うしろの正面gloomy 2

 

 

 

 T字に別れた廊下の右へ行かなければならないのに、左の突き当たりにとても無視できない人物を見てしまって、赤也は足を止めざるを得なかった。
 本校舎の三階は三年生の教室が並ぶいわば上級生の縄張りというか巣であって、普段そう長居をする機会はない、その気もない、いまのように教室移動で別棟へ向かう際に足早に通り過ぎるぐらいで馴染みがない。だから、心臓が一拍だけ妙に高く打ったのは、その慣れない場所で、普段テニスコートでしか目にしない姿を急に見たせいだとして赤也は片づけた。
 行く手には別棟への渡り廊下しかない校舎のはずれのため、生徒の行き来はまばらで喧噪は遠い。校舎という昼騒がしく夜はおそろしくしじまなる規則正しい生き物の尻尾の先、切り落とされてもまた節操なく生えてくるのだし例え二度と生えずともなんら支障はないだろうこんなところで何を、と赤也は思うけれど、T字の左の突き当たりに立っているのが誰であるのか本当はよくわからない。判断ならひと目で〇・一秒でつくけれどその容易さ迅速さはなんの意味も持たない。そんな気がした。
 廊下の行き止まりを前に道に迷った人のように、あるいはその先に確かに帰る家があるはずなのになぜもう進めぬのかと途方に暮れる長旅から戻った末の息子のように、仁王雅治はぼうと突っ立っている。突き当たりの壁にはサッシが歪んでわずか十センチほどしかひらかなくなってしまった窓があり、今日も申し訳に十センチだけあいている。その十センチ分の忍びやかな夏の風が、仁王の襟足で遊んでいる尻尾をかすかに揺らし、窓ガラスの全面分そそぐ強い陽射しが灰銀の髪を無駄にきらめかせている。
 動かない、かと思えば突然肩をだれてはまた戻したりしている前傾気味の背中は姿勢がいいとは言いがたく、ならばあれは仁王で正しいのだろうかと赤也は思う。柳生に猫背はあり得ない。
 窓の横には校舎の外階段へ出る簡素なドアがあり、仁王はそのノブを回そうかどうか迷っているふうだ。授業間の十分の休み時間を五分残して外階段へ出るということは次の授業に出席する意志はないということで、その思考も柳生ではあり得ない。ドアをあけるのをためらっているのはさぼりに対する罪悪感ではなく、強い陽射しへの吸血鬼並みの嫌悪感のせいだろう。髪も肌も焼きとうないんじゃとぶつぶつこぼしているのを聞いたことがある、思えばあれが赤也の知る限りもっとも感情的な仁王だった。
 つまりいまあそこにいるのは、陽射しを嫌うくせに偏執的に屋外でさぼりを決行しようとするバランスの悪い仁王雅治という男であって、授業をさぼるなど一ミクロンとても考え及ばず万事において最高峰のレベルでバランスを保つことをよしとする柳生比呂士であるはずがない。それとも、その完璧主義のゆえ、紳士はおのれの信念や無意識の身体的特徴までも捩じ曲げて完全に模写をしてのけるのだろうか、詐欺師の皮を被るのだろうか。だとしたらあの二人の違いはもはや身長だけ、しかしそんな爪二枚ほどの微細な差を目測できるような優秀な目を赤也は持たない。
 俺はあの仁王先輩にしか見えない背中を柳生先輩だと決めつけている、と他人事の気分で赤也は気づいた。行き過ぎて阿呆な妄想だ。普段の学校生活でまでそんなことをする理由はあの二人にはない。
 一度、代わりにテスト受けてもらったらどうスかと仁王に言ったら煩わしそうに薄笑いをされ、それをまた柳生に報告したら彼はそんなことは必要としていないからあなたを笑ったのですよと子供に利くような口調で教えられた。実際仁王は柳生に匹敵する優等生になれる資質を持つのだそうだ、なのに現状そうでないのは彼がそれを望まないから、興味がないから、一度の欠席もなく毎時間ひと文字も漏らさず几帳面にノートを取った授業の試験を白紙で提出して異端となることになんのおそれも不自然さも感じていないから。
 仁王と柳生には優良な学生として生活するために必要なすべてが備わっていて、それを行使するしないの差はそれぞれの意志であるから、そう頻繁に入れ替わる理由はない。なのに赤也は呼吸をするように簡単に当たり前に思っている、あの仁王先輩は
「柳生先輩」
 妄想だろうか。願望だろうか。どっちでも同じだ。愚かだ。
「柳生先輩」
 二度呼んでも、背中は振り返らなかった。やっと決心をつけたかのようにドアをあけて外へ出ていってしまう。数歩分の距離があるとはいえまるで声が届いていないなんてことはないはず、計ったようなタイミングで姿を消す仕打ちは仁王のやり方で、だけど、ああどうして俺はこんなにあの人たちのことばかり考えていなきゃならないんだろう。
 消えた背中を追おうとしたとき、おや切原くん、と背後から声が掛かった。赤也は本気で飛び上がるほど驚いて、たっぷり五秒息を止め、吐き出さないままそうっと振り返る。そして幽霊を見たような気分になった、柳生比呂士が立っていたので。
「どうしました、こんなところで?」
 柳生の声は表情は眼鏡のレンズは、壊れた窓のせいで熱のこもりがちなこの廊下の端にあってなおいつも以上に涼しげに赤也の鼓膜を震わせ、網膜に焼きつき、間抜けに目を見ひらいた赤也の顔を映している。
「あの、音楽室にいく、とこ、で、」
 不自然極まりなく強張った声で赤也が答えると、柳生は長めの前髪の下で心なしか眉を寄せたようだった。
「おひとりですか?」
 何を心配しているのだか、真顔でそんなことを訊く。驚きと混乱に拍車がかかってもはや尋常でなくこんがらがり、赤也は無意味に慌てた。
「えっ、いや、俺筆箱忘れて取りに帰って、教室に、そんでみんな先に、だからあの」
「そうですか」
 赤也の挙動の不審さを特に気にした様子もなく、柳生は安心したようにやわく笑うと、腕時計に目を走らせる。
「授業に遅れてはいけませんよ」
 人の注意や命令を嫌う赤也にも嫌味なく通用する穏やかな促し方をして、実に姿勢よく教室のほうへ廊下を歩み去っていった。
 赤也はいまだ平静を取り戻せない心臓を必死になだめながら、いまのが柳生先輩いまのが柳生先輩と胸のうちでくり返す。追いかけたかったけれどそのあとどうすればいいのか浮かばないし、いま笑ってもらったばかりなのに迷惑そうな(嫌な、ではないと思うあの人はあくまでも紳士)顔をされるのは明白だったので、結局また突き当たりのドアへ向かった。
 外階段に出ると、気づかずに動けば即蹴飛ばしてしまいそうなすぐ脇に、コンクリートの手摺りを盾に陽射しを避けて仁王が座り込んでいた。特に驚いたふうもなく億劫そうに顔を上げた彼と目が合った途端、赤也の心はまた落ち着きを失いかける。これは仁王先輩、見たまんま仁王先輩。
「おまん何やっとんじゃ、こげんとこで」
「先輩こそ」
 赤也がろくに言い返さないうちに、仁王の右手で携帯が鳴った。素早く通話ボタンを押す仁王の隣にしゃがんで、仕方なく赤也は黙る。
「なんじゃ、しつっこいの。おんなじ場所んおるとにわざわざ電話なんちゃおかしかね。知らんよ。出んよ。あー、そりゃ俺じゃなか」
 平淡な、強いて言うなら比較的不機嫌に近い口調の仁王だが、目と口元は笑っている。自分には到底できない芸当だと赤也は尊敬こそ決してしないがすこしばかり感心してしまう。そして、電話の相手がとても気になる。
「ご免じゃゆうとるが。おまんに関係なかろ。ハハ、知らん。そやけ切るわ」
 どうやら一方的に電話を切った仁王は、刺を感じさせる言葉とは裏腹に上機嫌で、駄目押しとばかりに携帯の電源をオフにしている。
「柳生先輩っスか?」
「授業出ろゆうてうるさか、よう飽きん」
「同じクラスじゃないのに」
「隣じゃからの、次の選択が一緒なんじゃ。おかんヒロシは人ん出席率まで気にしよる」
「心配かけて楽しんでねぇスか、タチ悪ィ」
 仁王の言い草も、心配するだけ無駄な仁王の世話をやこうとする柳生もひどく不満だったので、赤也はつい突っ掛かる。待っていましたとばかりに、計算され尽くして準備万端のひどくやさしい顔を仁王がして、もうわかっているのに、どんなにやさしくてもきれいでもこれは仁王で柳生ではない、
「おまんはつくづく柳生が好きじゃの」
 仁王のその言葉にどこまで裏があったのか赤也にはわからない、とても読めない、いま自分の口から出ていこうとしている台詞すら謎だ。
「その柳生先輩が、全部、仁王先輩だったってことはないスか」
 ほんの一瞬、仁王が目を見張ったけれど、赤也はまんまと見逃した。まったく気づけなくて、後悔するヒマもなかった。自分がいま何を口走ったのかを正しく反芻するので精一杯だった。
「そりゃあ俺への告白ちゅうやつか、切原」
 気づけば仁王の顔がすぐ鼻先に迫っていて、赤也はびびってあとずさると同時に尻もちをつき、ちちちちがいますよ! と叫んだ。
「なん、なんでそうなるんスか!」
「おまんが好きんなった柳生が全部俺が化けたんじゃったら、おまんのホレたんは俺っちゅうことになっちゃろが」
「ちがっ……!」
 必死の否定が喉の奥で詰まり、赤也は頬が一気に熱くなるのを感じた。自分がものすごい爆弾を抱えていて、しかもその起爆スイッチをもっとも渡してはならない人に託してしまったことを知った。立ち入り禁止の張り紙と施錠がしてあれば一秒と考えずに蹴破る、押すなと警告されればイエッサーと頷きながら押すような人に。
 くくくく、と低く笑いながら仁王が携帯の電源を入れている。三時間目の本鈴が鳴り始めたから、もう次の休み時間まで柳生から電話がくることはない。
 高速でメールを打ち始める仁王を前に、赤也は陽光にあぶられて熱を持ったコンクリートの踊り場に座り込んだまま動けない。高くのぼった太陽が容赦なく首筋を刺して背がじりじりと汗ばむのがわかった。
 くそ、授業に遅れるなって柳生先輩に言われたのに。あの人に言われたことは守りたいし、あの人にやさしくされるのが笑ってもらうのが好きなのに。
 目の前の仁王の横顔を睨めば視線に気づいたように顔を向けてくる、うすく笑む、それだってよく見れば十分やさしいのかもしれない、柳生の笑顔が好きだがその底が見えたことが果たしてあったろうか。
どっちなんですか、あんた
 訊いて、そして赤也は目をつむる。さらに上から両腕で覆う。答えなんて期待はしていない。
 そこまでしても夏の太陽は何も映さなくなった赤也のまぶたの裏をほのかに照らした。灰色の闇なんて気持ちが悪い。
 仁王はやはり何も答えず笑う気配もやんで携帯のボタンを操る音だけが掠れるようにする。好きな相手が本当は誰であるのかを見極めるところがスタートだなんて、なんて悪夢。

 

 

 2005.4.8
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