朝イチ、花村からの電話で起こされた。じきに八月も終わる。
「おはよう花むー、フードコートのバイトはもうやらん」
『花むーって言うな! 今日はバイトの話じゃなくてだな』
「屋内でクーラーと時給一・五倍の保証付きなら考えてもいい」
『アナタほんと根に持ちますよね。こないだは悪かったっつってんじゃん。つーかあのさ』
「でも精肉部門はいやだ。知ってるか稲羽の牛肉はうしじゃなくてぎゅうの肉なんだぞ」
『もしもーし! 起きてくださーい! そんだけはっきりしゃべっといてどんな寝言ー。だからバイトの話じゃなくてしゅくだ』
 そこでいったん記憶は途切れた。ふたたびつながったのは、やはりまた携帯電話が騒ぎ立てたからだった。
『いきなり切るな! つーかマジ起きて! 聞いて!』
 結構本気で切実っぽい花村の訴えから察するに、記憶の寸断から再接続までの間おそらく十秒未満。どうやらこっちから一方的に電話を切ったらしい、ぜんぜん覚えていない。
 寝起きだろうと寝落ち寸前だろうと必要に迫られれば無駄に颯爽と行動できるのが自慢だ、たとえ九分九厘寝ぼけていて自覚がなくとも。このあいだ朝起きたら、「お兄ちゃん昨日あんなにつかれて帰ってきたのに、おべんとうつくって、お父さんのやしょくまでして、すごかったね!」と菜々子が拍手でおはようしてくれた。もちろんまったく記憶にございません。
 花村の用件は友情を盾に取った過酷な炎天下バイトへの道連れではなく、夏休みの宿題の共同戦線を張ろう、俺は後方支援に回るからお前は最前線に立ってくれ、ていうか写させてください隊長! という八月末恒例イベントへのお誘いだった。今年ももうそんな時期なのだなと、横目にぼんやりカレンダーを眺める。
 小学生のときは一緒に宿題(というのは体裁で一方的に手助け)をしに友人宅へ行くたびに友人の母親がアイスやらカキ氷やらを出してくれて、中学時代も漏れなくデザートつきの昼食が振る舞われ、高校生になってからは昼メシおごり三日分や掃除or日直交代一週間あたりが相場だった。
 花村は何してくれんのかなあジュネスじゃなくて沖奈で寿司食わせてほしい、と大間の本マグロあたりに堂々と思いを馳せながらのそのそ布団をたたみ、菜々子と一緒に目玉焼きとハムマヨチーズトーストを食べてから出かける支度をした。
 問題集やプリント類を鞄に詰め終えたまさにそのとき、ものすごく大事なことを失念していたと急に気がついた。うわあやべえ、と思わず声が出てしまうぐらいの最重要事項だ。いまのいままで本気で忘れていたので当然さっきの電話で花村にも伝え損ねているわけだが、いまさら訂正したところで何が変わるわけでもないので、そのまま予定通り家を出た。花村の落胆が目に見えるようだ。

 

 

「俺も宿題ぜんぜん終わってないんだった」
 花村家に着いて部屋に通されるなり開口一番で告白すると、花村は予想を裏切らず豪快に落胆した。床に両手両膝をついて深く項垂れ、ふるふると肩を震わせるさまはもはや絶望の域だった。なんておおげさな。
「おまっ、写させてくれるって言ったじゃん!」
「やってないものは写させようがない」
「やってないならないって言えよ!」
「やるのを忘れてたのを忘れてた」
「ごまかすな!」
 ごまかしてない。すこしムッとしたが、一応微妙に良心が痛んだので(なぜなら花村がガチで涙目っぽいからです)反論は口に出さずにおいた。
 十七年間生きてきて、夏休みのこの時期に宿題が終わっていなかったことなど一度たりともない。終わっていないどころか手つかずだなんてまさに未知の領域だ、宿題の存在自体忘れていたってしょうがないじゃないか。と、心中でなんとなく愚痴ってみたものの、やや無理のある理屈だと我ながら思わないでもない。
 花村とは休みに入ってからもほぼ毎日顔を合わせていて、遊んだり聞き込みをしたりテレビに入ったりジュネスに駆り出されたり超合金ロボとか戦車とか相手にリアルに瀕死ったり常時一蓮托生、宿題をやる暇と気力体力がないのはお互いさまだ。
「冷静に考えればわかりそうなもんじゃないか」
「それでもお前ならやってると思ったから頼ったんだろお!」
 床に這いつくばったまま花村が恨みがましげに見上げてくる。表情と言葉の根底にあるものが微妙に裏腹だ。自覚があるのかどうなのか、花村はさらりと恥ずかしげもなく人を褒める。その対象が最近ずいぶんとこちらに向いている、むしろ激しく偏りがちなのがくすぐったい。ときに赤面するほど気恥ずかしいが、こっちがそんな気分でいるなど花村、ひいては仲間たちの誰ひとりとして想像だにしていないだろう。何しろ生まれついてのポーカーフェイス、もちろん自分で自分の顔は見られないから自ら真偽のほどを確かめたことはないが、幼い頃から人に言われ続けてきたのでいまさら疑問も反論も不快感もない。
 いつまでも立ち直らない花村を引きずり起こして折りたたみテーブルを出させ、向かい合って座り、鞄から次々と宿題を取り出しては卓上に積み重ねてゆく。問題集、問題集その二、教師自作のワークプリント、こら花村早々と目を逸らすな、英語で夏休みの思い出作文、休み明けテスト対策用単語集、読書感想文、文化施設を訪れてレポートを書きなさいエトセトラ。
「うっげ、なんだこれ忘れてた! 文化施設って何、博物館とかか? どこにあんだよそんなの、いまさら一日潰して遠出する余裕なんかねえっつの」
「行ったじゃないか文化施設」
「え、どこ」
「中世の城」
「あーハイハイ、行った行った。はじめてのお城は迷っちゃうぐらい広くてェー、絨毯とかシャンデリアとか超豪華でェー、王様とか騎士様とかボコったりィー、貴重な体験がいっぱいできたのでまた行きたいでェっす! って、アホか!」
 花村チョップを白刃取りし損ねてもろに脳天に食らった。地味に痛い。ペルソナで鎧われた身体能力はテレビの外においても多少の効果を発揮するものなのか、花村の動作は時折無闇に電光石火で、探索時レベルに神経を尖らせていないと動きのスタートを見落とすことがある。ので、日常生活中、花村からの攻撃を不本意ながらよく食らう。
 同じく里中の動きも速いが、彼女は花村と違って動作の前振りは容易く読めるものの、アクションスタート後の加速度が尋常でない。よって予測は立っても反応が追いつけないのでよけられない。
 このあいだ後ろ回し蹴りをかわし損ねてもろに鳩尾に入ったときは本気で泣いた。というか死んだと思った。里中を人殺しにせずに済んだ自分の頑丈さにバンザイ。里中の健康的な脚線美と突き抜けた脚力にもバンザイ。女子高生のステータスシンボル、マイクロミニスカートの下がスパッツでなければ蹴られた甲斐もまだあったのにと泣きながら思ったのは内緒だ。ちなみに壮絶な痴話喧嘩とかではなくて修行の一環ですよ、誤解なきよう。
「お前自分で言い出したんだからそれ書けよな、文化施設訪問、中世の城って。そんで山田の前にまず天城に提出な」
「そこまでの勇気はない」
「チキンめ」
「ジュネスめ」
 しかし花村の物理的突っ込みや里中の悪意なき不用意な攻撃をこれだけ日常的に食らっているのは仲間内で自分だけのような気がする。クマが花村チョップを小馬鹿にしたようにひらりひらりかわしているのを目撃したこともあるし、まさか彼らが特別速いのではなく自分が人一倍鈍いのだろうか。
 そんなリーダーの名折れもはなはだしい自問に気を取られつつ、花村と軽口をたたきながら数学の問題集に取り組んでいると、飲み物を持ってくると花村が席を立った。花村はその後も、母親出かけてっから昼メシ出前取るけど何がいい? とか、録画予約忘れてたとかなんだかんだ理由をつけては部屋と階下の居間の往復をくり返し、忙しないというか宿題をやる気がまったくない。
「花村、うざいからいい加減じっとしろ」
「うざいって言うな!」
「読書感想文がいやならこっちと交換してもいいけど」
「数学とか無理。でも感想文二人分も正直きちーな、俺本読むのすごい遅いし」
「読んだつもりで書けばいいんだ」
「んな器用なまねできるか! つーかそれ以前にお前の持ってきたこれ何、漢シリーズって何!」
 花村の真っ当な突っ込みについ目を逸らす。中身を確認もせずに四目内堂の紙袋ごと鞄にぶっ込んできたのは確かに失敗だった、弱虫先生のつもりがあけてびっくり『我は漢、そして神』。新刊なんだぞと小声で言ったら、お前の読書センスを疑う、と返された。理不尽だ。
 花村が漫画とエロ本しか持ってないのが悪い、おすすめの小説持ってくからまかせろっつったのお前だろ、高二にもなって部屋に小説の一冊もないとか恥ずかしくて女の子呼べないぞ、余計な世話だ、そうか呼ぶ予定ないもんな、決めつけんな! と不毛な言い合いに貴重な時間を費やすうちに出前が到着し、揃って冷やし中華をすすりながら(醤油ダレを頼んだ花村が人のゴマダレを見るなりそっちがいいとか言い出して若干もめたが)ようやく休戦した(結局半分ずつ食べました)。宿題はまったく進まない。
「わかった、感想文はあとで俺がやるから細井ちゃんのプリントやって」
「あー、細井ちゃんの手書きの字ってすんげえ読みにくくね?」
「じゃあ何を担当してくれるんだお前は」
「毎日の天気ならまかして。超ばっちりメモってっから」
「それが役に立つのは中学までだ」
 だよなー、とヘラヘラしながら花村は携帯をいじり始めた。現時点でこっちが宿題を終えているいないにかかわらず、最終的にやはり写すことしか考えていない。殴ろう、いや金を取ろう法外に、と家庭教師のアルバイト代をも軽く凌駕する報酬額を内心で設定していると、
「ほら、どーよ。見て見て」
 花村が携帯のディスプレイを目の前に突きつけてきた。ひらかれたスケジュール帳には遊びやバイトの予定のほかに、逐一変化を追って細かく日々の天気が記されている。例えば、8月13日(土)、朝晴れ、昼くもり、17時すぎ雨、19時前あがる、夜くもり。
 執拗とさえ取れる花村らしからぬその几帳面さの裏に、使命感と覚悟と、そして拭い去れぬ怯えを見たと思った。
「こんっなに天気に神経使って生きてんのはじめてよ俺」
 携帯を閉じながら、花村は普段と同じに明るく笑う。俺だってそうだと答えると、笑顔の中に微かに安堵の色が混じったように見えた。
 トイレ、と言って花村は結局また落ち着きなく部屋を出て行った。絶対ただでは写させてやらん、と密かに報酬額を吊り上げつつふたたび数学の難問と戦っていると、急に手元が暗くなった。窓の外を仰ぐと、清流に墨汁を垂らしたように、東の空から急激に暗雲が流れ広がってくるのが見えた。
 まだ午後二時を回ったばかりだというのに照明をつけていない室内は夕方どころか夜に等しい薄闇に覆われ、夕立、と思う間もなく黒い雲間に白光が閃く。遅れて聞こえた緩慢な重低音に誘われて窓に近づくと、また空がひかった。
 長く重たい二度目の雷鳴のあと、一気に雨がきた。バケツの水をひっくり返したとはこういうのを言うんだろう、数秒と経たず視界は灰色に煙って隣家のシルエットさえ霞み、大粒の雨滴が周囲の家の屋根を打つ音が爆竹のごとく響く。一瞬、暗雲が消し飛んだと見紛うばかりに空全体が真白く輝き、カ、キ、となんとも形容しがたい奇妙に金属的な音が鼓膜を緊張させた直後、空間ごと揺るがすような轟音。
 あまりにも見事な夕立に圧倒され、手だけでなく額と鼻の頭までガラスに押しつけて窓辺にへばりついていると、背後で部屋のドアのあく音がかろうじて耳に入った。
「うひー、すっげーないきなり。トイレ入った途端ピカーでビシャーンて、縮んで出るもんも出なくなるっつー、ぎやっ!?」
 おかしな悲鳴に振り返ると、一度は部屋に入ってきたはずの花村がなぜか廊下の壁に背をぶつけるまで後ずさり、青く引きつった顔をこっちに向けている。
「こわ!」
「雷苦手か?」
「お前がだよ! 電気ぐらいつけろよこえーよ!」
 花村のびびりように若干呆れたけれど、雷鳴轟く暗い室内で最初に目に飛び込んできたのが、窓ガラスに張りついて稲妻にうっとりしている男子高校生、と想像してみたら確かにこわかった。こわいというか、いやだ。
「暗い中でこそ楽しめるんだぞ雷は」
「夕立ぐらいで地味に無表情にテンション上げないでくれ」
「ジオ好きの血が騒ぐんだ」
「テレビの中だけにしてください」
「ヨースケ、つめたい」
「クマのマネすんな似ててムカつくわ!」
 けれど花村も、言葉に反して部屋の明かりをつけようとはしない。薄暗いままの室内を窓からの雷光が白々と照らし、床に壁に漆黒の影が焼きついて、一瞬世界がモノクロームになる。色だけでなく温度まで奪われてゆく錯覚がする。雷鳴が地鳴りのように足元から内臓を揺らす。
 花村は叱られたこどもみたいに肩をそびやかすと、妙におぼつかない足取りで窓に近づいてきた。
「うわ、外なんも見えねーじゃん。こんなすげーの、この夏はじめてじゃね?」
「記憶にある限りではじめてかもしれない」
「あー言えてんな」
 隣に立つ花村の声さえ切れ切れになるほどの雨音が部屋には満ちていて、しかしそのあまりのうるささに頭の芯がぼうと痺れ、却って奇妙な静けさを感じてもいた。騒音に浸されてふやけた鼓膜が、音を音と認識しなくなっている。惑わされている。
 そうだ宿題がやばいんだったと我に返ったとき、窓ガラスに押しつけられた花村の手がひどく強張っているのに気づいた。ひらいた五指の先が力むあまりに血の気を欠いて小刻みに震え、稲光に白く照らされる横顔は余裕なく窓の外を睨んでいる。
「夕立だからすぐにやむ」
 言ってやると、花村はハッとしたように大きくまばたきし、こっちを見た。
「霧は出ないし、今夜はマヨナカテレビも映らない」
「わかってる」
 つらそうに眉を寄せ、窓ガラスに押しつけた手できつく拳を握り、花村は唇を震わせた。理解と安堵はまったくイコールにならないと、揺らぐ焦げ茶の瞳が訴える。花村の表情を徐々に歪ませていく感情がなんであるのかわからなかった。怯え、悲しみ、張り裂けるような後悔、そのどれもが当て嵌まり、また当て嵌まらない気がして、花村の本心をつかみ取りたくて懸命に視線を合わせたけれど、容赦なく視界を眩ませる稲妻が邪魔をした。
「もしお前が」
 雷鳴と雨音の奥で花村の声がする。つかみ取りたいのに間に合わない。
「お前がもうすこし早くここにきてたら、あとすこし早くマヨナカテレビのこと知ってたら、小西先輩は死なずにすんだのかな」
 間に合わなかった。
「悪い。聞き流してくれ」
 花村は力なく笑った。笑いたくもないのに笑うから、泣きたいのを我慢するこどもみたいにくしゃくしゃの顔になった。
「俺がもっと早くって、そう言えない自分が情けねえよ」
 窓ガラスの上で、花村の拳がゆっくりとゆるんだ。ガラスの外側をとめどなく流れ落ちてゆく雨滴のように、無抵抗に簡単に、表面を滑って落下する。その手が完全に力を失う前に、ガラスに押しつけるようにして強くつかみ止めた。
 驚いた顔をする花村が、すこし癪にさわった。
「過去は無理だ。だけどこの先は絶対に全部、花村、お前の望むようにしてやる」
 対女の子用だったはずの決め台詞を、花村なんかに本気で使ってしまった。なんて残念な条件反射なんだと自分にがっかりしたが、花村の手が力も意志も失ってだらりと身体の横に垂れ下がる、それを見たくなかった。どうしようもない無力やあきらめなんかに、花村を持っていかれてたまるかと思った。
 花村は戸惑ったように何度かまばたきし、眉を下げたりひそめたりしたあと、つかまれた拳をひらいて手を握り返してきた。ああ、約束の握手みたいだ。
「俺のために宿題と戦ってくれるか、相棒?」
「そちら別料金になります」
「どういうシステムー!」
 握り合っていた手を二人同時に振り払う。電気をつけた明るい室内で、花村が楽しげに笑った。稲妻の鋭さがやわらぎ、雨音がすこし、遠くなる。

 

 

 2008.10.4
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