雨の日モノマニア
盗品の青いビニール傘の下で慈郎が足を止めたのは、氷帝学園の正門を出てまだ数歩も行かないうちのことだった。雨天特有の鈍色のひかりをわずかこぼす低い空との相乗効果で、安いビニール地を通し深海のように青暗く映る通学路の真ん中に、何かいる。このあたりではそうそう見かけないはずのものがいる。
雨に濡れそぼった真っ黒な髪がいつもの三割り増しヨレヨレくるくるしていて、湿気による余計な髪の巻き具合なら人のことは決して言えないけれど、おおマジでワカメのようだと慈郎が感心しているあいだに、氷帝学園通学路に変則的に現れた立海大付属中生切原赤也はつかつかと寄ってきて、そのカサ、と怒ったように言った。
「そのカサ俺のじゃねえスか」
「はあ? オメエバカだろ、これは俺がさっき野球部のカサ立てにありがとーございますゆって黙って借りてきたんだよどうやったらオメエのになんだよつーかなにやってんだこんなとこで迷子?」
「アンタいつもだけど日本語おかしいね。俺のカサ返してください」
「おかしーのはオメエの頭だよ。聞いてんのか人の話」
傘の柄を握る慈郎の指を見つめる赤也の目の据わりようがなんだかひどく気味悪くて、けれど睫毛の先で震えるごく細かな丸いビーズ玉みたいな雨粒はとてもうつくしくて、慈郎は一歩あとずさる。そして思い出した。先週だか先々週だか赤也の家に遊びに行った帰りに雨が降って傘を借りた。安っぽいビニール傘だった。色は忘れた。あのカサ、あれはどこにやったっけ? ボキン、という鈍い破壊音と手首に走った痺れ、岳人の馬鹿笑いが記憶の底からよみがえる。
「あー……オメエのカサ、は、がっくんとゴルフのスイングの練習するおっさんごっこやっててこわした」
素直に、けれど謝らないままとりあえず白状だけしたら、赤也は失礼なほど長々と特大のため息をついた。大げさに上下した制服の肩に、大粒の雨が次々と落ちては染みてゆく。
「アンタ最悪ですね。知ってたけど、ほんっと最悪」
赤也は俯き、ゆるく唇の両端を吊り上げた。うるっせーなたかがカサの一本や二本で、の部分を省略して慈郎は、
「かわりにこれやる」
と誰のものだかもわからない傘を差し出しながら赤也の顔を覗き込み、だいぶ力が抜けた。安物の極みのビニール傘一本を取り戻しに雨の日にずぶ濡れになって神奈川から東京までわざわざ普段無計画に浪費するばかりのなけなしの小遣いから電車代を絞り出してやってきたのだとしたら見上げた馬鹿で今日限り縁を切りたいモノマニアだがどうやらそれとは別物、しかし正真正銘馬鹿ではあるテニスの才能だけは立派なこの年下の恋人は、
「なんかあったのか赤也」
慈郎が名前を呼んでやると、赤也は慌てたように顔を上げ、な、ん、にもないっス、と不自然に否定した。道でつまづいて転んだまだ小さな慈郎の妹が、健気に涙をこらえているのとそっくり同じ顔をしているくせに。
「入れば」
腕を伸ばして慈郎が再度傘を差し出すと、赤也はするると猫みたいに隣に入ってきた。そして、迷い道から抜けたこどものように安堵に歪んだ不細工な笑みを見せ、傘の柄を慈郎の手の上から握る。
「俺のほうが背ェ高いから、俺が持ちます」
「むかつくなオメエ」
「しょうがねえでしょ、ほんとのことだもん」
慈郎は思い切り赤也の尻を蹴飛ばした。赤也はよろけながらも慈郎の手を強引にこじあけて傘を捨てさせ、そのまま腕の中に慈郎を引き寄せた。
傘なんて。
会いにくんのにいちいち理由つけてんじゃねーよ。
2006.8.20
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