期待なんかしていない、と赤也は言った。卒業式の朝のことだった。朝も朝、午前五時だった。携帯が鳴ったのでコール二回と半分で普通に出ると、耳慣れた声がすこし遠く聞こえた。家の前にきていると暗澹たる様子で告げるので、制服姿で颯爽と玄関の扉をあけた。
白むにはまだ早い空はぼんやりと青暗く、半分ほど雲が覆っていた。深夜まで続いた雨は上がっているが、空気はまだ冷たく湿り、アスファルトも黒々と濡れたままだ。
門灯の明かりに頬を橙色に染め、ぽつりと門の外に立っていた赤也は、マジですか、と驚くよりも訝るような顔をした。何がです? と柳生は訊き返した。
なんでこんな時間にもう制服着てんすか普通の声で電話出れんすか早起きにもほどがあんじゃねえすかつーかもしかして寝てねえの?
けれどそういう赤也も制服を着ている。ぐるぐる巻きにしたマフラーを口元まで引っぱり上げているので、声はすこしこもって聞こえた。
寝ていますよ、と答えながら、相変わらず自分の都合でしかしゃべれない人だ、と柳生は思う。それを咎めたことは幾度もあるが、赤也は元来あまりまじめに人の話を聞かず、聞いてもおそらくすぐ忘れ、特に柳生が相手であるとその態度が顕著になるようだった。
真田に叱責されればふて腐れ、仁王の前では蛇に睨まれた蛙のよう、桑原にはわがままを通し丸井とはいがみ合ったりつるんだり、幸村に対してはめずらしく深遠じみた複雑な感情を抱えているような、そして柳と柳生には甘えるのが赤也だ。
幸村が以前言っていた、「赤也? そうだね、素直ないい子だよ。口先だけじゃないところが気に入ってる。いつも真田が容赦ないでしょ、だから俺はなるべく優しくしてあげてるんだ。あれ、何その目?」
柳も以前言っていた、「赤也か。さまざまな意味で素直だな。努力家なところは買っている。甘やかしているつもりはないが、まとわりついてくるのを追い払う気も取り立てて起きないな」
自ら認めているのが却って不信を呼ぶ幸村はまあ置いておいて、柳はどうやら赤也に甘いようだ。対して柳生は赤也を甘やかした覚えはまったくない、というか紳士たるもの相手によって態度を変えるなどありえない。のに、赤也の中での柳生像が、柳と同様に解釈されてしまっているのはなぜなのか。
不快とは言わない、けれど
(居心地がよくもない)
眼鏡のブリッジを指で押さえ、柳生は薄く笑った。
「早起きは習慣なんです」
どうということもない事実を告げただけだったが、赤也は緊張気味に直立していた(が、両手はズボンのポケットに入れたままだった)身体から力を抜き、ふうん、とアヒルみたいに横に広く唇をとがらせた。寝る間も惜しんで遊びたがる幼児みたいな目をしていた。私が笑うと切原くんはひどく嬉しそうにするようだ、と、確信に至らないひらめきがゆるく思考の底を漂う。
「きみこそ新聞屋さんのようですね」
柳生は笑って言った。のに、赤也は突然怯えたように悲しげに目を見張った。普段であれば、いまのジョークですか笑うとこですかあんたはほんとに柳生先輩ですかと飽きもせず日課のごとく人の正体を疑うくせに、そうせず、ただ悲しいと顔に書いていた。捨てられた子犬とはこんなふうだろうかと俗な例えが浮かんだが、実際捨てられた子犬を見たことがないので比較のしようがない。
期待なんかしていない、と赤也は言った。脈絡がなかった。そして例によって彼独自の身勝手さを交えた壮絶な早口で、俺はあんたがたぶん好きだったけれどあんたが本当にあんたなのか自信がないから好きではないんだ、というようなことを悲愴にまくし立てた。ひどく責められている気分になったが、実際赤也は柳生を責めていたのだろう。身に覚えはない。
言うだけ言って赤也は駆け去り、その後卒業式をさぼり、部の送別会にも現れなかった。たるんどる、とは真田は言わなかった。赤也を甘やかしているつもりはないといつか表情なく言った柳は、変わらぬ無表情で心配をしていた。丸井はものすごい勢いであのガキと連呼し悪態をついていたが、目に見えて寂しげだった。桑原は赤也を案じつつ丸井をなだめるのに忙しそうだった。幸村は穏やかな笑みを絶やさぬまま、部室のドアがひらくたびに必ず顔を向けていた。
仁王は、(今朝切原くんがあなたを訪ねませんでしたか)、仁王も確かにそこにいたはずなのに、(訊きそびれてしまった)、その言動をまるで思い出せない。
桜の枝がすっかり瑞々しい若葉に覆われた頃、赤也から電話があった。久しぶりに聞く声は、だけどやっぱり会いたいです、と震えて告げた。だけど、がどこからつながっているのか柳生にはわからなかったが、瑣末なことだと脇に押しやり、眼鏡のブリッジに指で触れる。
「では、会いましょう」
柳生が頷くと、電話の向こうの赤也の声は、泣くのかと思うほど大きく揺らいだ。
『あんたは柳生先輩だよね?』
仁王くんだったらどうしますか、と言いかけてやめた。赤也が本当に泣き出す気がしておそろしくなってやめた。
けれど思った、私が仁王くんであったなら、きみはいったいどうするのか。
きみは何に、誰に、なにを期待していなかったのか。
「仁王くんを」
自覚する隙もなくその名が口を突いていた。愚かだった。えっ、と赤也の怯えた声が電話の向こうですこし遠ざかったようだった。
「見かけていません、最近」
どこへいったのだろうか、あの人は。高等部に進学したとて以前と変わらず同じ校舎内に存在しているはずなのに。ふたつ隣のクラスだと記憶しているのに。まるで消えてしまったかのように姿を見ない。と、いうことを、たったいまようやく不自然だと感じた。
(つまり私も何も期待をしていない、彼に)
耳元で寂しい音がした。電話は切れてしまっていた。悪いことをした、と思った。仁王くんが私たちに悪いことをしている、と思った。
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