たかが部内のミニゲームで荒れ狂う自称エースの暴虐なプレイは部活中のコートをデスマッチの阿鼻叫喚に叩き落とし、仁王はそこからもっとも遠いスタンドの最上段のいちばん端でまったくの他人面をしてその様を眺めた。体育座りをしてマフラーにあごをうずめ、へっぷち、と半端なくしゃみをひとつ、赤くなった鼻の頭を冷えた指先でこするあいだにコートではナックルサーブの一撃で勝負を決めた自称エースが「次ィ!」と怒鳴った。
 本来のゲーム形式はあんな百人斬りじみた無法の勝ち抜き戦ではなく順序正しいリーグ戦のはずだが、ああなってしまった自称エースを諌めるのは容易ではない。三年が引退した今日では自称ではなく名実ともにエースなのだ、しかし君臨する三強を引きずり下ろすことに入部時より執着していた切原にとって強者の抜けた穴を埋めたに過ぎないいまの座は納得できるものではないのだろう。去った三強を含め周囲の誰もがその座に就くに相応しいのは彼と認めているのに当のエースだけが自身の実力を正当に評価できずにいて、それはしばしば攻撃的な苛立ちとなって表出するようだった。
 仁王は切原のその様を哀れとも滑稽とも思わない、彼の素直さ強欲さは仁王の価値観に照らし合わせればとても好ましいものだ。現テニス部員たちにとっては畏怖と迷惑と不和の起因にしかならないだろうが。
 切原の脅迫じみた催促に応え次にコートに足を踏み入れたのは、右から左へ自在にラケットを回転させエメラルドグリーンのガムを不敵に膨らませる赤茶けた髪だった。コートの周囲で成り行きを見守っていた部員、ひいてはほかのコートでゲーム中だった部員たちまでがいっせいに安堵の色を浮かべる。切原だけがますます苛立ったふうに顔を背けて短く悪態をつき、審判台の脇で手持ち無沙汰の体だった桑原が呆れと諦めの混じった表情を濃くし、挑戦者丸井ブン太だけが膨らんだガムを吸い込んで高らかに噛み鳴らしながら何か言ってゲラゲラと大きな笑い声を立てた。
 それを引き金に審判のコールも待たず切原のサーブが急角度で宙を裂いたが丸井がそう易々とエースを許すはずもなく、仁王はようやく今日はじめて切原がまともにラリーをするのを見た。
 丸井は引退したいまでもよく部活に顔を出していて、その動機はタダで打てるから、でかい顔ができるから、ひと暴れしたあと後輩のおごりで買い食いが期待できるからと不純そのものだが、暴走した切原のブレーキ役として現部員には重宝されているようだ。エンジンのかかりすぎた切原のパワーとセンスに対抗するのは丸井の技術をフル活用しても楽ではないだろうが、丸井は切原とは違って絶対の冷静さをもって計算尽くのラフプレイができる。丸井の挑発にのって熱くなる一方の精彩を欠いた切原では、戦略を敷いて精密射撃を成す丸井には敵わない。
 メンタル面がまだまだじゃのうと目を細めながら仁王がまたくしゃみをしたとき、
「大荒れのようですね」
 突如隣で声がした。忽然とスタンドに座り優雅に足組みなどしている端正な眼鏡の気配をまるで察知できていなかった仁王がヒヤと声を上げると、柳生のほうがよほど驚いた顔で見返してきた。
「なんです、変な声を出して」
「いつからそこにおった」
「二分ほど前でしょうか」
「気配消すなち。気味悪かのう」
 仁王の勝手な言い分に柳生は若干不快げに眉根に力を込めたようだったが、何も反論せずにコートに目を戻した。紳士は無駄な問答を、取り分け詐欺師が相手とあらば余分な一語、ひと呼吸すら嫌うのだ。なんという的確な差別。人でなしというなら詐欺師より紳士のほうがよほどであると仁王は口端でひそかに笑う。
「丸井くんが部活に参加していて正解でしたね」
「じゃの」
「切原くんもいつまでもあの調子では困ります」
「ありゃあガキじゃけ」
「ガキはあなたもでしょう」
 仁王はすこし驚いて柳生の横顔を見た。仁王の言葉をくり返したにすぎないにしても柳生の口から出たガキという不似合いな、いや存外違和感なく響いた稀な単語に気を取られていると、ざっけんなこのブタ! と試合中にあるまじき罵声がコートから飛んできた。次いで、ざまみろいクソワカメえ、と丸井の馬鹿笑い。
「丸井くんのリターンエースですよ」
 仁王が見逃したと察してか抑揚も感慨もない柳生の解説が入る。普段ならブタのブ(同義語としてデブのデ)のひと文字でも出ようものなら即飛び蹴りで血祭りの丸井がただ笑って済ませている、現状ではそれがもっとも切原の神経を逆撫でし消耗させ、ひいては腕を鈍らせると存分に心得ているのだろう。精神的疲労と試合の負けが重なれば切原の頭もすこしは冷える。切原はワカメと呼ばれればいついかなる状況でもキレるこどもだが、丸井は場合によっては我慢がきく大人であるということだ。
 再開された切原と丸井の喧嘩腰のラリーにはもはやさして興味もなく、仁王は柳生に視線を固定する。丸井がことのほか大人なのも切原が見た通りこどもなのもわかった、というかもともと知っている、なして紳士はそこでわしまでガキに分類しよる。と、口にしたわけではないのに、横目で冷徹に仁王を見た柳生の返答は実に適切だった。
「あなたが切原くんにまた何かこどもじみた真似をしたのでしょう。だから彼があんなに荒れている」
 紳士の察しのよさはときに読心術の域だと、仁王は我知らず薄笑いを浮かべる。コートでは切原が一ゲーム取ったようだがさっきまでのワンサイドゲームにくらべれば奪取スピードは格段に落ちている。乱暴に額を拭った切原の汗に濡れた手首と、丸井の膨らませたエメラルドグリーンが同時に冬の日差しにひかる。
「今日の放課後いっしょにおれてやまかしゅうつきまとうき、もう女と先約があるけえ無理じゃ言うただけがよ」
 もとより隠すつもりも必要もないので仁王がそのまま答えると、柳生はレンズの奥の瞳を明らかに眇めて嫌なものを、まるで思春期の女子が理想とかけ離れたくたびれたおっさんを見るみたいな顔をした。
「ではどうしていまここにいるんです」
「気ィが変わったんじゃ」
 柳生が唇を歪めて侮蔑の滲んだため息を吐く。仁王はまたくしゃみをひとつ。
「おそらくあなたと約束をなさった方が廊下であなたを探していました。逃げやがったあの××野郎マジ殺す、とおっしゃっていましたよ」
「××、てなんじゃ」
「私の口からはとても」
 嫌悪と落胆の入り混じった表情を浮かべる柳生に、仁王は思わず小さく吹き出した。さすが紳士の口、放送禁止用語をのぼらせるほど敷居が低くはないと見える。
「えっらい女じゃのう」
「女性にあのような言葉を言わせるあなたは最低です」
 柳生のフェミニスト然とした正論はみぞおちを抉る勢いで仁王のツボに入った。仁王は今度こそ破裂するみたいに吹き出したがこのまま大笑してしまってはそれこそ紳士の危険なツボを押しかねないので、マフラーを鼻先まで引き上げてごほごほと咳き込むふりをしてどうにかこらえる。
「今日という日だからこそ切原くんも彼女もあなたと過ごしたいのでしょう。その気持ちを弄ぶような」
「おまんも誕生日に切原におんなじこと言われんかったか」
 もてあそぶなんて大仰な単語を日常会話ではじめて聞いた。さして興味もひかれず、ただ柳生の頑として常識を逸脱しない清く正しい倫理観を愉快に思いながら仁王は彼の言葉を遮った。柳生がまばたいて一瞬思案するあいだに、またくしゃみが出た。
「誰かに噂されとるぜよ」
「××野郎マジ殺す、と言われているだけですよ。確かに私の誕生日に切原くんからお誘いを受けましたが、それが何か」
「つきおうてやったんか」
「放課後ご一緒しましたよ。丸井くんと桑原くんと四人でお好み焼きを食べました」
「おまんこそ最低じゃ」
 柳生は眉ひとつ動かさず、丸井くんたちが勝手についてきてしまったんですよ、とコートを向いたまま涼しい顔で言った。仁王の苦言の意味もその日の切原の意図も理解した上でのいまの台詞なら間違いなく最低である、そして柳生がそれらを理解できないはずがないのだ。
「切原はおまんが好きなんじゃと」
 柳生はぴくりとも反応しない。コートでは切原がついにサービスゲームを落としたようだ。
「じゃけどほんもんのおまんにホレたんか、わしが化けたおまんに引っかかったんかわからんち悩んどる」
 へっぶし、と仁王はもう何度目かわからないくしゃみをする。
「ほんで、どっちかわからんのじゃったらどっちもつかまえときゃええってことになったらしいぜよ」
 柳生がコートから目を離してまっすぐに仁王を見た。鋭すぎる非難の眼差しに怯む理由がなく、仁王は片頬で笑った。
「見上げた二股じゃ」
 柳生は言葉を返す代わりに、まだ未開封のポケットティッシュを鞄から取り出して仁王に差し出した。鼻水を垂らしてはいないことを確かめながら仁王がとりあえず受け取るや、柳生はすくりと立ち上がる。わずかに触れた指先も仁王を見下ろす視線も気温に似て冷たい。
「私は切原くんから気持ちを打ち明けられたことはありません。ですからあなたの口からそれを聞く気はないし、そもそもあなたがそれを語るのはルール違反です」
 反論の余地もございません。えっくし。
「噂のせいではなく風邪ですね。お大事に」
 まったく優しみなく言い放ち、柳生は仁王に背を向けてスタンドの階段を下りていく。いちばん下まで下りたところで振り返り、仁王くん、と色のない声で呼んだ。
「あなたの生まれたこの日に、」
 言いかけて、柳生は露骨に言葉を切った。早速ティッシュを開封して鼻をかみながら仁王は待ったが、いっこうに続きが語られる気配がない。
「感謝を、とか続くんじゃないんかそこは」
 仁王の催促に柳生はごく小さく肩を揺らし、さらにすこし間を置いたあと、普段となんら変わらない口調で言った。
「祝福を」
 思ってもいないことを言う目をしていたかもしれない、けれど仁王にはくらべようがなかった。紳士が意にそぐわぬ言を口にするところなどこれまで一度も見たことがない。スタンドを出ていく柳生の背から仁王はのろのろと視線をはずす。
 コートでは切原の劣勢が続いている。あの強欲なこどもは仁王には簡単にあんたが好き(かもしれない)ですと言うくせに柳生にはひとことだって明かしていないことをはじめて知った。それが切原のどんな真意の表れなのか考える気は起きないし知りたくもない。
 今日を誰と過ごすかの選択権は仁王だけにある。仁王のせいで自分の望みが叶わなかったと荒れる切原の怒りは間違っている。そして怒りに目の曇ったこどもは、望んだものがいま手の届くところにあるのが見えていない。
 そう仕掛けたことに、仁王は一生なんら罪悪感を持たない。わずかばかり不服を訴えるように痛み始めた頭の芯、を、自ら笑って、ティッシュをブレザーのポケットに押し込み立ち上がった。
 そのとき、コートで、インパクト音ともボールが地を跳ねるのとも異なる鈍い音が響いた。地面に叩きつけられたラケットが大きくバウンドしてくるくると宙に踊り、その動きを追って切原が顔を上げ、陽のひかりにすら牙剥くように瞳を尖らせた、瞬間、ガットを透かして遠く仁王の姿を認めた。見る見る丸くなる目から攻撃性は爆ぜるように一瞬で失せ、まったくこどもみたいな幼さで、仁王せんぱい、と唇が刻んだ。
 仁王はスタンドの出入り口に向かって歩き出す。切原の必死に呼ぶ声が追いすがってくるが足を止めたところでどうなるものでも、
「仁王先輩!!」
「うえっぐしょい!」
 本日最大のくしゃみが出た。一度ポケットにしまったティッシュを引っぱり出しながら、仁王は立ち止まり、何面もあるコートを一気に横切って猛ダッシュしてくる切原を見下ろした。頭が痛くて顔が熱い。なるほど、これは風邪じゃ。

 

 

 2009.12.5 / 一日遅刻したけど(くやしすぎる)仁王誕生日おめでとう!
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