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 霧雨の降る冷えた秋の朝、点在する紅葉がひどく色褪せて見える通学路で、景色に溶け込んでしまいそうなくすんだ後ろ姿を見つけた。
 赤也は小さく息を飲み、勢い目を伏せる。黒く湿ったアスファルトと亀のようにしか歩めない憶病な自分の靴先をしばらく見つめてから、そろりと顔を上げると、仁王の背中は消えることなくまだそこにあった。当たり前だ。人間は景色に溶けて消えたりしない、どんなに同じ色をしていても。
 でも、と赤也は傘の柄を握りしめる。すこし歩調を速めれば、ほんの数歩でも走れば簡単に隣に並べるほど仁王の背中は近い。走る勇気のないまま、でも、と赤也はまた思う。
 今日がまだ秋だから、冬みたいに寒いし分厚い雨雲と煙る雨粒が紅葉を易々と沈黙させて世界は無彩色だけれど、どうしたってまだ秋だから、仁王はここに留まっているに過ぎないのじゃないだろうか。本当の冬がくれば、景色にでも空気にでも簡単に溶け入って消えてしまうのじゃないだろうか。
 ありえないとわかっている、さすがの詐欺師も人でないものには化けられない。ありえないことをわざと考えてありえないと自らに言い聞かせる、そんな浅ましい方法で安い安心を得ている自分に赤也は苦々しく奥歯を軋らせる。仁王がいなくなってしまう気がしてこわい、そもそもそんなことを考える自分が情けなくて仕方なかった。
 全国大会閉幕にともなう三年の引退、しかし実際はそんなもの単なる形式で、数名の外部受験者を除けば皆いまでも三日に上げずコートを訪れている。幸村や柳のように請われてコーチを務める者や(真田はけじめがどうとか言って部活にはきても指導には加わろうとしない)、ただ金と手間をかけずに打ちたいという丸井みたいな不届き者、皆理由はそれぞれだったが、共通しているのはテニスが好きで、この立海大附属中テニス部に在籍していた自分に誇りを持っているということだ。
 そんな中、仁王だけは滅多にコートに姿を現さなかった。ごくたまに柳生や丸井と連れ立ってやってくることはあっても、スタンドでぼんやりしているだけでラケットを持とうとはしなかった。そもそも引退のあと、仁王はラケットを持って学校にくることがなくなった。
 あの最後の夏以来、赤也は、仁王が打っている姿を見ていない。
 仁王がテニスやテニス部に早々に見切りをつけたなんて思っているわけじゃない、そう思わせる要素がいかに多く重なろうとそんな人じゃないと知っている、だけど、それでも、あの曇った冬色の詐欺師の中には赤也を安心させてくれる材料なんてひとつもないのだ。
 溶けて消えるわけがない、だからいますぐつかまえる必要なんてぜんぜんないと思っていたのに、赤也は強く地面を蹴って走り出していた。途端に無数の細かい雨粒が顔に吹きつけ、まつげにとまった極小のビーズみたいな水滴が視界の端を揺らがせる。傘なんてなんの役にも立たないと思えばなぜだか無性に悲しくて歯を食いしばる。
 三歩で追いついて赤也が横に並ぶと、仁王は表情すくなに視線を斜めに下げ、おはようさん、と言った。赤也の傘から飛んだ水滴がひと粒、血色の悪い頬の上ではねた。気にした様子もなく、赤也の表情をよく見ようとするかのように仁王は自分の傘を背中のほうに傾ける。
「どうかしたんか」
「え?」
「おかしな顔しちょる」
 赤也は、頭を抱えてうずくまりたくなった。叫びたくなった。仁王のことを考えると不安で不安でたまらない、それが仁王の目にはおかしな顔としか映らないのなら、俺は笑っちまうほど哀れで滑稽だ。
「あんた、何やってんスか」
 憎しみすら込めて、赤也は仁王を睨んだ。
「いつになったら思い出すんスか」
(テニスを? それとも、)
 そうしたら、今度は仁王がおかしな顔をした。まったく意外な、まるで自分の真実に当てはまらないことを言われたみたいに驚いた顔をするものだから、掛け値なく変だった。
 さ、先にいきますと口走り、赤也は逃げるように仁王の隣から走り出す。
「切原あ」
 追いかけてくる仁王の声に条件反射みたいに止まりそうになる足を必死で動かした。
「今日部活出るけえ、放課後迎えにきんしゃい」
「い、いやっス!」
 止まらず、振り返らず、赤也は声を張り上げる。なんだこれ。稀代の詐欺師のあんな一瞬の本当の顔だけで不安が跡形もなく溶けてなくなるなんて、
「おまんと、テニスしちゃるき!」
 なんだこれ!

 

 2008.11.18
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