春の嵐銀狐

 

 

 

 吹きすさぶ春の嵐に、よく晴れた頭上でも陽射しにぬくもった足元でも、桜の花びらが絶えず渦を巻いている。やむことのない風はその強烈さのわりに冷たくはないが瞬間的に歩行を妨げ壁かというほど吹きつけるので過剰に鬱陶しい、イテイテ目にゴミ入るイテテテくそ、と薄目涙目になりながら赤也は東門を抜けて学校を出た。
 途端に満開の桜並木が視界を覆った。淡くやわらかい桃色も群れ連なればあざやかな奔流になって押し寄せる、赤也は息苦しささえ覚えてゆるんだネクタイにさらに指をかける。が、実際息苦しいのは真っ向微塵に体当たってくる風のせいだし、左右の歩道から大きく枝を伸ばして車道の上にアーチを描く桜並木は本当に見事だけれど、いまの赤也にはその風光を愛でる日本人的こころのゆとりゼロ。ううー目ェー、と両手でごしごしこすったりかばったりしながら、風を受けて普段の倍も重たく感じられるラケットキャリーをイライラと背負い直してバス停へと急ぐ。
 丸井でも一緒だったならムスカごっこをして気をまぎらわせるのに、とアホなことを真顔で考えたが、今日は部活のあとなぜだかみんな慌ただしく帰ってしまうかダラダラといつまでもダベっているかで、誰とも部室を出るタイミングが合わなかった。特に約束をした相手はいなくても誰かしらと一緒に部室を出て方向の異なるまで並んで帰るのが常だったので、当たり前と感じていたそのルールが崩れたことに赤也は若干の不満を覚える。
 バス停までのほんの短い距離でさえひとりではいやだなんて、まるでこどもみたいだ。けれどそう思う自分を幼いと恥じる意識が赤也にはあまりない。だってひとりはつまらないじゃないか。
 午後一時半、春休み中で登校者が減っていることを差し引いても、赤也たち男子テニス部と同じく午前のみで部活を終えた生徒たちのちょうど下校時であるはずなのに、周囲には男テニ部員はおろか立海生の姿自体がまるでない。誰かいないかと未練がましくガラスの壁越しに店内を窺ったコンビニにも、やはり見知った顔はいなかった。
 が、コンビニ脇の細い路地の奥に、何か見えた。白い影。桜のように淡い桃色がかったやさしい白ではない、ざらついた灰銀めいた不透明な白。
 仁王せんぱい、と思うより先に赤也は路地に入っていた。コンビニの裏口とゴミ置き場のあいだを通って短い路地を抜けた先は、じきにマンション建設でも始まるのだろう土が剥き出しの更地になっていて、路地の反対側は住宅街に面していた。
 そこに、仁王雅治と、高等部の制服姿の男子生徒が二人いた。仁王は立っているが、あとの二人はそれぞれ地面に膝と尻をついていて、赤也と仁王もいずれ着ることになるはずの制服を土で汚していた。
「ちょっ、と、何やってんの先輩」
 若干混乱、というかあああ見てはいけないものを見たあああ、と戦慄に近い気分で三者のあいだに視線を泳がせながら赤也が声をかけると、うつむき気味だった仁王はぱっと顔を上げて赤也を見た。
「おォ、切原ァ」
 げえ、と赤也は思った。たぶん口に出してしまった。やばいっス柳先輩、と思いながら慌てて両手で口を押さえる。たすけてジェントルマン! と心中で叫びながら一歩あとずさる。
 仁王は笑っていた。たまに見せるわかりづらい薄ら笑いではない、わかりやすさマックスのものすごくいい笑顔だった。
 こわい。パーティーメンバー勇者ひとり残して全滅のHP残り1の回復アイテムも使い果たした超絶ギリギリの状況でどうにか倒した、と思ったラスボスが最終形態に化けやがったとき並みにこわい。死ぬ絶対死ぬ!!
 仁王は機嫌が悪くなると薄笑い、本当に腹が立つとはっきりと笑うのだ。そういう厄介な生き物だとなぜ知っているかといえば彼(とあと丸井)の標的に赤也は非常になりやすく、いつもわりと自業自得でそうなった末いちおう柳か柳生に助けてもらうというパターンが鉄板で身に染みついたゆえのかわいそうな思考の空回り(「たすけてジェントルマン!」)だったわけだが、どうやら今日ばかりは杞憂で済んだ。
 仁王のいい笑顔は完全に二人の高校生に向けられたもので、赤也に見せたのはその名残り。
「こんなとこで何しとる、帰るぜよ」
 そうとわかっても簡単には覚めやらぬ恐怖に心臓をバクバクさせて突っ立つ赤也の横を通り、すでに普段通りの飄々とした表情で仁王は路地のほうへ引き返していく。高校生たちが怒りに満ちた凶悪な目をして立ち上がる様子を見せ、赤也は慌てて仁王を追った。
「あの人たちいいんスか、どうしたんスか」
「知らん。風が強いけえ、こかされたんとちがうか」
「んなわけ」
 ないでしょ、と言おうとして赤也は言葉を飲み込んだ。春の嵐のせい。そういうことにしておいたほうが確実に平和だ余計な口出し超無用、と普段無自覚にいらんこと言いまくりの身としては奇跡的に賢明な判断をして一刻も早くこの場を離れようと足を速めたとき、背後から肩をつかまれた。手加減なく肉に食い込む指に鋭い痛みを感じると同時に力任せにうしろに引き倒された。なんの構えもなかったので赤也は簡単に地面に尻もちをつき、高校生の片割れはもとよりこんな天パのガキなど眼中にないと言わんばかり憎々しげに仁王だけを睨んで罵声を吐く。
「調子こいてんじゃねェぞ白髪ァ!!」
 赤也は乾いて土埃を巻く地面を目を眇めて見た。そこかしこに桜の花びらが落ちていた。真横に立つ高校生の汚れた靴先を見た。よし潰そう、と思った。
 が、赤也が立ち上がるより早く頭上で何かが空を切った。地面と平行に吹きつける春風ではなく急に不自然に起こった鋭い風が赤也の髪を掠め、斜め上方へ駆け上がる。
 見上げると、仁王のハイキックが高校生の首に入(この人試合じゃなくてもこんなに速く動けたのかと赤也は感動に近い感心をした)り損ねたところだった。かろうじて腕を盾にした高校生に余計な反射神経働かせてんじゃねえよと赤也は舌打ちしたが、仁王は意に介した様子も追い打ちをかける気配もなく、高校生がよろけて数歩あとずさった隙に素早く赤也の腕をつかんだ。
 転んだこどもの面倒を見るみたいに立ち上がらされ、引っぱられるままに赤也は仁王について走り出す。え、逃げんの? と思った。そのときはじめて、仁王の左耳からあごにかけてが赤く腫れ始めているのに気づいた。うしろでまた怒声が聞こえて走りながら肩越しに見ると、高校生たちが追ってきていた。
 赤也は立ち止まろうとしたが仁王の腕の力と脚力はそれを許さず、赤也を引っぱったままコンビニ脇の路地に走り込む。逃げなくていいって言わなきゃ、と赤也は思う。俺があいつら潰すから平気です。だってあいつら殴ったんでしょうあんたを。
「止まるんじゃなかよ」
 急に仁王が囁いて赤也の腕をはなした。えっと思ったが言われるまでもなくすぐには止まれず惰性で数歩走るうち、背後でガラガッシャンとけたたましい音がした。慌てて振り返ると仁王が蹴飛ばしたらしいコンビニの大きなポリバケツが狭い路地をふさぎ、さらに強風に煽られて高校生たちに向かって転がっていった。仁王はついでのようにコンビニの裏口脇に積んであった空き缶の詰まったポリ袋も路地の真ん中に蹴り飛ばし、そしてすぐさま赤也に追いつくとふたたびその手を取って走り出す。
「止まるなゆうたじゃろうが」
 路地を抜けて桜並木の通りに出ても、仁王は走るのをやめなかった。平然と赤信号を突っ切る彼の背に、赤也は二つ目の横断歩道でやっと叫んだ。
「に、逃げるんスか!」
 言った本人は無意識だったし口に出したあとも気づいてさえいなかったが多分に非難を含んだその声に、仁王が赤也を見てすこし速度をゆるめる。
「逃げなくたって俺が」
「エースに怪我ばさせたくないき」
「ケ、ガなんて、」
 しねえっスあんなザコ相手に、と言い返そうとしたが言葉につまり、かわりに赤也は仁王の手を強く握った。耳が熱くなって足がもつれそうになる。よくわからなかったからもう一度言って。あんた、俺を守ろうとしてくれたの?
「こ、今度ケンカするときは、俺がニオ先輩守るっス!」
 心底本気の宣誓だったのに、聞くなり仁王は破裂したように笑い出した。なんの裏もなくただ愉快げに無防備にでかい口をあけて笑う仁王を赤也ははじめて見たので、なぜ笑われているのかさっぱりわからないままただドギマギした。
 仁王の髪の毛に桜の花びらがとまっているのを見つけたけれど、花びらはすぐに風に吹かれて青空の彼方に消えてしまった。誰もが愛する桜の柔和な白より、詐欺師を名乗る得体の知れない錆びた白がいとおしいだなんて、どうかしている。

 

 

 2008.4.26
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