚いてまじまじ見返すと、少年は緊張の色の濃かった表情を崩して、屈託なく笑った。
「ガッコでときどき見かけるんで。オレジュネスでもバイトしてて、花村くんにはお世話んなってます」
 少年の笑顔から花村への他意のない敬意が伝わってきて、嬉しくなった。あの三年女子みたいな連中ばかりでなくこういう実直な後輩もいるのなら、花村の精神的負担もすこしは和らぐかもしれない。
「家ここだったんスね、えと、堂じ」
「月森です。堂島は叔父、わけあって居候中」
「月森くん、スか」
 雑な自己紹介に、少年は不可解そうな表情を素直に表したが、事情を知りたがる素振りはなかった。
「そんじゃ、また!」
 がつりとペダルを踏み込むと、少年は風のように去っていった。見る見る遠ざかる背が角を曲がる寸前急に振り返り、オレ一年の――、と大声で自分の名を告げたようだったが、すでに遠すぎて肝心の部分は聞き取れなかった。
 いい子だわー、とつい近所のおばちゃんみたいに片頬に手を当ててしみじみ思う。同時に、おかしなところを見られたと少々気恥しくなった。花村に伝わらなければいいが。
 もし知れたら知れたで、早起きをして家族分の朝食をつくってさらに時間が余ったから新聞を待っていたという“できた甥(兄)”物語を仕立て上げることにしよう、と決めた。良くも悪くも花村には偉人超人と信じられている節があるから、きっと納得するに違いない。
 なんでもいいから花村と話がしたいなあと思った。
 寂しいときにはやっぱり家族と、仲間たちと、花村と、一緒にいたいと思った。
 にあ、と声がしてそっちを見ると、駐車場の前にはなこが戻ってきていた。冷蔵庫のカニかまの存在を思い出しながら、待ってろと片手で小さくジェスチャーをすると、にゃーんと答えた。
 新聞を大事に抱えて玄関口へ引き返し、引き戸に手をかけたとき、よく知った感覚が指の芯を通り抜けた気がした。そして、ぼう、と背中があたたまる。
 日が差したのかと振り返るが、空は明るくはなれどまだ冷えていて、日差しの気配はない。ふたたび引き戸にかけた自分の右手を見て、不意に、理解した。
 カードを握り砕く、彼らを喚ぶ手。外からではなく、内側からのひかりだった。
「イザナギ?」
 我は汝、と、背中を押してくれた。

 

 

 2009.6.26
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