STAR
ほかの誰かを好きでもいいからと千石が叱られた子供のように眉を下げるから、いい加減なこと言ってんじゃねぇと跡部は怒鳴るしかなかった。笑えなかった。冗談でも本心でも笑ってなんてやれなかった。
ごめんなさいと、千石がうつむく。やっぱり彼はいちばんを望んでいて、跡部には応えられそうもない。
どうにもならないと、わかれ。
祈るようにそう望む跡部の気持ちを踏みにじるごとく、千石は実に神出鬼没に氷帝学園周辺を騒がせ、今日やまぶきがー、と芥川が寝ぼけまなこで寝言みたいに言うたび、そういやあいつなんだっけ山吹の頭ハデなヤツがきのう、と宍戸が薄情にも忘れ去ったらしい名前を思い出そうと首を捻るたび、ねーさっきキヨスミくんがねェ、とクラスの女子が親しげに呼ぶたび、跡部の平静は失われた。恐怖に近かった。千石がおそろしいのではない、あんなやつひとりに何もかもを乱されて授業さえ上の空、教師に体調を気遣われる自分を思うと息が止まる。
部活を終えた夕暮れ、正門の外には、空と同じ色の髪の毛で誇らしげに残照を照り返す男が今日も立っていた。跡部が足を止め、樺地の肩から自分のラケットバッグを引き取って先に帰れと告げると、彼は案じるような表情を見せたが素直に頷き、正門のオレンジ頭に丁寧に会釈をして去って行った。
千石と二人きりになる選択をしたのに、跡部の足は彼のところへ向かえず、地面に張りついて動かない。心と身体が切り離されたこんなときどうすればいいのか、まだ誰からも教わったことがない。独力で学ぶ努力を怠ったツケだ、しかしこんな事態を想定して備えるなんて、いったいどれだけ器用で柔軟で常識はずれの頭をもってすればできる?
「お疲れさま、跡部くん」
「帰れ」
ニコニコと寄ってきた千石に努めて無感情に言い捨てながら、こいつはテニス部であるはずなのにラケットを持ち歩く姿を見たことがないのはなぜだとふいに忌ま忌ましく思った、くそ、思考がごちゃつく。
「うん、帰ります。跡部くんといっしょに」
「俺は迎えを呼ぶ。てめえはひとりでさっさと消えろ」
「なんちゃって、でしょ。跡部くんは自分の都合だけで家の運転手さん使ったりしない人だもんね」
跡部の痛いところを的確について、千石は悪びれた様子もなく得意気に笑みを深める。跡部は苦々しくため息をつき、取り出すふりをしていた携帯をブレザーのポケットの底に戻した。
車道沿いの大通りに出ようとした跡部を制して、千石は住宅街の路地をくねくねと、ゆっくりと、駅へ向かって進路を取った。皆こぞって夕食の支度にかかるだろう時間帯なので、周囲に人影はないに等しい。
「何も気にしなければいいんだよ、跡部くん」
並んで歩きながら、千石がおよそ無理な提案をする。身体と身体のあいだで隠すようにつないだてのひらは熱く、千石の力は強く、ぬるい風が路地を吹き抜けてわずかに手の熱を奪うたび、跡部は情けないほどホッとする。そんなことをくり返しながら、歩く。
「跡部くんはいま常識を一番にして、俺を二番に置いてるけどさ。常識なんてどうにだってなるんだよ、考え方次第っていうの?」
跡部にできて千石にできないことはいくつもあるけれど、千石にできて跡部には決してできないこともたったひとつだけあるのだと、千石はきっと予想もしていない。この期に及んでもプライドが邪魔をするから口に出したことはないけれど、たとえ七日七晩かけてそう教えてやったって、千石はかたくなに信じようとはしないだろう。救いようがなく阿呆で、ときに神よりも強固な意志をかざす男。
「気にしないで、跡部くん」
子供をあやす口調で千石がくり返す。アスファルトに黒く伸びた影、つないだ手がひどく細長く宙ぶらりんに見えて頼りない。握り合う指はこんなに懸命で、感触は確かで、そこからは心臓の音さえ聞き取れるのに。
「俺たちの性別も」
「バカ言ってんじゃねぇよ」
「生まれた国も」
「無理に決まってんだろうが」
「時代も」「星も」「何もかも!」
千石の声が歌うように空に飛ぶ。朱と金の雲が長く尾を引き、滲み合う黄昏と夕闇が世界に蓋をして二人きり、そんないまでさえ、千石の言葉は跡部の腹におさめるには軽すぎて透明すぎて甘苦すぎて喉につかえる。
そこに先があるのかと怒鳴れば千石はまた困った顔をするだろう、おまえと共倒れなんてごめんなんだと吐き捨てれば泣き笑いのように頬を歪めるだろう、本望だよと呟くのだろう。
「無理なんだ、千石」
千石をだめにしたくない、自分もだめになりたくない、拒む言葉に真実がない、手を離せない、失った先をこそ想像するだけで呼吸は止まる、この星で二人生きているという事実だけが、いま、どうにもならなかった。
2005.4.19
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