うしろの正面gloomy

 

 

 

 部室の扉をあけると、そう遅れた覚えもなくいまが制服からウェアへの着替えのピーク時であるはずなのに室内はがらんと広く、正面奥の大きな窓から射し入る晴天の恵みが誰の足もない床を健気にあたためている。明かりの落ちた部屋はまだ午後の三時を回ったばかりで自然光も存分に入り微塵も点灯の必要などないのだがなぜかどこかしら陰鬱に見えて、窓いっぱいに注ぐ陽光の輝度と整頓されてはいるものの古びて埃臭さの拭いきれない床壁天井の四角い隅に生まれる未熟な闇とのコントラストのせいだろうか、人のいないせいだろうか、連なって床に落ちるトロフィーの影がことさら暗く見える。どうしたものかと考えあぐねながら後ろ手に扉を閉め一歩踏み出すと、足によく馴染んだテニスシューズの底がキュキュと思いがけず大仰な音を立ててドキリとした。くそ、俺はひとりでいるのも静かな場所も好きじゃないのにと何か唐突に見知った場所で迷子にでもなった気分に陥って情けなく顔を歪めかけたところで、奥のロッカーの陰からふいに現れた人物が、ああ切原くん、と口をきいた。
「柳生先輩」
 赤也はひどく安堵して柳生に駆け寄る、彼はまだ着替えてもいず正しく美しくネクタイを締めたままの姿で床に下ろしていたラケットバッグを長身だが痩身と見える肩に担ぎ、では行きましょうかと言った。
「どこ行くんスか、今日部活どうなってんスか、みんなは?」
 親ガモにつき従う子ガモみたいに柳生の歩いたあとを正確に踏みながら赤也がいくつも尋ねると、柳生は扉の前で立ち止まり、振り返った。
「コート整備の予定がずれ込んでしまったそうで、今日は練習は四時からです。私たちレギュラーはそれまでミーティングなのですが、連絡がいきませんでしたか」
「聞いてないっス」
 赤也が露骨にむくれると、柳生は困ったように左手の中指で眼鏡のブリッジを押さえ、瞳を伏せて穏やかに嘆息した。
「仁王くんが伝言を止めたんですね。困った人だ」
「仁王先輩が俺に教えてくれるはずだったんスか」
「ええ。昼休みに切原くんのところへ行くというので伝えておくようお願いしたのですが」
「きたことはきたっス。丸井先輩も一緒に。弁当のおにぎりと唐揚げ食われました。ガムと交換とかゆうんスよ、んなもんで腹ふくれるかっつーの!」
 思い出した途端に実に素敵なタイミングで腹が鳴って、赤也はむかつくのと恥ずかしいのとでつい声を荒げる。柳生は扉をあけて外に出ながら、困った人たちだとくり返した。声と口調には赤也への同情とあの極悪な二人組への溜め息が確かに滲んでいたが、背を向ける寸前その表情が愉快げにわずかゆるんだように見えて、赤也は気分を害する。腹の音を笑われたんだろうか、それともいつも何かと優しくしてくれたり庇ってくれたりする柳生先輩も結局は三年生であって根本から味方をしてはくれないってことだろうか。
 くそ、となんでもいいから蹴飛ばしたい気分で乱暴に足を踏み鳴らしながら、柳生がレディファースト然と押さえてくれている扉から赤也も外に出た。柳生の気遣いにはすぐ気づいたが、礼も告げずふて腐れたまま部室棟の外廊下を大股で歩く。錆の目立つ鉄柵の部分と、妙に明るいクリーム色に最近塗り直されたコンクリート壁の部分とがあまりにもちぐはぐな手摺りの向こうには、これもいまの赤也の心境とは正反対の真っ青な空が広がっている。錆びた鉄柵同様ささくれた目つきで横目に爽やか極まりない夏空を睨んでいると、後ろから、乱れずにスピードだけを保った足音が追いついてきた。
「よかったら食べますか」
 隣に並んだ柳生の手にはいつの間にか魔法みたいに、ラップに包まれたサンドイッチが現れていた。途端に赤也がここ数分(正確に遡れば昼休みからなので数時間)の不満を忘れ去って目を輝かせて立ち止まったので、柳生は二歩ほど行き過ぎてしまってから、律儀に後輩のもとへ引き返す。
「私の昼食の残りで申し訳ないのですが。うちの母は何度言っても量の加減がきかない。その上、どうやら妹が自分の分を半分ほど私の包みに紛れ込ませているようなんです、ダイエットだかなんだか知りませんが」
 珍しくぶつぶつとこぼす柳生の台詞の後半はろくに聞かず、赤也は指の長い彼の手、の中の旨そうな上に食パン四枚分の量まである貴重な食料を両手で大事に包み込んだ。
「いいんスか!?」
「ええ。いつもなら部活後の丸井くんのおやつになるところなんですが、お腹が空いているんでしょう?」
「すいてます丸井先輩のせいっス俺いただきます!」
 右手にサンドイッチ、左手に握り拳で宣言した赤也を見ると、柳生は指で眼鏡のフレームを支えてレンズの奥の瞳を細め、どうぞとやわく笑った。赤也はものすごく癒された気分になって、それは夢中で腹に収める見た目以上においしいツナサンドチーズトマトサンドの作用でもあるのだろうが、柳生先輩はやっぱ俺の味方じゃんと思った。
 部室棟を出て、ミーティングは真田くんの教室でやるそうですと告げる柳生の言葉に従って校舎に入ったときには、赤也はすでにサンドイッチを食べ尽くしていた。最後に頬張ったひと口が本当はふた口分近くあって微妙に喉に詰まらせウグとかモグとかやっていたら、素晴らしいばかりの手抜かりのなさで柳生が、封切られたばかりのスポーツドリンクを差し出してくれた。赤也は嬉しくて、ペットボトルを片手にもう片手で柳生の腕を抱えてへへへと笑った。
「切原くんはときどき丸井くんに似ていますね」
 おもしろそうに言われて、いっしょにしないでくださいよ! と柳生の腕を引っ張りながらぎゅうと身体を寄せたとき、ふと、気づいた。いま自分を見下ろしたレンズ越しの柳生の知的な瞳は、一瞬、仁王によく似た得体の知れない色を刷かなかった、か?
 背筋に寒気が走り、赤也は思わず柳生から離れる。ペットボトルを取り落としそうになったがどうにか指に力を込めた。柳生は何を察したふうもなく赤也から解放された左手で、また、ずれてもいない眼鏡を直し、急ぎましょう皆さんもう集まっていると思いますから、と歩調を速めた。
「……仁王先輩?」
 ぬるいペットボトルを命綱のように抱き締めて、赤也は小声で前をゆく背中を呼んでみる。柳生の足が戸惑いなく、止まって、赤也の心臓は跳ね上がった。しかし柳生は閑散とした放課後の校舎廊下をキョロと眺め渡して、
「仁王くん? どこです?」
 すこしばかり訝しげに眉をひそめて赤也を振り返る。その目は、柳生だ。仁王の瞳はこんなふうに素直に疑問を映したりはしないはずだ、だが見慣れたレンズが邪魔でごまかされているのかもしれないとまだ思う。古びたリノリウムに落ちる柳生の影は部室のトロフィーよりよほど濃い。柳生がさっき部室にいた理由はなんだ、ミーティングは真田の教室で行われると知っていたのに。部活時間の変更を知らない赤也があの時間あの場所に現れると予想できたのは、仁王だけなのではないか?
 切原くん? と柳生(柳生?)が固まったまま動かなくなった赤也を呼ぶ。すこし困った顔をしたが、すぐに表情を引き締めて鋼のような声で言った。
「聞いていますか、私の話を? 早く来たまえ」
 その厳しさをスタートのピストルに、赤也は走り、ふたたび柳生の左腕に飛びついた。背後で鈍く重たい音が響いてペットボトルを落としてきたことに気づいた。柳生が何か非難の言葉を口にしかけたが、構わず腕を強く引いて押さえつけながら彼の右の口元に親指を押しつけ、強く拭った。そこにホクロはなく、剥ぎ取られた偽物の肌色に赤也の指が汚れることもない。
「なんなんです、切原くん! やめたまえ!」
 柳生がさすがに声を大きくして捕らわれた腕を全力で取り戻そうとしたが、赤也は意地で離さなかった。赤也を引き剥がせないとわかると柳生は盛大な溜め息をつき、それからすこしだけ努力するように目元を震わせて普段の冷静な表情を復活させ、無言で廊下を歩き始めた。柳生の腕をつかまえたまま赤也も歩き、好きになるとベタベタくっつきたくなる自分の癖をよく承知しているので、ああ俺はこの人が好きなのかもしれないと思った。だけど、あたたかい腕、不機嫌を隠して俺を邪険にしないこの紳士は、
果たして柳生比呂士なのか?

 

 

 2005.2.21
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