歯形ミシン
家庭科被服室の日当たりのいい窓際に並ぶ作業台の真ん中で、古びたミシンを相手にひとりぼっちで悪戦苦闘していたら、
「いつになったら終わるんですか」
突然背中に冷ややかな声がぶつかって凛はびくりと肩を震わせた。手元から目を離した途端、にっくきミシンがダダダダダと親の仇をどつくみたいな勢いで暴走を始めて、慌てて作業台の下のペダルから足をのける。縫いかけのパーカーの生地を握りしめて振り向けば、案の定、後ろ側のドアに斜めに肩を預けて心底呆れたとその無表情で如実に器用に語る木手が立っていた。
「あったに声かけんなぁ。危ねーあんに!」
「あのねえ平古場クン」
露骨にため息をつくと、木手は面倒そうに凛へと足を向ける。普通教室を二つくっつけたと同等の長方形の被服室内には、まだ放課後になっていくらもたたず外は十分明るいにもかかわらず凛ひとりのためにすべての蛍光灯が皓々と灯っていて、その余分な明るさゆえかやたら広くてよそよそしく、木手が長机や椅子のあいだを通って自分のところにやってくるまでにも変に時間がかかったように凛は思った。
「三日も居残りしてそのあいだずっと部活出ないでそれでまだ終わらないって、どれだけやる気がないのキミ」
「だぁ、うっせ! わんは不器用なんさぁ」
「調理実習のとき包丁遣いがうまくて女子に騒がれたって聞いたけど? あらら、ガタガタ」
作業台の脇に立って凛の手元を覗き込み、右へ左へと不規則によろめく縫い目を見ると、木手はうっすらと笑った。まだろくにパーカーの体裁をなしていない生地にさわろうとする彼の手を、凛は邪険に払いのける。
「包丁とミシンはちがうばぁ。ミシン怖ぇさ! 指ィ縫えるんどぉ」
「包丁だって指が落ちるでしょ。いい加減それ仕上げて提出して部活出てくれませんか」
「だからぁー、こーやって着替えてよー」
このペースでは今日も決定的に、おそらく明日も明後日だって出られるかどうか怪しい部活のために着替えだけは無駄にすませていることを主張しようと、凛がジャージの上着の裾をつかんでバタバタとはばたきの真似ごとをして見せると、木手は黙したまま鋭く目を眇めた。おー怒りよったぁと凛はにわかにわくわくしたがどうやらそうではないようで、木手は作業台に置いていた右手を眼前に持ち上げて見つめると、呆れたように疲れたように短く息をついた。
「針の管理ぐらいちゃんとしなさいよ」
そう咎めて凛に向けた小指の付け根の脇に、ごく小さく赤い玉が浮いていた。作業台の上に不用意に転がしておいた縫い針か、生地のどこかに適当に刺しっぱなしにしていた待ち針か、いずれにせよいま凛が大げさに動いた拍子に木手の手を傷つけたらしい。
「永四郎、血ィが出てるさぁ」
「見ればわか」
凛が木手の手首をつかみざまべろと血の玉を舐めたので、木手の声は切り落としたみたいに途切れた。手を引こうとするのを許さずつかまえたまま肉に強く歯を立てたら、木手は痛みを訴えも罵りもせず、椅子に座ったままの凛に覆い被さるように身を屈めて、耳元で低く囁いた。
「離さないとね、痛い目見るよ」
言われた意味を飲み込むより早くガリと耳殻を噛まれ、凛はぎゃんと悲鳴を上げて首を縮めて痛みから逃れ、必然的に木手の手を解放しなくてはならなかった。
木手は涼しい顔でてのひらの端に刻まれた赤い歯形をひと舐めすると、何事もなかったように被服室を出て行ってしまった。戸口のところで振り返って眼鏡のブリッジを押さえながら、「今日中に終わらせて明日からは部活出なさいよ。主将命令ね」と非情に言い残すのを忘れずに。
ひとり取り残された凛は耳を押さえて肩を竦めたまま、生地に深く垂直に刺さったきり沈黙しているミシン針と、そこから酔っ払いの足跡みたいに続く無残な縫い目を睨む。木手の手に食い込んだ自分の歯形のほうがよほどまっすぐできれいだった。ミシンが憎い。
2005.5.16
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