ふたり
迷子

No, only you are losing your way.

 

 

 

 今日ばっかりは遅刻してはいけなかったのだ。プレゼンテッドバイ鬼副部長の聴力が死滅しそうな馬鹿げた一喝や奥歯がへし折れかねないクソ鉄拳がこわいのもあるけれど、何より練習時間を削りたくなくて日直当番を女子に押しつけるとか委員会をさぼるとかの反則技を駆使して授業には遅刻しても部活には遅れないよう常に努力を怠らなかったというのに、なぜ今日に限って、
「ピーピーはもう治ったんかあ」
 突如背後で湧いた一本調子な声に、赤也は飛び上がらんばかりに驚いた。ひっ、と息を詰めてまばたきも忘れ限界まで目を見ひらいて振り返ると、すぐ真後ろにいつの間にか仁王が立っていた。反射的に飛び退きたくなるのをどうにかこらえ、赤也は微かに震える息をゆっくりと吐き出す。この人は本当に妖怪とか幽霊とかそういうこわい生き物なんじゃないのかとときどき本気で思う、なんだってそんなに気配も足音もしないんだ。
「期限切れの牛乳飲んじゃあいかんぜよ。背なんちゃほっといても勝手に伸びるき」
「ぎゅ、牛乳じゃなくてプリンっす! 背のことなんか気にしてねえよ! っすよ!」
 なんで知ってんだこの人、という疑問を腹の中に押し込め、勢い熱くなってしまう顔をどうにもできないまま赤也はつい仁王を睨む。そーかい、と仁王は興味もないのに納得したような薄べったい表情で赤也の視線を受け流すと、すたすたと部室の奥のホワイトボードに向かっていった。
 放課後の部室はがらんとして、赤也と仁王のほかにはきれいさっぱり誰の姿もない。とうに練習の開始時間を過ぎているから皆コートに出ているというのでもなくて、外からも馴染みの活気ある掛け声や、気持ちのいいインパクト音はまったく聞こえてこない。
 今日の放課後は対外試合が組まれていたのだ。後学のため非レギュラーや一年生まで全員で相手校に出向くと何日も前から通達されていたのに、よりにもよってそんな日にトイレにこもるはめになって集合に遅れ、当たり前に置いていかれた。腹がやばくて集合に間に合わねえっすとトイレの中から半泣きで柳生にメールをしたら、
『RE:お気の毒に
 ひどいようなら無理をせず保健室に行って下さい。真田君には私から伝えておきます』
 と情け深い返信がきたけれど、言葉では気遣ってくれても結局は紳士も待っていてはくれなかった。
 相手校の所在地を知らないことに思い至り、赤也は不安を通り越してまた涙目になりかける。すると、ホワイトボードに貼られていたルーズリーフ用紙をやる気なく片手の指に挟んで仁王が戻ってきた。
「ほれ、柳生が地図ば置いてってくれちょる。追っかけるぜよ」
 仁王が無造作にひらひらさせる現地までの交通手段と地図の書かれたルーズリーフを穴のあくほど見つめ、赤也は心底ほっとした。柳生らしい几帳面な線と文字で記された地図の端には、黒い帽子をかぶった人物が頭から角を生やして眉を吊り上げ口から火を吹いているへたくそな落書きがされている。考えるまでもなく丸井の仕業だろう、へたなくせに的確に状況を物語るイラストには気が滅入ったが、置いてきぼりのままよりは百倍マシだ。
「仁王先輩はなんで遅刻したんすか」
 仁王と並んで学校を出、急ぎ足で駅に向かう途中で赤也が訊くと、仁王は財布の中の小銭を確かめながら答えた。
「遅れるんじゃったら切原を拾ってきちゃれって柳生からメールがきたがよ」
 柳生の心配りと当たり前みたいなこども扱い、素直に彼の言に従ったらしい仁王の行動に、赤也は薄く頬を紅潮させる。うれしいけれど悔しい。結局はいつだって自分にやさしいこの人たちのその好意が、赤也を決して一人前とは見ない保護者然とした義務的な心理から生まれているのだと思うと、いつも歯痒くてたまらなかった。なんで俺はこの人たちより遅く生まれちまったんだろう。
「だから、その遅れてた理由を訊いてるんす」
「期限切れの牛乳飲んだら腹がピーピーんなったっちゃ」
 訊くんじゃなかった、と赤也は後悔した。真実を語る気のない仁王雅治というのは本当に死んでも口を割らない勢いで薄笑いを浮かべて完黙するか、嘘八百を並べ立てることしかしなくなるので、そういうときの彼には何を訊いたって果てしなく無駄だ。精神の徒労に終わるだけ。
 ろくでもないと胸中で舌打ちをする一方、わかりにくい乗り継ぎを実にスムーズにこなして相手校の最寄り駅まで連れてきてくれた仁王を、赤也は単純に尊敬もした。
 もっと、わかりやすくやさしい人だったらよかったのに。ふとそんなふうに考えてしまって赤面する。自分の甘えがこども扱いを招くいちばんの要因なのだと唇を噛んでいると、地図を見ながら前を歩いていた仁王がぼんやりと首を傾げた。
「いま過ぎた歩道橋はこれに書いとらんのう」
 え、と赤也は目の前のラケットバッグを背負った平たい背中を凝視する。疑問を口にしながらも足を止める気配のない仁王の横に追いつき、地図を覗き込んだ。
「これ向きが逆じゃねえすか!」
 信じられない思いで赤也が叫ぶと、おお、と仁王は感心したように細い目をすこし見ひらき、逆さまに持っていた地図をくるりと正しい向きに回転させた。方向を正した地図と周囲の景色を見比べるというほどもなく適当に眺めたあと、何事もなかった顔でもときた道を戻ろうとする仁王の手から、赤也は慌てて地図を奪い取る。
「そういえばわし、地図の読めん男じゃった」
「先に言っといてくださいよ!」
 もう駅から五分以上は歩いている、地図に記された目印が何ひとつない道をよくもそれだけ平然と進めたものだ。迷わんうちに気づいてよかったの、と悪びれずに言う仁王の手をつかみ、赤也は大股で歩き出す。ああもうこんなに遅れたんじゃ今日は試合に出してもらえな
「頼りんなるのう切原。ええ子ええ子」
 つかんだ手を仁王の指にひんやりと握り返され、本心から慈しむような微笑で頭を撫でられて、いま自分が何を考えていたのか赤也は一瞬で忘れてしまった。
 テニスより大事なものなんて、俺にはないはずなのに。

 

 

 2009.9.25 / おめでとう赤也、だいすき! 誕生日と関係ない話でごめんなさい…!
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