わ
  ら
 う



 

 

 

 ゲームの終了がコールされた途端ラケットをコートに叩きつけ、気の違った獣のように全身で吠えた赤也に、練習場にいたほぼ誰もが奇異と驚きの視線を向けた。勝者は赤也。けれど勝利の雄叫びでないことは誰の耳にも明らかだった。
 ウゼェとさらにひと声叫んで赤也は大股でコートを出、そのまま練習場からも飛び出した。例によって口うるさい副部長の声が追いかけてきたが、あとで死ぬほど怒られるとわかっていてもまったく足を止める気になど、しかし出入口を抜ける瞬間強烈な磁力に引っぱられたかのように赤也は振り返り、そこに彼を見る。
 つい数十秒前までの対戦者。試合を終えたいまも決して味方でも、仲間でも、そうだネットを隔てて対峙していたさっきだってもしかしたら敵ですらなく、
(じゃあなんなんだあれ)
 雨のぱらつき始めた薄暗いコートに立つ色素の足りない影は幽霊のようだ。黄色いユニフォームだけが鋭く切り込みを入れたように灰色の景色に浮く。
 仁王雅治。
(ウゼェ!)
 遠くの空が静かに輝き、低く雷の音がする。距離と空模様と視力のすべてが邪魔をして見えない仁王の顔が笑みを刷いている気がする。練習場の長いフェンス際を赤也は全力で駆け抜けた。
 部室に直行し、部活の終了まではまだ二十分あったが知るかと歯軋りしながら着替えていると、するりとドアがひらいた。入ってきたのは何ごともなかったような顔をした柳で、その表情と気配の希薄さが仁王とはまた別の意味で赤也をイラ立たせた。が、さっき仁王を相手にあんなにイラついた理由が自分のことなのにわからない。脳が焦げるように、腹の底から火がついたように怒りがわいた、勝ったのに。勝ったのに。
「仁王が手を抜いていたのが気に食わなかったか?」
 赤也がコートに置き去りにしたラケットを差し出しながら、柳が言った。実にこともなげに言うものだから、そんなんじゃねえスよと多少バツ悪くラケットを受け取って一秒、は? と赤也は顔を歪めた。
「手ェ抜いてたんスかあの人」
 柳が嘆息した。気づいていなかったのか、と涼しげなその顔に書いてある。
「あいつの本気というのも正直計りかねるが、まじめだったとは口が裂けても言えないな」
「クソですね」
 目上に対するとんでもない赤也の物言いに思うところあったのか、柳はしばし黙った。けれど咎め立てる気配はなく、逆にどことはなしおもしろいものを見るような顔をする。
「おまえのプレイスタイルを真似ていたな」
「うそでしょ」
「半端極まりなかったが」
 途中で飽きたんだろう、と柳は冷静に付け足し、立ったまま考える人みたいなポーズをして自分のロッカーのほうをチラと見た。データとして残すか否かを検討しているらしい。
 イラ、とまた赤也の頭の芯が赤く焼け始める。さっきの熱だってぜんぜん冷えていないから灼熱のかたまりみたいになる、頭が、感情が。そういえばナックルサーブのでき損ないみたいな気持ち悪いサーブを何度か受けた。勝てないなんてまったく思わなかったし実際勝った、なのに喉を掻きむしりたいほどの不快感に襲われた理由はこれか。
「気づいていなかったなら相当やりにくかったろう」
「べつに。楽勝っスよ」
「7−5」
「か、勝ちにくかった」
「そうだろうな。ところで赤也」
 柳は相変わらず表情平たく、目が細く、声音は鋼のように穏やかで無情だった。
「弦一郎が呼んでいるぞ」
 問答無用でそのまま練習場に連れ戻され、みっちり三十分真田に怒られてからよろよろと荷物を取りに戻った部室には、もう誰もいなかった。鍵当番を言い渡されなかったのがせめてもの救いだと(つまり真田副部長からの信頼はすがすがしいぐらいゼロっスよ!)自虐的に自分を慰めながら外に出ると、雨足はだいぶ強まっていた。ついてない。もはやどうでもよくなって走るポーズすらなく濡れるに任せて校門までいけば、まるでクラゲみたいな透明のビニール傘の下に白い幽霊が立っていた。最大、ついてない。
「入れてっちゃろうか」
 馴れ馴れしく寄ってくる仁王を当然の権利として盛大に無視し、赤也は校門を出る。
「なんじゃあ、待っとってやったきに」
 不服そうな声とともについてくる軽やかな足音が、かつてないほど彼の機嫌がいいことを告げていた。ハハ、本気で潰したい。
「ねえ詐欺師の先輩」
 怒りも過ぎれば意識から切り離される、口の滑りはなんてなめらか。
「あんたのテニスは最低だよ」
 普段であれば仁王を相手にできるはずもない物言いも、テニスとプライドに関わるなら簡単に口から出た。後悔もない。
 くくく、と赤也の苦手なこもった笑い声のあと、ついてくる足音が途絶えた。短く、けれど深く迷った末に振り返ると、仁王の姿は跡形もなく、ひらいたままの薄っぺらいクラゲだけが地面に転がっていた。
 安い怪談のようだと思いながら、認めたくないがかすかに震える手で赤也は傘を拾いあげる。白いプラスチックの持ち手には、いまこの瞬間にも消えゆこうとする体温がまだ確かに残っていた。
 仁王雅治なんてあんなもの、いっそ幽霊であれば世界は平和だ。

 

 

 2007.11.29
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