スターベガの悲劇
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いってきやーす、と間延びしたあくび混じりの声を投げて玄関を出、見上げた空は、伸しかかるような曇天だった。まだ梅雨があけていないせいもあり、肌にまとわりつく湿気は天気が確実に下り坂であると教えている。だが、先日無事に久慈川りせを救出できたことで、雨に対する警戒心と憂鬱感はいまは幾分か和らいでいた。
年に一度のデートの日なのに、と花村は眩しいはずのない灰色の低い空に目を細め、ため息する。もちろん自分のではなく織り姫と彦星の、だ。言いたくはないが自分にはそもそも相手がいない。好きな子もい、いない(いや、いません本当に)。遠いお空の彼方の伝説カップルの心配なんてしてる場合じゃございません。
テレビ関連の憂慮が一段落した途端に余計な、とりわけそういう方面の瑣事ばかりでいっぱいになってしまう自分の脳みそは実に素直で健全だ、と花村は若干遠い目をして苦笑う。なんて正しい男子高校生!
そんなことを考えながら黙々と通学路を歩いていると、あまり正しくない(と花村は思う)男子高校生、月森の声が後ろからした。名前を呼ばれて振り返ると、月森が軽く片手を上げながら小走りで追いついてきた。めずらしい、いつもはひたすら泰然と歩むのみなのに。
横に並んだ月森と朝の挨拶を交わしながら、花村はじいとその顔を見る。いつも通りの無表情だが、目尻と口角が微妙にゆるんでいるように見える。テレビの外では普段明らかに出し惜しみをしている軽やかなフットワークの片鱗の表出といい、空模様とは反対に月森の機嫌は上々のようだ。
なんかいいことあったのと花村が尋ねると、月森は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにデレ、と頬をゆるませた。
「菜々子が、」
出たシスコン、と花村は月森のふんわり感一・五倍(当社比)の声を遮って叫びたくなった。が、どういう感情を最優先にそれを叫ぶのが正解なのかまるでわからなかったし(笑うべきなのか呆れるべきなのか!)、口にした途端に百パー殺る気の右が飛んでくる予感がありありとしたので、おとなしく黙っておいた。
「短冊にものすごくかわいいことを書いてた」
「ああ、お前んち笹飾ってたもんな。菜々子ちゃんなんて?」
「もったいないから教えない」
月森の表情はポーカーフェイスの二つ名に恥じずろくに動かなかったが、目だけはしあわせに満ちあふれて、それこそ天の川みたいにキラキラしている。こいつをクールな硬派と信じきってる方々(主にクラスの女子とか一年の女子とかバイト先のお姉さんとか奥さんとか)に見せてやりたい。イメージ崩壊かと思いきや、ギャップ萌えーとかでますます人気に拍車がかかるだけなのだろう、女心は謎だ。すかさずそんな考えに至る自分の心境もまったく謎だ。
鼻で笑いたい気分と苛立ちとが同時に腹の底でぶくぶくと沸騰を始め、花村は落ち着きを取り戻そうと月森から意識を逸らす。
ジュネスでもこの時期はフードコートに大きな笹を飾り付け、傍らには色とりどりの短冊と筆記具を用意して、誰でも自由に願い事を書いて吊るせるようにしてある。こどもだけでなく大人も結構参加していたりするので、微笑ましかったり壮大だったりの将来の夢から現実見すぎの切実な願望まで大小さまざまな願い事が枝を賑わせているが、『次のライブでトリとれますように!』という短冊がひと際花村の目を引いた。稲羽でもアマチュアライブの開催があるのかと驚いた。しかも短冊の内容からして、すくなくともふた組以上のバンドが存在しているようだ。いつどこでライブが行われるのだろうと実は密かに興味を持っている。沖奈になら小さなハコがあると聞いたことがあるけれど。
月森とはそのあと、りせの体調はどうだろうかとか、このあいだ時価ネットで女子用の防具を通販してみたらほぼ下着が届いてびびったとか、「どうやって渡せばいいかすごく悩んでるんだ」「力になれませんすいません」、まじめな話題とくだらない会話をだらだら交わしながら一緒に登校した。
昇降口で靴を履き替えながら、菜々子ちゃん短冊になんて書いてたんだよと花村はもう一度訊いてみたけれど、従妹の名前が出ただけでデレデレと目を細めた月森にまたあっさり一蹴された。
「教えない」
大概むかついた、というかなんだかひどく消化しがたいおかしな気分になったので、花村は一限目の授業中、定規を使って丁寧に美しくノートの端を縦長に切り取り、蛍光ペンでカラフルに縁取って、それなりに見栄えがしないこともない手作り短冊を完成させた。
『つきもりくんと、ずっとなかよしでいられますように!
2ねん2くみ はなむらようすけ』
黒の油性ペンででかでかと書いて(ものすごく裏に染みた、裏どころか不用意に下に敷いていた教科書にまで染みてしまった)、無言で月森の背に押し付ける。振り返らずに手だけを背中に回して短冊を受け取った月森は、机の下でまじまじとそれを見ていたようだったが、やがてまた後ろ手に素早くメモの切れ端を花村の机に置いて寄越した。
『ありがとう。うちの笹に飾る』
マジか、と花村は盛大に顔を引きつらせた。予想外だ、こどもじみた真似を笑われて、それからたぶん怒りも買って、ちゃんと授業受けてろジュネスとでも上書きされて突き返されるものだと思っていたのに。ていうか月森、まさか気づいてないのか、裏側に小さく『シスコン!』と書き殴ってあることに。菜々子ちゃんが見たらどう説明するつもりだ、堂島さんの目にとまる可能性だってあるじゃないか!
返せという意味で月森のシャツの襟首を引っぱると、月森は肩越しにちらりと振り返った。無言の唇は笑みこそ刻まないもののやわらかく無防備で、揃った前髪の下に覗く目はピカピカと喜んでいる。
自分の“願い事”が月森をしあわせにしたのならこんなに嬉しいことはないと、花村は思わず頬を熱くして息を詰まらせた。だけど残念ながら願い事を書き直す必要に迫られている気がする、一限目が終わったあとか、それともほんの一秒後か、短冊の裏の真実に月森が気づいてしまったときにこの身に降りかかる惨劇から、どうかどうかお守りください。
2009.7.7
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