良い

 

 

 

 夏の真ん中、殺気立つような昼間の暑さを懺悔してか、夜半のひと雨が過ぎるとひどく涼しい風が吹き始めた。あけ放していた窓からの風に裸足のつま先をくすぐられ、月森はにわかに覚醒する。
「さ、散歩」
 呻くように呟いてタオルケットをはねのけ、寝返りを打って布団からカーペットへはみ出す。よし散歩に行こうチャンスはいましかないぞ明日にはまた地獄の熱帯夜、と若干テンタラフーあるいは衰弱(頭が)気味のひとりごとを、低音でしかしやたら快活に唱えて一気に立ち上がる。散歩ってなんすか、と我ながら壮絶に疑問に思ったが、正気に返る前に月森は携帯と家の鍵をつかんで部屋を出ていた。
 真夜中にひとりで散歩なんて味気ないし寂しいしここいらは都会みたいにやたらめったら街灯が立っていてくれたりなんてしないからちょっとこわい、が、こんな時間にまさか菜々子とデートというわけにはいかないし、堂島に同行を頼めるはずもない。
 仕方なく、ひとり足音を忍ばせて階段を下り、台所を抜け、なるべく音を立てないよう細心の注意を払って玄関の引き戸を開け閉てする。すこし錆の浮いた鍵穴に鍵を差し込むと、普段にも増してざらついた金属音が夜のしじまに細く響いた。
 顔なじみの野良でもいないかと、暗がりに光る目を探して駐車場の屋根を見上げたり塀の脇を覗いたりしてみたが、猫たちの気配はなかった。猫にもすがりたいほど夜中のひとり歩きなんていやだ、しかしそれでも散歩は強行すると決意してひるがえらないこの無駄な鉄の意志はなんだ。ときどきお前がわかんねえ、と花村に代表される友人たちに全員漏れなく一度は言われたことがある気がするが(花村はしょっちゅうそう口にするのでそれはもはや「ときどきわかんねえ」んじゃなくて「常時わかんねえ」なんじゃないだろうか、へこむわー)、俺だってときどき自分がわからない。
 鮫川でよく顔を合わせるおっちゃんが夜の散歩を好むと話していたのを思い出し、夜は夜でももう到底散歩を楽しむ時刻ではないが一縷の望みを抱いて向かってみることにする。川への道すがらは人っ子ひとり見かけずもちろん擦れ違うこともなく、真夏とは思えないいい風と、幹線道路から遠く稀に響いてくる車の走行音だけが月森の鼻先を通り首筋を掠めていった。
 河川敷にもやはり人影はなかった。月と星のひかりの下に無言で横たわる舗装路は粛々と他人行儀で、ひっそりと黒光りする川面と変化のない水音に厳然たる拒絶を感じた。
 真夜中にここで見られる光景はこれだけ、寂しいでも冷たいでもなくただ無機質な世界だけとわかっていたはずだ。実際目にするのははじめてでも容易に想像はついていた、この世で自分はたったひとりという色のない錯覚。
 わかっていてきたのかと月森はふと自問する。ああ、まったくその通り。
 これを見たくてきたのだと、自覚した瞬間、全身が粟立った。強く目眩がして、現実とのつながりにすがるように慌てて携帯をひらく。
 ちょっと涼しいからといって真夜中に散歩を思い立つなど我ながら奇行じみていると思っていた、しかし理路整然たる願望だったとしたらどうだ。友人に恵まれ家族に愛され絆を強めおのれを高めて正義のために力を振るう充実した輝くばかりの日常に、すこし、悪酔いしてしまった。リーダーと呼ばれ寄せられる無条件の信頼や、自分ばかりか人の命までをも託される重圧に耐え切れなくなったのではなく、ただ、ふと、立ち止まりたくなった。
 シャドウとなることなく最初から護る力として発現した国産みの神の名を持つもうひとりの自分がいまなら言うのだろうか、
『わずかな間でいい ひとりにしてくれ 俯き静かに 休ませてくれ 暗がりでただ 眠るように』
 奇妙に強く降り注ぐ月光に、周囲が目に見えて色褪せてゆく錯覚に捕らわれる。生命を薄め青白く、いや、灰色だ。いや、暗く濁った、黄、
 震える指で発作的に打ったメールの文面はそれはもう目も当てられないほどひどかった。
『風が気持ちいいので夜中の散歩と洒落込んでみましたがなぜだかもう足が動きません。どうやら俺はひとりじゃ夜道も歩けない繊細な寂しんボーイだったみたいですお迎え待ってます。あなたのリーダーより』
 菩薩級の寛容さでもって見てもこれは真っ当な日本語ではないと思ったものの、勢い余ってそのまま花村に送信してしまった。
 一秒で後悔し、月森は道路の真ん中にうずくまる。ああ、まずい。何がまずいってメールの内容云々よりもいますぐ花村からコンタクトが返ってきてしまった場合、いまのひっでえのを送るに至った状況心境を普段の口八丁でごまかすだけの余裕がまったくないことだ。
 握り締めた携帯が力強く鳴って、月森は絶望した。平然と嬉しいと感じる自分に絶望した。メールではなく電話の着信メロディは耳慣れた某大型ショッピングセンターのCMソング、イコール花村陽介。
 ぴかぴかと白く明滅する携帯の背面ディスプレイは、まるで極彩色を撒くように月森の視覚に色を差した。月のひかりは涼やかな銀、夜空はやわらかい紺と紫、アスファルトはあたたかい黒、土手を賑わせる木々はきらめくような緑。真夜中でも、何ひとつ失われたりしない。
「俺は自己中だからときどき疲れるしひとりになりたくなるけどやっぱりお前たちと一緒にいるのがいちばん楽しいよ」
 通話開始ざま月森が一息に言うと、なんの話ですかああ、とたぶん寝ているところを起こされたのとメールのわけのわからなさに半ギレ気味のわかりやすい花村の声が答えた。お前が好きだって話だと素直に白状すれば、いいからどこにいるか言え! と怒られた。俺のラブはスルーですか。
 通話の切れた携帯を閉じ、月森は頬を撫でてゆく夜風に目を細める。さっきまでのようにただ涼しいと感じるだけではない、驚くほど心地好かった。花村の声を聞く前とあととではこんなにも心持ちが変わると思えば笑いが込み上げる。さすが魔術師、きっと良い魔法を使ったに違いない。

 

 

 2008.10.4
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