わけなどどろつち/
訳など泥土
落乱/仙蔵と綾部
野外授業を終えて帰校し、何は無くともまずは風呂、いやとにかく水の一杯もかぶりたいとどろどろに汚れた体を引きずって六年生六人ぞろぞろと井戸へ向かう途中、隣を歩いていた伊作の姿が突然消えた。仙蔵は驚くでも慌てるでも辺りを見回すでも無く、習慣として足下を見る。案の定、という感慨すらもはや湧かぬ、直立不動の姿勢で見事に足から落とし穴に嵌まった伊作が、魂までも吐き出す悲愴さで盛大に溜め息を吐いていた。
ただでさえ泥土や木の葉が絡まって元来の艶やかさが死に失せた体の黒髪に、更に取り縋ろうとする不幸の凝縮された溜め息を邪険に払いのけながら、仙蔵は穴の中へ手を差し伸べる。骨の髄まで不運体質の友人を引き上げてやりながら、丸く深く垂直に微塵の狂いも無く地を抜くこの芸術的な落とし穴を生んだ後輩のことを思った。
寸暇を惜しんで穴を掘り続ける彼の心理は如何なるものか。
友人が穴に嵌まったのに気付かぬのか、はたまた常の光景すぎて気にかけるに値せぬと捨て置かれたのか、四人の同級生は薄情にも随分と先へ進んでしまっている。仙蔵はよろつく伊作に一応目を配りつつ同級生らを追おうとしたが、ふとおかしな向きから視線の刺さるのを感じて足を止めた。
固い松葉のようなやわい針のような良く知った気配が、ちくりちくりと左手から肌を突く。首を巡らせると、すこし離れた木立の脇で、足下に突き立てた踏鋤とともに脛の辺りまで地中に沈んだ件の後輩がじっと仙蔵を見ていた。
伊作を先に行かせ、仙蔵がその場に留まっても、綾部は取り立ててどうという顔もしなかった。新しく掘り始めたばかりと見える穴から出る様子なく、おかえりなさい立花せんぱい、と事務的に言う。量も癖もある鈍色の髪は少々の風ではこそりともせず静やかにその背に垂れたまま、学年色の忍装束と良く似た色をした大きな目は硝子玉のように外界を映すばかりで、その内面を表出させることは終ぞない。
「ただいま、喜八郎」
「どろどろですね」
「昨日の大雨のせいで山中はどこもかしこも泥濘だらけだ。猪(しし)が泥池に嵌まっていたよ」
「助けてあげましたか」
「ああ」
伊作と留三郎が、という部分は省略した。ついでに、まだ成獣でない様子の痩せた猪が、食い出がなさそうだなと呟いた留三郎ではなく伊作を蹴り飛ばして一目散に逃げて行ったという詳細も。
「嵌まったといえば、伊作がまたお前の落とし穴の餌食になったぞ」
「はい、見ていました」
「すこしは手加減してやれ」
遠いな、と思いながら仙蔵は綾部に声を投げる。二人のあいだは五間ほどはあろうか、会話をするには不自然な距離だ。
綾部は仙蔵を見つめまばたきをするばかりで、睫毛、目蓋より重いものは動かせないとふざけた冗談でも言いたげである。すぐにも穴掘りを再開したいという意思表示なのか、それとも仙蔵が自他共に認める汚れきった風体だから近寄ってこないのか。後者であるならばなんとも見上げた後輩だ。
もっとも、飄々乎と無感情なようでいて存外考え無しの仔犬じみたところもある少年だ、こどもにするようにおいでと仙蔵の白い手で招き寄せてやればとことこと寄ってくるのだろうが、いまは露程もそういう気分になかった。
「手加減」
意味がわからぬかのように口の中で低く仙蔵の言葉をなぞり、綾部は小さく首を傾げた。
「でもわたしは善法寺せんぱいを落とすために穴を掘っているのではないから」
「ではなんのためだ」
あまり実りのなさそうな問答であると思いながらも仙蔵はつい問うてしまう。泥が絡んで固く乾いてしまった髪がたまらない、早く清めたいのに何を自ら妨げるような真似をしているのか。仙蔵が立ち去りさえすれば、綾部もまた何事もなかったように作業に戻るだろうに。
「せんぱい方は、わたしの穴に落ちませんよね」
傾けていた首をまっすぐに戻し、綾部は質問ではなく確認の発音で言った。先の仙蔵の問いへの答えにはなっていないように思うが、綾部の話法は蛇行や急旋回や一足飛びをすることが珍しくないのでそうと決め付けるには性急だ。ただしさまざまうろついた挙句に行方不明になることも、同じく決して珍しくないのだが。
綾部の言が本人にしか読めぬ地図を広げてひとり歩きを始めるとひどく面倒なので、仙蔵は素早く答えを与えてやる。
「まあ落ちないな、伊作以外は」
もっともあれは綾部の掘った穴でなくても落ちる。小平太の掘った塹壕にも落ちるし、食堂のおばちゃんに頼まれて一年は組の三人組が掘った生ごみ処理用の穴にも落ちたし、人為的なものでなく自然の穿った野山の穴にだって落ちる。そこに地面があるから綾部が掘るように、そこに穴があるから落ちる生き物なのだ、あれは。
「特に立花せんぱいは落ちない気がするんです、絶対に」
力強く断言する綾部は踏鋤の柄を握って仙蔵から目を離さない。硝子玉の底からじわと墨が滲み出すように、その瞳の色が深く濃くなった気がした。長屋のほうから涼やかな水音と、同級生たちの声が聞こえてきた。ああ私も早く水を浴びたい。
「予算会議のときに落ちたぞ、お前のせいで」
「あんなのはちっともうれしくない」
影を帯びた綾部の瞳は真夏の夜半のようにじとりとあつく、それでいて明澄だった。お前は私が穴に落ちると嬉しいのかと仙蔵は呆れたが、笑う気にも答える気にもならなかった。ぞっとしないな、と肩口から垂れた髪に無意識に指を通せば、ぱりぱりと乾いた土片が砕けた枯葉のように散った。
仙蔵は綾部から目を逸らし、歩き出す。足音を故意に立てた。三歩と地を鳴らさぬうちに、案の定、土を掘る音が背後で再開された。
2009.8.26(2010.1.21
ちょこっと加筆)
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