為虎添翼の夢(否、)現
落乱/六ろ
夜更けに中在家が目を覚ますと、七松が虎であった。
比喩でなく、虎であった。
毎夜中在家と布団を並べる同室の七松は、一度眠ってしまえば殺気でも向けぬ限り朝日の射すまで前後不覚に寝こけるという常の通り、己が身の獣に変じたるも気付かぬのか、瑣末であると取り合わぬのか、唸り声じみた重厚な寝息を悠々と立てていた。
靄る眠気と、五体を包む疲労感がいつにない速やかさですうと一息に晴れ、中在家は冴えた目で隣の大きな獣を見据える。不思議と驚きは湧かず、事実、七松が人の皮をかぶった猛虎であって、人も虫も草木も寝静まったと見ては時折うっかり皮を脱ぐのだといまこの瞬間顕露したのだとしても、何も問題ではないように思えた。
大きな虎は前足を交差させて顎をのせ、後ろ足をたたんで布団の上に伏せている。枕が部屋の奥の文机の傍に転がり、上掛けが縁の廊下に面した障子際にぐしゃりと丸まっている。
虎の巨体はあつらえたように、前後左右ひとつでも身動げば堅い床にはみ出すと思えばあるいは窮屈と言おうか、ぴたり布団の上に収まっていたが、太い尾だけは床板に長く伸びていた。
体色は輝く黄金色、ではなく、入り日のような燃える橙だった。力強い縞の模様も鋭利な烏羽ではなく泥土のやさしい黒をしていた。首周りや腹の白毛は雪の清廉より蒲公英の冠毛のやわさを思わせ、大地に根差したその美しい毛並みが、広い背が呼吸に上下するたび、焚き火の燃え止しが微かな火の粉を撒くように明かりの乏しい部屋の中でほのほのと光るのだった。
中在家は横臥したまま横着に片腕だけを伸ばして虎の白い首に触れてみる。豊かであたたかな体毛は簡単に中在家の手を飲み込んだが、想像したほどやわくなく、ごわついた弾力でてのひらを押し返してくる感触、そして肌に近づくほどに滑らかにしなやかになってゆく手触りは七松の髪と同じだった。
七松の髪は表はこわいが内側は意外にもたおやかで容易く櫛を通す。もっともあの男が櫛を使って髪を結うことなど年に幾度もないが。
やはりこれは七松なのだなと中在家は心持ち目を細める。この虎が七松であるという無茶を疑う気持ちはなかったが、それでもすこし安堵した。
七松の突拍子のなさと無闇矢鱈な行動力は周知の通りで、床をのべた端から突如思い立って山を下り町へ、あるいはとち狂って山をのぼりどこかへ消えて未明まで戻らぬ夜はそう珍しくはない。しかし一度寝入ったのちに、なんの騒ぎも起こらぬしじまの長夜から自力で覚めて姿をくらますなどという事態は中在家の知る限りないし、話に聞いたこともなかった。仮に今宵がその最初だったとしても中在家の隣にはもぬけの殻の冷えた布団があるだけでよい、身代わりに虎を置いていく必要も意味もない。ゆえに、この虎が七松そのものであるのがもっとも自然であり、納得がいくのだ。
潮江や立花がこの場にいたなら一笑に付されたであろう馬鹿げた認識である。図書室で七日七晩おとなしく本を読んでいろと七松に強いるに匹敵する無茶苦茶である。すっかり目覚めたつもりでいたが自分はまだ寝ぼけているのかもしれぬと中在家は思った。そもそも目覚めているという理解がまず誤りなのかもしれぬ。
夢、という選択にはじめて至った途端、中在家はとうにひらいていたはずの目を、ひらいた。不可解であるが、確かにそういう感覚がした。
隣へ伸ばしていた中在家の手はもう虎のあたたかい体毛に包まれてはおらず、反射的に曲げた五指が目の粗いざらついた敷布を掻いた。敷布は七松の布団のもので、そこに眠る七松は微塵も疑う余地なく人であった。
しかし、見慣れた太平楽な寝顔と大の字になった体躯の周囲には橙の獣の毛が幾筋も幾筋も落ちていて、相も変わらず火の粉の様でほのほのと光って、いるのだった。
「小平太、」
中在家の低い呼びかけに七松が応えることはなかった。身動ぐこともなかった。常の通りである。中在家は七松の周囲に散る虎の毛を摘み上げようとし、やめた。狐狸が人を化かすとは聞くが虎というのは終ぞ聞かぬと薄く眉をひそめながら七松に背を向け、目を閉じる。虎も長く生きれば尾が分かれるのだろうか。
また目が覚めた。中在家は衣擦れの音もなく上体を起こし、七松を見た。まだ暗い室内で、七松もまた虎であった。ふすふすと鼻息を漏らしながら鋭く張った髭と口元をひくつかせ、なるほど猫と同じ所作であると中在家が場違いな感心をしたと同時に、目をつむったまま豪快にあくびをした。
真っ赤な口内には真白い牙が並んでいた。中在家は中でももっとも長く一握りもありそうな堂々たる一本に手を伸ばした。なんら思惑があってのことではない。つい、と言う以外になかった。
七松の牙は思いのほか熱を持ち、不思議とまったく乾いていた。
夜目には捉え切れぬ微細な擦過痕がいくつもついた牙の表面を中在家の指が撫でた途端、驚いたのか、単に一貫したあくびの所作としてか、虎が矢庭に口を閉じた。そんな起こり得て当然のことに中在家はなぜだか一瞬ひどく狼狽し、手を引くのが遅れた。
この口に噛まれれば手に穴があく。しかしすでに回避が間に合わぬのは明白で、いま強引に引けば穴があくばかりか甲まで裂けかねない。激痛を想定して備えつつ、中在家はあえて虎の口内に手を残した。
覚悟したような痛みは訪れなかった。牙の尖端が中在家の手の甲をごく浅く穿ったところで虎は口を閉じるのをやめていた。びっくりしたようにはじめてひらかれた瞳は、火と黄金の混じった色をしていた。
中在家は虎の湿った鼻をあいた片手で撫でてから、その真っ赤な口内に置いた手を静かに抜いた。錐で刺したようなまん丸い傷がひとつ、針でつついたような砂粒ほどの傷がひとつ、甲にできていた。
錐のほうから細く血が流れ出すや虎は落ち着きなくうるうると唸り、分厚い舌で幾度も傷口を舐めた。
「小平太」
呼ぶと、虎は顔をもたげ、中在家の肩に鼻面をこすりつけてきた。その重量とこそばゆさに押し負け、中在家は布団に横たわる。血の止まった手をふたたび舐め始めた虎のざらついた舌は逆に痛いほどであるのに、不思議と徐々に眠気を誘われた。
次に目覚めればさすがにもう夜も明けているであろう。そのとき隣にいる七松が人でも虎でも構わぬ、そう、思った。
七松が、ただ七松であればいい。
2010.1.21
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