ひよこ
チョコ
レート
仁王雅治はものごとを面倒視することがあまりない。あなたの存在自体が面倒ですものねと鬼畜のような台詞を真顔で吐き垂れた相棒、あれの言うことには九分九厘まちがいがないので仁王雅治と書いてめんどうと読み仮名を振ればテストではマルがもらえるのだろうが、まあ自分と同一であるかは置いておいて、仁王は面倒ごとに寛容だ。きっと、面倒を面倒と感じる感覚に人より劣るのだろう。
なので、目が合って一秒足らずでこいつは面倒そうじゃと不穏な予感がしたのはたぶん生まれてはじめてだ。
正面からのたのたと歩いてきてすれ違いざまに仁王のシャツの裾をつかんだその生き物は、ひどくこども然とした上目使いで、もぐ、と口の中で何か言った。実際聞き取れなかったので聞こえなかったことにして仁王はまた歩き出そうとしたが、生き物は背丈も腕の筋肉も明らかに仁王に劣るのに存外力が強く、振り払って身軽に歩けるだけの自由を得られなかった。
「なんね、おまん」
これは誰だったかと仁王は考える。制服姿なので某有名私立中学の生徒であることはすぐに割れる、ラケットバックパックを背負い頭の後ろにラケットのグリップを覗かせている様子からテニスをやっているのだろうし目立つ髪色にも見覚えがあるが、それ以上記憶が続かない。
二人の横を通り過ぎた数人の下級生が、無遠慮に生き物を眺めていった。他校の生徒が立海の敷地内に入るには、運動部の対外試合時などのように、書面による事前申請やら両校の教師の許可やら、正規の手続きを踏まなければならないことになっている。文化祭ですら招待チケットがなければ受付で足止めされて入場にひと手間ふた手間かかるのだから、個人が私用で立ち入るのは簡単ではない。
と、いうのが建て前ではあるが、実際は友人を訪ねて勝手に入ってきている他校生をたまに見かけるし、それを見咎めた教師が即刻追い出しにかかっている光景もそうめずらしくはない。それを踏まえれば、こんな派手な頭の目立つ生き物が、奥まったこの中庭付近にまで無事に入り込めているのはめずらしいことなのかもしれなかった。
誰を訪ねてきたのかとさして興味を引かれないながらも考えるうち、仁王の頭にふと丸井の顔が浮かんだ。ぼんやりと丸井つながりの記憶を掘り返していると、仁王が答えを発掘する前に、生き物自身が肯定した。
「まるいくん」
ああそういえばこの声がもっとテンション高く熱狂的に「まるいくんかっこいー一生ついてく!」といつだったかの公式戦のギャラリーの中で一際黄色く叫んでいたと仁王は思い出す。抱いてー! という気色悪いエールに黙れええええと青筋立てて怒鳴り返したコート上の丸井が審判に注意され、スタンドを見れば生き物は生き物で自校の連れに襟首引っつかまれて怒られていた、と余計な記憶までよみがえって仁王は薄笑いする。後先も人の迷惑も顧みない自己の欲への忠実さは仁王の好むところだ。人としてとても正しい生き方だと思うのだ。
「は、どこにいますか」
一拍置いて、生き物が言葉を続けた。スタンドで子猿みたいにはしゃいでいたのと同一人物であるとは思えない、むしろ疑って然るべき曇りきった目をしている。一見して眠いのだろうとわかった、わかったが、人は眠いという理由だけでこんな死んだ魚みたいなひどい目になってしまうものなのか?
「愉快なやっちゃの」
「コートにいなかった」
「今日はオフじゃけ」
「でもテニスするでしょ?」
「おまん日本語できんタイプか」
「オメーはテニス部の人だよね?」
「通じとらんのう」
くくくと仁王は笑った。愉快だし悪くはないがこのまま抱え込むにはあまりに面倒だ。よって、早々に丸井に譲渡することにする。しかし丸井を呼び出そうと仁王が携帯電話をひらくより早く、生き物が弾丸みたいにその場から駆け出した。
「ま、る、い、くーん!」
見ると、生き物の突進していく先に、校舎のほうからやってくる丸井と桑原の姿があった。おお生き返りよった、と仁王は若干目を丸くする。撒き餌に食いつく鯉なんてかわいらしいものじゃない、血のにおいを嗅ぎつけたサメだ。ああいう危なっかしい生物は呼びつけて自由に泳がせたりせずにこっちから引き取りにいって水槽に保護するのがルールだと仁王は思う。でないと周囲に危険が及ぶ可能性が、たとえばいま餌食になりかかっていた自分とか。
丸井は突進してくる生き物を見るなり桑原の腕を引っつかんで身をひるがえし、猛ダッシュで逃げ出した。なにそれ!? と生き物が怒鳴り、すごい勢いで追いかける。逃げながら振り返り、帰れチービバーカ! とレベルの低い罵声を吐いた丸井が、生き物の後方に突っ立っている仁王に気づいて声を張りあげる。
「仁王、そのチビやる! どっか持ってけ!」
「なんか約束しとったんじゃないんかあ」
いらん、と全力で思いながら仁王は両手をメガホン代わりに大きめに声を返す。してねえよ! という丸井の即答、ひどいまるいくん今度あそんでくれるってゆった! と生き物の悲痛な抗議、今度っつっただろ今日じゃねーだろ、てめえハゲまるいくんにさわんな手ェはなせ、俺がつかまれてんだよオイ丸井はなせ俺を巻き込むなあああ、とかなんとか不毛な言い争いをまき散らしながら走る三人の姿は校舎の角を折れて見えなくなった。
おもしろいものを見た、そして面倒が自ら去ってくれてよかった。仁王はくあとあくびをすると、もはや何事もなかった気分で校門へ向かう。
しかし門を出る寸前、面倒はのしをつけて送り返されてきた。背後から不吉な足音が、と最大限に判断を誤ってつい振り向いてしまった仁王の腹に息を切らせて駆け戻ってきた生き物がどすんと頭突き同然に突っ込んで、
「まるいくんを見失いました!」
仁王は言葉を返せない、というか声にならない。腹を押さえて咳き込んだ拍子に、口に入れたばかりだったレモンキャンディ(朝練のあとに切原がくれた)を吐き出してしまった。地面に転がったつやつやとひかる透ける黄色の玉を生き物はさももったいなさそうに悲しげに見たが、そのあと、身体を折り曲げて息を荒げる仁王に向けた視線は実に平淡だった。
「だいじょうぶ?」
「走るときは、よう前を見んしゃい」
仁王がどうにか声をしぼり出すと、生き物はこくと頷いた。仁王はつくりもののレモンの甘さの残る唾液を飲み込み、そろりと上半身を起こす。身体を完全にまっすぐに伸ばした瞬間、腹がまた鈍く痛んだ。とんだチビじゃ、と思う。分類として丸井や切原の類いだが、タチの悪さが一桁ちがいそうだ。
「丸井に逃げられたんか。おまん足速そうじゃったが」
「おれが速いのは逃げ足だけなの。て、跡部によく言われる」
「ほいでえ、なんでわしに頭突きじゃ」
生き物はすこし目を尖らせた。どうやら眠気は覚めたようだ。
「むかついたから」
「なんもしとらんが」
「オメーじゃなくてまるいくんがむかついたの」
仁王はだいたいにおいて無欲で無関心ゆえに年不相応に強固な理性を持っていて、怒りらしい怒りがわくことは滅多になく、いざキレるとなればあーわしそろそろキレるっちゃ、とカウントダウンができるくらい冷静にキレる。のだが、いまものすごく早口でカウントダウンして(十、九、八、ゼロ!)キレそうになった。そう気づいたので我慢はできた。
「振られたんじゃけ、もう帰ったらどうじゃ」
適当に促すと、生き物は顔立ちに似合わぬ安いチンピラの威嚇みたいな表情で仁王を睨み、にゅいと片手を突き出してきた。仁王は丸井を相手にしているような気分で、ついブレザーのポケットを探る。右にキャンディがふたつ、左にチョコレートがひとつ。これは切原ではなくクラスの女子にもらった。
右のてのひらにキャンディ、左にチョコレートをのせて差し出すと、生き物は迷いなくチョコレートをつかもうとし、しかし寸前ではたと手を止めた。うっすらと警戒心の浮いた目をすこし細めて仁王を見る。
「おもいだしたんだけど」
「なん?」
「オメーは詐欺師のひとだすね? あっかんじゃった」
「だすよ」
「まねしないでむかつく」
生き物はゆるく歯を剥いた。つかみどころがない一方、睡眠と怒りに関する感情は比較的顕著なようだ。
「このチョコ、」
「別におかしなもん入っとりゃせんが」
仁王が答えるが早いか、生き物は三日に一度のご馳走のチーズを必死に頬ばるハムスターみたいな勢いでチョコレートに食いついた。口をもぐもぐさせながら、包み紙だけを丁寧に仁王のてのひらに返してくる。さすが丸井に一生ついていくと宣言しただけはある、テニス以外のところは見習うなと言いたい。
遠慮のかけらもなくキャンディも鷲掴みして自分のズボンのポケットにしまっている生き物を、仁王はものめずらしく眺める。詐欺師とは主に人を騙す小物であって毒殺は仕事の範疇ではないがチョコレートの中身を疑うのはまあ正解だろう、しかし肝心の口先を鵜呑みにするこの生き物は賢いのか足りないのか。純粋という選択肢は端からない。
生き物はしあわせそうな顔で丹念にチョコレートを味わっているようだったが、急にハッと眉を跳ねあげ、ちがう! と叫んでまた仁王に向かって手を突き出した。
「お金かして」
「なんでじゃ」
「帰りの電車賃がありません」
「あー……」
仁王が素直に財布を取り出すと、生き物はひどく驚いたように目を丸くした。自分の言葉を簡単に信じるなんて信じられない、という顔だ。生粋の低能詐欺師じゃあるまいし、どういう育ち方をしてきたのかとあきれつつ仁王は財布の中身を確かめる。所持金、三百三十二円。
「それだと帰れない。かも」
仁王の財布の中の小銭を覗き込んで生き物が首を傾げる。とりあえず帰れるとこまで帰りんしゃいと一円玉まですべてじゃらじゃらと生き物のてのひらにあけてやると、生き物は感謝どころか不満げな顔をする。
「そっからどうすればいいの」
「誰かに迎えにきてもらえばよかろ」
「ケータイ電池きれちゃった」
「じゃったらいまわしが電話入れといちゃるけえ」
「跡部か宍戸か滝か忍足か日吉におねがいします」
うちの切原とタメはる保護者の多さじゃのうとあきれ半分に感心しながら、番号、と仁王は促す。生き物はさっきとは反対側に首を傾げた。
「おぼえてない」
ごもっとも、と仁王はつい同意の頷きをしてしまった。予想を裏切らなすぎて逆にがっかりする。こんな厄介なものの世話を懇切丁寧にやいている自分は柳生か、と思った。あの紳士の何かが伝染してしまったのだとしたら、あれに化けるなどというペテンを働いたのは失敗だったかもしれない。
「おまんのうちじゃいかんのか。母ちゃんやらが迎えにきてくれようが」
「おかあさんは店と妹があるから兄ちゃんがきちゃう。あとでころされるかも」
面っっっ倒っちいのう、と仁王は正真正銘生まれてはじめて、腹の底から思った。それでもなぜなのか見捨てる気はいまだ起こらず(たぶん興味本位だ、この生き物は今日までの仁王の人生において一度も遭遇したことのない異物)、仁王はまた携帯をひらく。さっき生き物が口にした中で跡部という名前だけが誰のことなのか記憶にあったので、柳であれば氷帝テニス部部長の連絡先は把握しているだろうと、柳の番号をリダイヤルリストから探す。発信ボタンを押してから、いまさら思い立って訊いた。
「おまん、なんちゅう名じゃ」
「まるいくんにはときどきひよこって言われる」
まったくの他人事の顔で生き物は言った。仁王は急激に笑いたくなって口端をひくつかせる。自分の要求のみを生まれたての赤ん坊みたいに仁王に押しつけ、自分ばかりが満たされてゆくこの生き物には、仁王に対する真っ当な感謝の念がまるでない。どういう世渡りをしてきたらこんな幼い人でなしができあがるのか。まるで詐欺みたいなその存在に胸が躍った、面倒だ。世でもっとも面倒なのは興味を持つということ、先の労力を思えば目眩がする。
「そのケータイは、」
仁王が耳元にあてた角ばった薄い茶色の携帯を見て、眠たい言葉をひよこが吐く。
「チョコレートみたいね」
鼓膜を揺らす長いコール音が、ますます面倒を掻き立てる。
2008.9.12
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